第27話 後・絶望領域 浅草
目の前の光景を認識できるようになった冷泉は、センソウ寺での出来事を思い返し、再び泣きそうになってしまった。膝を抱えてベンチの上で丸くなる。
「……ひとまずクソ狐のところに戻るか。クソな上に狐だが、あいつなら面倒くらい見てくれる」
シャベル片手に傍に来た覚がそう言った。精一杯の優しさ、なのかもしれないと冷泉は感じた。
冷泉が声を失った最大の原因である災霊が、自分は知らないと言うのだから、もう声は戻らないと考えるのが現実的かもしれない。
しかし冷泉の中にあるただ1本の糸のようなものが、ここから立ち去ることを拒否していた。
……でも、諦めきれません。
「さっき災霊自身が言っていただろ。奪った覚えがない、返せない。なら、もう災霊に会ったってどうしようもないだろ」
もう、もう一回、あと1回でも聞いてみれば何かわかるかもしれません。
「じゃあはっきり言ってやろうか?さっさと諦めろ。もう災霊に会ってもどうしようもない。声が出ないお前として生きていけ!」
嫌です!
覚の語気が強くなる。しかし冷泉はそれにひるむことなくにらみつけた。反論の言葉は見つからなかったが、覚の言葉に従うこともしたくなかった。
「……何で、そこまで声を取り戻したいんだよ」
覚の切れ長の目から除く瞳は、お前のことが心から理解できないと言っていた。
覚の言葉とその瞳を見て、怪狸との会話を思い出す。相手に理解されたいと伝えないで、相手に理解してくれというのは無理な話だと。
恥ずかしいなんて思っている場合でもない。覚が理解できなくてもいい。ただ、自分が思っていることを、伝えたい相手がいる。
冷泉は天変地異が起こっているような心をなだめるために深呼吸する。
一回。
二回。
……声は、私の夢を叶えるために、どうしても必要なんです。
冷泉はバラバラにほどけていた糸を紡いでいくように、心の中で言葉を並べる。
「……夢?」
覚は初めて聞いた意味の分からない言葉を復唱する子供のようにそう言った。多分、本当に初めて聞いたんだろうな、と彼の反応を見て思う。
「叶えたいってことは、それは願いや本能のようなものか?」
そんなものです。……それで、私は小さいころから歌手……みんなに唄を歌って聞かせて、みんなを喜ばせたいって夢があるんです。昔、おばあちゃんが私の唄を褒めてくれて、おばあちゃんはちょっと嫌いですけど、それでも喜んでくれる顔がすごい好きで。
昔、何がきっかけだったかもわからない昔。春だったか夏だったか。唄というにはあまりにも拙かっただろうし、歌詞も間違えていたと思う。
でも、冷泉は今でも、祖母のその時の笑顔だけは覚えている。
――だから、誰かが私の唄で喜んでくれたら、この世界でも良い世界だなあって思えるんです。昔の雑誌にあるような「アイドル」みたいなのは難しいと思うんですけど、それでも唄を歌うことはこの世界での私にとって、一番の希望なんです。だから……。
だから、とつないだが、もう言葉が思い浮かばなかった。
冷泉は心の奥底をひっくり返して、ため込んでいた気持ちを最後の一滴まで出したつもりだった。
あとは覚の反応を見るだけであった。冷泉には今、覚しか見えていない。ここで冷たい言葉を吐かれたとしたら、今すぐにでも目の前の川に身を投げ出してもおかしくはなかった。秋の川って絶対寒いだろうなあ、とは思っていたが。
覚はしばらく見つめ返していたが、そっと冷泉の隣に腰かけた。
すると、これまでのどのような時よりも柔らかい口調で話し始めた。
「俺には夢がない。ないが、妖怪の本能は持っている。満たされたい、叶えたいってところで同じようなものなら、お前があきらめたくないって気持ちも……そうだな。理解できる気がするな」
……今度はサトさんの本能、知りたいです。
「多分、理解できないぞ」
それでも、です。
むしろ、それしか望むものはなかった。
「……まだ人間がこの星にいたころ、俺は人間を守って生きてきた。妖怪寄りの存在だが、妖怪と戦って人間を守っていく。それが俺の本能だった」
シャベルの柄を持つ彼の手に力が入る。
「だが、人間が去って、俺の本能の行き場がなくなった。そうしたらいつからか、全力で戦って死ぬことが俺の本能に置き換わった。お前と会った船でも、死に場所を求めていろんなところを行脚している途中だった」
覚が口の端を僅かに上げてみせる。その笑みに、冷泉は今度は恐怖を感じなかった。
「それで、お前が現れた。もう俺の本能は戦って死ぬってことにしかなかったがな。……それからはお前に付いていって、ずっと死に場所を探していた。そうしたらこんな都にまで来ちまった」
ああ、もしかしたら、あのとき狐は「この子についていけば、アンタ、災霊とも戦えるかもしれないよ」とでも囁いたのでは。うん、多分、そうでしょう。
「よくわかったな。まあ結局、中身はヤバそうだが、見かけがガキの災霊だったから戦う気なんて起きなかったな。……さて、俺の本能については以上だ」
覚がベンチから立ち上がる。羽が舞い上がるように、静かに立つ。
「わからないだろ。お前を守ってるかと思いきや、本当は自分の欲望に忠実でしかなかったってことだ」
確かに、戦って死ぬ、なんてことは冷泉には例えようもない感覚だろう。
しかし、今の話を聞いて、一つ確信したことがある。
――でも、サトさんが、優しい妖怪だってことは、わかりましたよ。
笑顔でそう思ってみせた。
冷泉の前で戦ってきた覚が欲望に従った姿だとすれば、戦っているとき以外の覚は、冷泉のことを気遣い、守りたいという自我の姿なのだろう。それが優しさでなくて何なのだ。
何の偽りもない、これまで見てきた覚の全てを合わせて、出てきた感想だった。
冷泉がそれを口にしてから、しばらく無言の時間が過ぎた。覚が冷泉を穴が開くほど見つめていたからだ。これまで見たことがないような、虚を衝かれたような顔で。
「……話は終わりだ」
覚がふいと顔を他所へ向ける。
えっ!今の私の感想について何か一言は!?
「ねえよ」
それはナシですよねえ!?私、結構いいこと言ったつもりなんですけど!?
「うるせえ。もうすぐ日も暮れるんだ。夜になると追い辛くなるだろ」
……それって。
「言わせるのか。いいだろう言ってやるよ。また災霊に会いに行くぞ。どうなるか知らんが、最悪あいつの声帯でも引き抜いてくればいい」
うれしいですが最後のはちょっと無理です!でもやっぱり、ありがとうございます!
「……追うのはいいが、あの寺でうろつく雑魚どもが邪魔だな……おい、スケッチブックをよこせ。ああそうペンもだ」
言われるがままに渡すと、覚はガリガリと何かを書きなぐり始めた。丁度冷泉には見えないようにして書いていたため、内容がわからなかったが、そう長いメッセージではなかったようだ。
あっという間に書き終わるとそのページを裂いて、何かを探すように辺りを見回し始めた。
えーと、サトさん?あなたは今何をしていらっしゃるのでしょうか……?
「サトさんはやめろ」
あっ、そのツッコミすごい久しぶりです。懐かしくて涙出てきますね。
「これからは高階儀同……いや、長いな。儀同でいい」
それ、え。それって……。
――抱き名は信頼した者にのみ教える個体としての名前ですな。
「まあ、呼び方なんて好きにしてくれれば……何だ、本当に泣いてんのか」
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