最終話 悲願唄


 覚と隠れ座頭との死闘の後からしばらく経ち、日が沈んで足元も見にくくなる闇の時間。彼は災霊が放つ負の気配を追って寺を北上していたが、ついに災霊に追いついたのであった。

 しかしそこで覚が見た光景は思いもよらないものであった。

 まず目に映ったのは冷泉である。彼女は傷だらけになって倒れていた。あちこち擦り傷だらけで、ほんのわずかな血だまりがてきていた。

 そしてその脇には災霊の少年が立っていた。涼しい顔で冷泉を見下ろしていた。

 熱いものが頭に沸き上がり、すぐに駆け出そうとした覚だったが、その前に災霊が口を開いた。

「まさか人間が霊体の僕に殴りかかるとはね、さすがにそこまでは予想できませんでした」

 地を削りながら踏みとどまり、腹部の痛みを抑えてシャベルを構える覚に、災霊は困ったように眉をハの字に曲げた。

「僕は何もしていませんよ。結局、最初から最後まで。ああ、お嬢さんは僕をすり抜けてそのまま倒れただけです。生きていますよ」

「……本当に、そいつの声はどうしようもないのか?」

「これは予想ですが、声については彼女の心の問題だと思います。そもそも昔の僕はもっと負の感情をばらまく力があった。それこそ通り過ぎるだけで近くの人間が絶望して死ぬくらいに。それが今や――」

 災霊は手を広げて見せる。

「こんな姿になってしまうくらいに。実を言うと、僕はいつ消えてもおかしくないところまで弱っているんですよ。だからお嬢さんも中途半端に僕の影響を受けて、声が出なくなっちゃったんじゃないかなあ」

「なら、声が出るかどうかは、こいつの気持ち次第ってことか」

「そうでしょうね。でも、お嬢さんはここまで頑張ったんだ。こういう風に頑張れる人の努力はきっと報われる。僕はそう思ってますよ」

 ほんのわずかだが、黒曜石のような災霊の瞳に慈しみが輝いた。

「……お前たちが人間を滅ぼしかけたって話だが、災霊はよくわからないもんだな」

「そうかな?僕からすれば、君もなかなか不思議な存在だけどなあ」

 不意に意識を向けられ、覚は眉をひそめる。

「君は本能に生きていると思いきや、半分以上は自我で生きている。自分の欲に従っているようで、他人のことを一番に考えて動きもする。不思議だけど、だからこのお嬢さんの味方でいられたんでしょう。妖怪であり、人間でもある。君はもしかして――」

「どうかな」

 覚は災霊の言葉を遮る。

 もう言うことは言い切ったのだろう。災霊は踵を返してゆっくりと歩き始めた。

「二度と会うことはないでしょう。僕は予定通り北に行くので、追いかけてこないでくださいよ?」

「誰が追いかけるか」

「ですよね。では、さようなら」

 災霊は闇に溶けるように立ち去った。遠くに行ったような気もすれば、案外まだ近くにいるかもしれない。


 

 自分の身体が何かに乗っかっていると冷泉が気付いたのは、辺りが完全に夜の暗さで飲み込まれたころであった。

 目の前に誰かの後頭部がある。それが覚のものとわかり、自分は覚に背負われているのだと理解するのに時間はかからなかった。

 ……最初のときも、背中に乗せてくれましたよね。

「そうだな」

 沈黙。覚はそのまま歩き続け、冷泉は全身の傷がヒリヒリと染みるように痛んでいたが、今はあまりそちらに意識が向かなかった。

「……声、出そうか」

 やはり聞かれた、と冷泉はドキリとした。災霊を殴りつける前までの記憶があり、次に気が付いたら覚の背中である。全て終わったのだ、と察しはついた。

 ちょっと、怖いですね。

 ここまできたが、もし声が出ない現実が待っているのだとしたら、耐えられる自身が正直なところないのだ。

「お前はあの災霊に勝った。少なくとも、俺はそう思う」

 冷泉の目頭が熱くなる。覚の両肩から腕を回し、ほんの少し強く抱きしめる。

「それに、お前の唄を聞いてみたいからな」

 今度は顔が熱くなる。そういえばそんなことを言ってしまったような。勢いで。

 ……えーと、多分、下手ですよ。

「俺は唄の上手い下手がわからん」

 歌詞もうろ覚えですし。

「知ってるところだけでいい」

 ……ああ、もう。しょうがないですね。

 冷泉は深く、深く息を吸い込む。

 あの時のことを思い出す。今でも鮮明に覚えている。同じだった。

 ただ、目の前の人とこの世界で共にいられる、願いと希望の唄を歌うのだ。

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