第2話
潮の匂いがした。
9月の始めだ。日差しはまだ強い。
「まったく、東京じゃこの日差しの中でスポーツ大会だ。正気じゃ無いな」
長身の男がぼやいてみせる。
「政治的な都合を優先してセキュリティを疎かにする。権力者お決まりの行動さ」
潮風が二人を包み、一瞬だけ暑さを吹き飛ばしてくれた。
風の中にほんの少しだけ、秋の息吹が混じっている。
「ここらにしよう」
そう言って長身の男は船のエンジンを止めた。
「もう少し海岸から離れたい」
眼鏡の男が不満そうに呟く。長身の男は首を横に振った。
「海の待っただ中で船を安定させるのは難しいんだ。作業をするには、きちんと船を固定出来る場所の方が良い」
碇を降ろし、擬装用の釣り竿を立て始める。
海岸に親指を向ける。
「それに、これだけ距離があればこっちが何をしているかは見えないだろう」
確かに海岸は見えるが、人の形がかろうじて分かる程度だ。
眼鏡の男は、もう一度周辺を見渡した。
「他の船が近づいてきたりはしないのか?」
「釣り船同士のマナーがあるからな。普通は一定以上の距離に近づいてこない」
「普通、か」
「ああ、普通なら。とは言え関西人だからな。興味を引くモノがあったら、ずかずか近づいてこないとも限らない。目立たず素早くやるのが一番だろう」
いささか偏見の含まれた発言だったが、眼鏡の男は納得したようだった。
「そうだな。完璧を求めてもしかたがない。むしろスピードの方が重要だ」
長身の男に薄手の手袋とタオルを投げる。
「ここから先は指紋を残すな。汗も落とさないように注意しろ」
「了解だ。へまはしたくない」
長身の男は頭にタオルを巻いた。汗が滴り落ちないようきつく結ぶ。
まずは作業場所の設定から。
塗料や繊維の微細な欠片が船に残るのを防ぐため、ブルーシートを広げる。
「袋を開けてくれ。作業を始めよう」
長身の男は言われるままに積み込んだ袋を開けた。
中からカーボン製のパイプを引きずりだす。
「イメージより細いな」
「載せる重量は大したものじゃない。人間が乗らない分、負荷は自転車よりも軽いぐらいさ。だが落としたりするなよ。カーボンは衝撃に弱い。作業は優しく、だ」
長身の男は一瞬手を止め、慎重にパイプを並べ始めた。
「女を扱うように、か?」
「済まんがその点についてオレはあまり優しくない。だが。君の好みがそうなら、そんなイメージで頼む」
「手順を説明するぞ」
パイプにはそれぞれ番号のシールが貼ってあった。
眼鏡の男はマニュアルを見ながら番号を確認した。その指示に従って長身の男がそれを並べて行く。
パイプの準備が終わったら、別の袋からメインユニットを取り出す。
メインユニットなどと大げさな名前が付けられているが、実際は単純なものだ。強化プラスチック製の台座にエンジン、燃料タンクなどを組み合わせて固定しただけの代物。
強化プラスチックの台座には取付用の金具が付けられており、そこに先ほどのカーボン製パイプを留め、接着する。
微妙にカーブしたそれが飛行機の胴体、その骨組みとなっていく。
こいつは非常に合理的なやり方だな、と長身の男は思った。
パーツを順番通りに組み合わせて接着剤で固定するその作業は、サイズだけ大きいプラモデルの構築のようだ。言ってしまえば非常に単純。
これなら、マニュアルさえあれば誰でも組み立てが出来るだろう。
胴体の大枠を作った後、長身の男はこわごわと別のケースを開けた。
中から、液体の入った二リットルサイズのペットボトルを取り出す。
ジュースのラベルはそのままだった。
「本当に只のペットボトルかよ。うっかり噴き出したりしないんだろうな」
「一応はそのはずだ。日本製のペットボトルは頑丈だと聞いている」
「おいおい、一応って」
「このキットに保証書は無い。慎重にやってくれ」
長身の男は、どうにもぞっとしないといった表情を浮かべる。
「言ったろう? 中身は唯の農薬だ」
眼鏡の男は、落ち着いた態度で応じた。
「もっとも希釈はされていない。危険は危険だ」
「普通はどれぐらい薄めるんだよ」
「千倍ぐらいにするらしい」
「・・・・・・マジか」
「なに、洗い流して直ぐに病院に行けば死ぬことはないだろう」
溜息を一つついて、長身の男はその言葉を信じることにした。
本当に危険な薬物なら、ガスマスクぐらいは着用するはずだ。だが、相手はそんな素振りを見せていない。中身が致死性の物質ではないのは本当だろう。
「海の上で農薬塗れになった理由をどう説明する? 言い訳がかなり苦しそうだ」
「適当に話を合わせてやるよ。じゃあ、頼んだ」
そう言って眼鏡の男は数メートル後ろに下がった。
「おいおい、俺だけかよ!」
「二人同時に浴びたら誰が助けるんだ? いざとなったら海に飛び込め。なんとか後で回収してやるさ」
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