よなきうぐいす

 わたしたちの学園は、硝子張りの天蓋で外界から切り離されています。

 理由は簡単で、おんなのこは柔らかく、繊細で、かたちが定まるまでは外界のあれこれは刺激が強すぎるから。卒業の日までには、立派なおんなのことして学びを終えて、外界に出られるようになるのだと先生たちは口をそろえて言います。

 もちろん、世界の全てのおんなのこがそうでないことは、わたしにもわかっています。私と同じくらいの年頃でも、おとこのことおんなのこが一緒に学ぶ学校がたくさんあるということも。しかし、それは先生たちのいう「立派なおんなのこ」になるための手続きとはかけ離れているのだといい、この学園の理念には反しているのだといいます。詳しいことはわたしにはわかりませんが、わたしはこの学園しか知りませんから、そういうものなのだ、と思うことしかできずにいます。

 もちろん、外界と通じるもの――携帯電話をはじめとした通信機器の持込は禁止されていて、家族や外の友人と連絡をするためには、寄宿舎にいくつかある電話を使う必要があります。唯一、制限がない通信といえば、それこそ己の手で認めた手紙くらいでしょうか。

 ああ、いいえ、もうひとつだけ。

 寄宿舎の談話室の片隅に、どうにも調度品とはかみ合わない埃っぽいパーソナルコンピュータがひとつ。通信は極端に制限されていて、ものを調べるなら、図書室に向かった方がよっぽど早いくらいです。

 それでも、電子メールをやり取りするには、その、たったひとつのコンピュータを使う必要があるのでした。メールだけは制限されていない――ただし、メールのやり取りの中身は先生に見えるようになっているといいます――ので、寄宿舎の中でも数は少ないのですが、コンピュータを利用している人もいます。

 いいえ、もう少し正確に言いなおしましょう。

 わたしが消灯前に談話室に訪れると、そこにはいつも女史がいます。そもそも寄宿舎のコンピュータを使う物好きなど、女史しかいないのでした。何しろ、家族への連絡は電話で事足りますし、メールをわざわざ出すような相手もわたしにはいませんし、他の子たちもきっとそうでしょう。

 そんな中で、女史だけはいつも消灯ぎりぎりの時間まで、コンピュータに張り付いて、わずかにちらつく画面を食い入るように見つめているのでした。

 ――いつからか。あの、もう誰のものかも思い出せない「墓場」を見た時からか。

 わたしは、以前よりもずっとよく、女史を見つめるようになりました。ふと視界に入ったときに見惚れるだけでなく、彼女が普段はどんなことをしているのか、彼女は何が好きで、何を苦手としているのか。そんな、共に過ごしていれば当然わかるようなことを、わたしは何ひとつ知らないまま女史と同じ教室にいたのだと、あの日に初めて気付いたのです。

 近寄りがたいひと、というのはわたしの勝手な思い込みで、女史はわたしを鬱陶しがることもなく、時には気さくに話に応じてくれました。言葉を交わしていても女史とわたしの間にはまだ弾力のある壁のようなものを感じますが、それでも、女史と他愛のない話をしている間は、女史の鴉の濡れ羽色の髪も、その憂いを秘めた目も、ほんの少しだけ笑みを浮かべることのあるさくらの花びらを思わせるちいさなくちびるも、わたしひとりのもののように思えたのです。

 いつから女史とそんなに仲良くなったのか、とこっそり耳打ちしてくるおんなのこもいましたが、それはわたしと女史だけの秘密。女史は「秘密」とは言ってはいませんでしたが、わたしが秘密にしておきたかったのです。そうすれば、わたしと女史との時間は、誰にも邪魔されずに済みましたから。

 ……けれど。けれど、この時間だけは、わたしの心をざわめかせる時間だったのです。

 消灯時間直前の、わたしたち以外に誰もいない談話室には、女史が叩くキーボードの音だけが乾いた音を響かせています。かたかた。かたかた。かたかた。

 女史はわたしの存在にも気づいた様子はなく、しらじらとした横顔を画面に向けたまま微動だにしません。その視線は、きっと、今日も画面に映るメールの文面を一文字余さず読み取っているのでしょう。

 どうしても、わたしはそんな女史の横顔を直視することができずにいます。今も、なお。

 何故なら、女史の横顔は画面を見つめたまま普段見せているそれよりもずっと深い憂いに沈んでいるのですから。誰にも、それこそわたしにも見せない表情を、誰でもない、ただ文字列だけを映し出す画面に向けているということ、それ自体がわたしの心をざわつかせて仕方ないのです。

 ……つまり、そこに映し出されている文字列は、誰よりも、何よりも、女史の心を動かすものであって。同時にそれが女史の「大切なひと」からの文であるとわたしが知っていたからに他ならなかったのです。

 女史に「大切なひと」がいると聞いたのは、いつの話だったでしょうか。

 夕日の差し込む二人きりの教室だったでしょうか。不気味な標本の並ぶ理科準備室でしたでしょうか、それとも、しん、と静まり返った音楽室の片隅だったでしょうか。時折、女史は何かを視線で追うような仕草をすることがあることを、この頃のわたしはもうわかっていました。わたしには見えない、何か。それが何なのかどうしても知りたくて、口ごもる女史に問い詰めたのです。

 大したことはないですよ、と「言い」ながらも、女史は。

 わたしの見たことのない、苦しげな、それでいて熱を帯びた視線で「言った」のです。

 ――「大切なひと」のことを、思い出していたのです。

 それはもう卒業してしまった、学園の先輩なのだと女史は教えてくれました。ですから、学園にいる限り、そのひとの姿が見えるはずはありません。それでも、つい、そのひとと過ごした記憶を追ってしまうのだといいます。わたしと、共にあるその時ですら。

 わたしが、女史にとってそこまでの存在でないと言ってしまえばそれまでです。女史がわたしのことをどう思っているかなど、一度も直接聞いてみたことはありませんでしたから。女史の心の中に焼きつく「先輩」のことを聞いてしまったら、尚更、わたしの臆病が問いかけを喉の奥に閉じ込めてしまうのです。

 女史、あなたの目には何が見えているのでしょうか。

 そこには、あなたの心を動かす何が書かれているのでしょうか。

 それは、あなたの過ごしている「今」よりもずっと大切なことなのでしょうか。

 声にならない声で、返ってこない問いかけだけを頭の中にいくつも並べ立てていた、その時でした。

 ――もう、消灯時間ですかね?

 不意に女史の声が「聞こえ」ました。いつの間にか、女史はわたしがそこで見ていたことに気づいていたようで、重そうな瞼を持ち上げて椅子の上からこちらを見上げていました。

 柱時計に視線を走らせれば、消灯十五分前。少しくらいは消灯時間を過ぎても寮監は見逃してくれますが、そろそろ部屋に戻った方がいい時間なのは間違いありません。

 それでも、それでも、わたしはつい、女史に問いかけていました。

「また、『先輩』からのメールですか?」

 そのつもりはなかったのに、ざらざらと、醜い赤い棘がくちびるから零れ落ちてしまったような嫌な感触がしました。女史は果たしてわたしのくちびるから落ちた棘に気づいたのでしょうか、それとも気づいていなかったのでしょうか、うっすらと色づいたくちびるを少しだけ持ち上げてみせました。

 ――そう。……こんなもの、さっさとやめてしまえればいいのに。

 その「こえ」は、わたしの想像したものよりもはるかに冷たく、どこか、捨て鉢な響きを帯びているように思えて、わたしはびっくりしてしまいました。先ほどまでの、何かに焦がれるような横顔はどこにも見えなくて、こちらを見上げる顔に張り付く表情は、……わたしに女史のうっすらとした表情の違いを正しく見分けられている自信はありませんが、それでも、自嘲、のように見えました。

「それでも、女史は毎日メールを、見ていますよね」

 ――やめてしまったら、二度と続かないでしょうからね。

 あなたも経験はありませんか、と女史は問いかけてきます。遠い昔、たとえば遠くへ越してしまった友人と手紙のやり取りをしなかったか。そうでなくとも、恩師に年の頭に手紙を送らなかったか。それを、一度やめてしまったら、もう二度と手紙を書くことなどなくなるということを。

 そのように、わたし自身の近しい経験として落とし込んでみれば、いくらでも思い当たるふしはありました。机の中にしまいっぱなしの愛らしい音符模様の便箋と封筒は、誰のためのものだったでしょうか。もう、それすらも、思い出せないことに気づきました。

 だから、女史はメールを綴るのだと。そうせずにはいられないのだと「言い」ました。まるで、本当はそんなこと、望んでいないかのように。

「メールの相手は、女史の、大切なひと、なんですよね」

 ――そうですね。大切なひとでした。当時の自分にとっては。

 かたり、とエンターキーを押した女史は、メールの送信画面を見るともなしに眺めながら、「言う」のです。

 ――今は、「今の」先輩のことがなにもわからずにいます。

 日々言葉のやり取りをしているのに、通じている気がしないのです。

 女史の「こえ」は空気を震わせることはなく、あくまで意味だけがわたしの中に届くのですが、そこに、一抹の寂しさのようなものが含まれているように感じられたのは、果たしてわたしの思い違いでしょうか。

 女史は、ぽつり、ぽつりと、わたしが求めたわけでもない「先輩」の話を吐き出していきます。最初は、その、顔も知らないひとに棘々しい感情を抱いていたわたしも、女史の言葉を聞いていくにつれ、不思議と、わたしと女史との境界線が消えていくように感じられるのでした。

 先輩は、きれいなひとだったのです、と。女史は「言い」ました。

 わたしから見れば「きれいなひと」とは女史のことに他ならなかったのですが、その女史が「きれい」だと思ったのは、後にも先にも「先輩」一人だったのだそうです。

 わたしは今の女史しか知りませんが、かつての女史も、そう友人の多いほうではなく、ひとりで教室で過ごしていたことが多かったのだといいます。閉じた硝子の天蓋の下、教室と寄宿舎とを行き来するばかりであった女史の手を引いたのが、「先輩」だったのだと女史は「言い」ます。

 ――あの、校舎裏のお墓も、元は先輩が作っていたものなのですよ。

「誰」を葬ったのかは定かではないけれど、ひっそりと存在するおんなのこの墓。その中のいくつが女史の手によるもので、それ以外が「先輩」の手によるものなのか、わたしにはわかりませんでしたが、女史の不思議な癖が「先輩」のものだとわかると、また、引っ込みかけていた棘がこぼれてしまいそうになり、慌てて飲み込みます。一度こぼしてしまったものですが、それでも、女史にはできる限り、この棘は、見せたくなかったのです。

 だからといって、女史は「先輩」にそれ以上の特別な思いは抱いていなかったのだと思います。もしくはそう思いたいだけなのかもしれません。わたしが。

 女史の話は淡々と続いていきます。淡々と、淡々と。

「先輩」は卒業してしまって、それからは、メールでのやり取りになりました。手紙よりは少しだけ早く、少しだけ多くを物語れるから。女史は卒業してなおそのひとと、できる限り多くを話したかった。たくさんの言葉を交わしたかった。

 ――けれど、本当にそれでよかったのか、わからないのです。

「先輩」のメールは、いつも近況を告げるところからはじまります。それはほとんど、楽しくやっている、周りはよい人に恵まれている、という類のものなのだそうです。それから、女史の言葉にひとつひとつ、丁寧に答えていくのだといいます。その人が、学園を去る前と何一つ変わらない。その「言葉」だけ取れば。

 ただ、どうしても、女史にはその「言葉」が信じきれないのだと、軽く首を横に振ってみせるのです。

 かつて、「先輩」が側にいたときには、そのひとが笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか、それとも困っているのか、どれだけ誤魔化していたとしてもひと目でわかりました。「先輩」が、一体どんなひとを好んでいて、どんなひとを嫌っていて、誰とどのような付き合いをしているのか、全てではないにせよ、女史にも見えていたはずなのです。

 だから、女史はどこか苛立たしげに乱暴に踵で床を蹴り、ほんの微かに眉を寄せるのです。

 ――今、先輩がどのような顔をしているのか。こんな言葉では、何もわからないでしょう?

 画面に並ぶのは無機質な文字列。光のオンとオフで構成されている、人の感情を交えることのない、ただ意味だけを伝える記号の羅列。そういう意味では女史の「こえ」も近いような気がしましたが、女史はわたしが思っていたよりもずっと表情豊かなひとであったから、その喩えは適していないのかもしれません。

「Re:」から始まるメールはいくつも続いていて、「先輩」と女史とのやり取りの長さを感じさせずにはいられません。ちくちくと痛む胸、けれど、どうしてでしょう、女史の方がずっとずっと苦しそうに見えるのです。

 女史はくちびるを開かないまま、ただただ「こえ」をあげるのです。

 ――大丈夫よ、心配しないで、私は楽しくやっているわ。……なんて、そんな他愛のない言葉のひとつひとつが、何一つ嬉しく感じられないのです。先輩のその言葉が真実だとしたら、尚更。

 わたしの脳裏に閃くのは、わたしに背を向けて駆けていく女史の姿でした。制服の裾を揺らして軽やかな足取りで、その向こうにいるたくさんの「誰か」の元に向かっていく女史。いいえ、わたしが見ているのは女史ではなく、女史から見た「先輩」でしょうか。

 ――言葉を重ねるたびに、先輩の言葉がゆっくりと冷えていくように感じるのです。おかしいでしょう、同じただの「文字列」に過ぎないのに。

 ああ、女史は嘲笑ってみせるけれど、わたしにはわかってしまうのです。女史のその感情が、今、わたしの中に巣食っている赤い棘と同じものであることを。今、「先輩」に女史の手を取られることをわたしが何よりも恐れているのと、きっと同じ。

 女史は、「先輩」の手が自分から離れることを恐れているのです。もしくは、既に離れているということを自覚することを。

 ――気遣いの言葉だって決まりきったリプライ。一通目から今までを通して見比べてみれば、ほとんど同じ文面の繰り返し。

 頭ではわかっているのです、と女史は「言う」。この学園での生活は、そう大きく変わることなどありえないのです。故に、女史が記せる内容自体が同じようなものばかり、「先輩」からの回答も当然同じようなものになるに決まっている、決まっている、のですが。

 ――先輩に、自分の言葉は伝わっているのでしょうか。

 ――先輩は、本当にこちらを思って返事をくれているのでしょうか。

 ――この「こえ」は、泥の中に飲み込まれているだけで、先輩には届いていないのではないでしょうか。

 ――本当の先輩は、もう、自分のことなんて忘れてしまっているのではないでしょうか。

 女史の「こえ」に抑揚はなかったけれど、キーボードを置いた机に肘をついて深く俯き、細く折れそうな指で己の顔を覆って、搾り出すように、最後の言葉を「吐き出した」のです。

 ――そう、思ってしまう自分が何よりも醜くて嫌いだ。

 ああ、わたしは、まだ、女史のことを何もわかっていなかったと、その時初めて気づかされました。級友に見せてない表情を見てきた、というだけで、女史について誰よりも詳しく知っているような、そんな優越感に浸っていたのだと。

 でも、それは何一つ正しくありませんでした。

 わたしは……、多分、今この瞬間まで、女史が「とくべつ」だと思っていたのです。それが、わたしが勝手に女史との間に感じていた柔らかな壁の正体。

 女史はひとりであるのが当たり前だと思っていました。女史とはそういうものなのだと思っていました。穢れなく、透明で、凛として。孤高、であるからこそうつくしい、そういうひと。だから、わたしも女史と共に時間を過ごすようになった今でさえ、こうして、一歩分の隙間を空けて立っていたのです。わたしが、女史を穢すことがないように。この胸に渦巻く棘で、女史を傷つけないように。

 けれど、今、女史が吐き出した「こえ」は、わたしが口から吐き出してしまうものと同じ棘をいっぱいに含んでいて。わたしが顔も知らない「先輩」へのとめどない感情をそのまま吐き出していました。

 だから、今、この時ばかりは、わたしと女史の間の壁がなくなって。

 そう、頭で理解する前に、わたしはつい口を開いていました。

「女史」

 わたしの呼び声に、顔を覆っていた女史がゆるりとこちらを見上げました。今まで見たことのない、ひどい顔でした。ありとあらゆる、健全とはいえない感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った顔。自分自身が嫌になってしまう日のわたしと同じ、顔。

 そんな女史の頬に、そっと指をかけます。女史の頬はひんやりとしていて、そして、しろい肌のきめ細やかさが指から伝わってきました。それでも、女史の頬は確かに人並みの柔らかさをしていました。つくりものではない、わたしと同じ、おんなのこの感触。

 女史は虚ろな目でわたしを見上げます。果たして、今の女史にわたしは見えているのでしょうか。わたしではなく、はるか遠く、ここにはいない「先輩」を見ているのでしょうか。わたしにはわかりません。

 そう、女史の気持ちも、「先輩」のこともわたしにはわかりません、けれど、女史にはわかってもらいます。わたしの、気持ちを。

 女史の頬から顎に指をかけて、こちらを向かせて。

 わたしは、その、淡いさくら色のくちびるに、くちづけるのです。

 くちびるからこぼれる棘も、その源である女史への想いも、全て、全て、口移し。

 それがわたしの「魔法」。女史は「こえ」を伝えるけれど、わたしは「こころ」を伝えます。くちびるとくちびるを触れ合わせた一瞬だけ。その時抱えている思いを全部、全部、きれいなものも、きたないものも、なにもかも、なにもかも、「わたし」という器から、「女史」というもうひとつの器に分け与える、そんな魔法。

 くちづけはほんの一秒にも満たない、触れ合うだけのもの。それだけでも、わたしの言葉にならない「想い」は伝わってくれたのだと思います。ぽかん、と。初めて、女史がいつも半分ほど伏せている目を見開いてわたしを見上げました。

 それから、少しだけ、指先に伝わる女史の頬が、熱を帯びるのを感じました。わたしの眼に映る女史は……、頬を赤らめて、くしゃりと顔を歪めて、今度こそ間違いなく「わたし」たった一人を見ていました。

 ――ほんとうに?

「嘘なんてつけませんよ」

 そう、おんなのこの魔法は嘘をつけません。わたしのように、「こころ」をそのまま伝えるような魔法なんて、尚更。

 嘘なんかではないのです。わたしの、女史への想いは。

 女史は戸惑うように二、三回瞬きをして、それから改めてわたしを見上げました。頬を真っ赤に染めたまま、先ほどまでの鬼気迫る渦巻く感情もすっかり抜け落ちた、顔で。

 ――つまらないでしょう?

「つまらなくなんてありませんよ」

 ――あなたに何ができるわけでもありませんよ?

「わたしだって、そうです。でも、これがわたしの気持ちです」

 わたしの、偽らざる、「こいごころ」です。

 恋、とは決してうつくしいものではない、と言ったのは友達だったでしょうか、それとも先生だったでしょうか。確かに、まるできれいなものではありませんでした。身の中から吐き出される棘、じくじくとゆっくり炙られるような胸の痛み。

 だからこそ。だからこそ、これは「恋」だと思ったのです。

 わたしは。

 このひとに。

 こいを、している。

 ――もっと。ずっと。たくさん、傷つけるかもしれません。

 そっと、頬に添えたわたしの手に、震える冷たい指先を絡めて。女史は「言い」ました。なぜか、今にも泣き出しそうな顔で。

 女史は「こえ」を伝えることしかできず、わたしは「こころ」を伝えることしかできません。だから、わたしは女史の「こころ」がわかるわけではありません。それでも。

「傷つけてくれても、いいです。わたしに、傷痕を残してください」

 恋とは痛みを伴うものであると、わたしは、覚悟をしています。

 女史はわたしの答えを確かめるように、強く、強く、爪が食い込むような強さでわたしの手を握り締めて。

 それから、片手でわたしの首の後ろに手を当てて、今度は――女史が、わたしに、くちづけました。

 今度は、触れるようなくちづけではなく、ずっと、ずっと、深く。消灯のチャイムが鳴るそのときまで、女史はわたしからくちびるを離すことはありませんでした。

 それこそが。

 女史の、「こえ」よりもはるかに確かな、こたえでした。

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