第32話 冷泉
冷泉は覚へ最後になるかもしれないメッセージを投げつけた後、その直後から聞こえた金属がぶつかる音に惑わされることもなく本堂の跡に向かった。
しかし、冷泉に目にはあの災霊の姿はどこにもなかったのだ。石段や崩れた本堂の影、お水舎の石像の後ろ。近くの物陰を探してみても、どこにもいなかった。
どうしよう、と冷泉の心の中でその言葉が繰り返される。
……落ち着きましょう。
本堂の正面で冷泉は息を整える。そういえば、最初に災霊の前に立っていた時と比べ、胸にこみ上げてくる出どころの知らない恐怖や不安はまだ、それほどでもない。
ということは、もうこの寺の中にはいないということだ。
――僕は今度は北に行くことにします。
気を失う前に聞いた、災霊の言葉が思い返される。
北。もしかすると、もう災霊は移動を始めたのかもしれない。
そう考えた直後、石畳をこするような音が冷泉の耳に届く。
それは妖怪の立てた音だった。見ると、遠くにやせ細った犬のような姿があった。ほとんど闇夜に包まれた境内に、銀色に光る双眼が蠢いている。
……迷っている場合じゃなさそうですね!
冷泉は壊れた本堂を迂回して、その裏にある北側の出口を目指す。
実は冷泉には災霊にもう一度会ったところで、どうするかというプランはなかった。正真正銘の無計画である。
しかし、やはりあの災霊が冷泉の声が出なくなった原因である、という部分は変わりないのだ。それは災霊自身が認めていた。だからあの災霊に文句の一つでも言ってやらねば気が済まないし、ここで災霊が去るのを見送ってしまうと、この人生でどんな夢を見ても一度として叶えられなくなってしまう、そんな気さえしたのだ。
だから、走った。
北へ、北へ、北へ。
寺の敷地を抜けて広めの道路に出る。そのまま横断し、植物に覆われた建物の間を駆け抜ける。
真っ直ぐ、北へ。どこまで災霊が行ったかわからないが、とにかく走り続けた。
ガクンと身体が傾く。受け身なんて取る余裕もなく、ひび割れたコンクリートの地面を転がる。
視線を足へ向けると、あちこちに擦り傷が刻まれ血がにじむ両足が理由もなく震えており、それで転んだのだろうと気付いた。そういえば災霊は、次は自分にもう近づけなくなる、ということを言ってたような気がする。
しかし冷泉はこれで、自分が災霊に追いつき始めていると確信する。
まだ、間に合うかもしれない。
転んだ拍子にほどけた左足首の包帯を引きちぎり、口元を覆い始めていた鼻血をぬぐって立ち上がる。
まだ、まだ!
自分が出せる最高速のために、がむしゃらに腕を振る。スケッチブックはいつの間にかどこかへ落としてしまっていた。冷泉はそんなことに気付きもしなかったが。
道に広がる建物の瓦礫を飛び越える。
着地と同時に履物が破れたが、冷泉は止まらない。
地を蹴るごとに足の裏に小石が刺さるのを感じる。
痛い、ひぃ、痛い。
それでも、しかし、それでも冷泉は足を止めない。
痛みを押し殺せ、感じるエネルギーがあれば少しでも速く駆け抜けるために使え。
また足が震えてコントロールを失う。よろけたが、バランスをとって転ぶのを防いだ。
ふくらはぎを思い切り殴って震えを止める。
何度もよろける。その度に、声に出せない叫び声を上げながら走り続ける。
永遠にも続くような道のりを、止まることなく駆け抜けた。
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