第26話 中・絶望領域 浅草
「……それは残念ですが、無理ですね」
災霊は残念とは思ってなさそうな声でそう言い、肩をすくめてみせた。
……え?
「そんな驚いた顔をしないでください。お嬢さんの目を見れば――」
冷泉の目を直視する。吸い込まれそうな黒い瞳だった。
「確信をもって僕が犯人だと思っているようですし、多分そうなのでしょう。ですが僕は、お嬢さんの声、でしたっけ。そんなものは持っていません。よって返すこともできないんですよ」
持っていないから返せない。なるほど実にわかりやすい論理である。見た目はどう見ても年端もいかない少年なのだが、落ち着き払った声が、妙に大人びた印象を与えるのであった。冷泉としては、お嬢さん呼びがほんの少し癪に障るのであったが。
「僕は、まあご存知だと思いますが災霊と呼ばれているものです。そこにいるだけで人間にも妖怪にも悪影響があります。ただ、それは決して僕の一存で行われるものじゃないので。遠江の山にだって、僕はただ歩いて通り過ぎただけ。盗んだ覚えのない、持っている覚えもないものを返すなんて、無茶な要望だと思いませんか?」
そんな、そんな。
「嘘を吐いている、ってわけでもなさそうだな」
……サトさん、あの災霊の心を読んだんですか?
「あんな負の塊みたいな奴にそんなこと、頼まれたってするか。ただ、今のセリフが嘘かそうじゃないかくらいは何となくわかる」
覚によって、決して押されたくなかった太鼓判が押されてしまった。つまり、声を取り戻す旅路は事実上の袋小路に陥ってしまった。
じゃあ、どうすればいいんですか……。私の声、どこにあるんですか……?
泣き出しそうになる冷泉。吐き気もこみあげてくる。生きるということすべてを投げ出して、この場に倒れて草花と共に枯れて朽ちていきたい、そんな願望すら芽吹いてくる。
「……あのー、もう用がないのなら立ち去ったほうがいいと思いますよ。僕が言えたことではありませんが、ここ、あまり安全ではないでしょうし。彼はともかく、お嬢さん、人間でしょう?」
災霊に意識を向けられただけで、冷泉は一歩後ずさってしまった。先ほどまで目の前にいたのは、得体のしれない少年くらいの認識だったのだが、今はもう見るだけで不安を掻き立てられる黒い塊のようにしか映らないのだった。
「僕もそうでしたが、お寺って妖怪にとって居心地がいいんでしょうね。境内にもまだ妖怪はたくさんいると思いますよ。襲われない内に退散したほうがいいんじゃないかなあ」
覚は気付いていた。少し前から様々な目線が自分たちを取り囲んでいることに。しかもその内のいくつかは冷泉を捉えているようだった。
しかし当の冷泉は気付いていなかった。最も、自分の足元すら見えている状態ではなかったのだが。
「それに、僕も寝起きだから君たちも近づけたんだろうけど、もうちょっとしたら立っていられないくらい絶望的な気持ちになっちゃうだろうね。もちろん僕にはどうしようもない。……さて、僕は今度は北に行くことにします。きりたんぽとか一度は食べてみたいですし」
本当に、何事にも関係がないように災霊はにっこりと笑った。
「お嬢さんも、いつか声が戻るといいですね」
その一言がとどめだった。今までの旅が微塵の欠片も残すことなく無に帰した、そのようにすら感じられた。いや、冷泉の中ではそう決定してしまった。
そこから、冷泉の記憶はない。
気が付くと、冷泉は怪狸とつい数刻前まで話していたベンチに座っていた。
気絶していたのか、単に頭が働いていなかったのかはわからない。目の前の川のほとりに立っている覚がここまで連れて来てくれた、ということは覚醒した冷泉にもすぐにわかった。
辺りはもう日が傾き始めているころだった。街の荒廃具合と対照的な清涼さがうかがえる川の流れが時間の流れとともに過ぎ去っていく。カラスが冷泉の目の前を横切って、すぐ近くに着陸した。自分の足元の虫を食べているようだった。
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