第25話 前・絶望領域 浅草
橋の手前で笑顔で手を振り見送る怪狸に、大きく手を振り返す冷泉。「流石の私でもこれ以上踏み込めない!私の自動運転システムがブレーキを踏んでいる!」と、冷泉と覚には半分くらいは理解できない言葉を並べたので、彼女の道案内はここまでとなった。
橋を渡ってから、センソウ寺はそう遠くはなかった。対岸からはビルしか見えなかったのだが、実はその裏にセンソウ寺があったのだ。立ちはだかるように連なる背の高い壁に阻まれ、後ろの光景が見渡せなかったということだ。
冷泉は一層酷くなる体の震えを抑え、東側に当たる門を通り抜けて寺の敷地へ足を踏み入れる。やはりこの感覚は、かつて住んでいた山の中で感じたものと似ている。
もちろん覚もすぐ横にいるのだが、橋を渡り切った時からここまで、いつにも増して無言を貫いていた。無言ということは、覚は冷泉が今考えていることを読んでいなのだろうか。それとも読んでいるが何も言わないだけなのか。冷泉としては前者であってほしかった。今、心の中は期待と不安と、やはりまだ残っている覚へのモヤモヤとした気持ちでいっぱいだからだ。今更隠すようなものでもないのだが、ここまできて多少の気恥ずかしさが生まれてきたのであった。
門をくぐり、本堂までは道一本だった。そしてこの都に入ってからまとわりついていた、不安や恐れを掻き立てる気配も、そこが火元ですよとでも言うように、本堂を目にした途端に強くなっていた。
廃ビルの森が開けたところに目的地であるセンソウ寺が鎮座していた。
とはいえ、腐って倒れた建造物の破片があちこちに広がり、その下には灰色の石畳が敷き詰められていた。漂う静寂さはかつてのものと変わらないようであったが、それがはらんでいた神秘性は失われ、代わりに重苦しい空気が甚だしく辺りを包んでいる。
敷地に足を踏み入れると、大きな枯れ柳が髪の毛のような細い枝を風に揺らしていた。枝同士が擦れ合うザワザワとした音が境内を飾るように響き、時折這うような物音が重々しく耳を舐めるのであった。
そして、誰かいた。
センソウ寺の本堂は大部分が倒壊して土ぼこりを被っていたが、それでも厳かな雰囲気の名残を感じさせる。
その手前の石段に、一人、人型の何者かが腰かけていた。
冷泉は、最初その何者かが人間ではないかと思った。尻尾が生えていたり珍妙な装飾品を身に着けていたりしているわけでもない。しかしそう思えたのは一瞬で、二人に気付いたその者がこちらに目を向けた瞬間、もっと言えば冷泉と目が合った瞬間、冷泉はその者が人間ではなく妖怪でもない、底なしの空洞を見せられた気分になった。
間違いない、人間ではない。そう確信する。
いつの間にか冷泉はその歩みを止めていた。止まれと無意識が叫んだと言ってもいい。
それは覚も同じようであった。冷泉に並び立つようにして、目の前の何かを見つめる。
「やあ」
待ち合わせ場所にやってきた友人を出迎えるようなノリで、その者は冷泉たちに声をかけた。ゆっくりと立ち上がり、滑るように二人に近付いてくる。その姿と似たようなものを冷泉は大昔のファッション雑誌か何かで見たことがあった。白いシャツに飾った感じのない黒のジャケット。クロップドパンツを履いたスタイルは確かカジュアル、というやつだ。着こんでいるのは冷泉よりも少し年下くらいの少年だった。この世界ではもちろん人間の服の生産などは行われていないはずなのに、つい先ほど購入したてのような真新しさを感じさせる服装が、荒廃したこの寺の外観と非常にミスマッチしていて不気味ささえ覚える。
「僕に何か用ですか?あ、ただの観光だったらごめんなさい。気にせずどこかへ行ってください」
人懐っこい笑顔である。違う出会い方をしていたら、冷泉は少しクラっときたかもしれない。
しかし、今はそんな見とれている場合ではなかった。どう接触しようかと迷いあぐねていると、口を開いたのは覚だった。
「お前が災霊か」
災霊。その言葉に、一瞬眉をひそめる少年。
「やっぱり僕に用ですか。あまりその名前好きじゃないんだけど、まあいっか。それで、どんな要件でしょう?」
その少年、いや災霊の言葉に、覚は冷泉へ目くばせする。
いよいよこの時が来たか、とグッと腹に力を入れる冷泉だったが、そういえばなんて尋ねたらよいか、まるで決めていなかった。その場で何とか振り絞ってスケッチブックに文字を書く。地震でも起きているのではないかと思うくらい手が震えてしまった。
『シズオカのウド山に行きましたか』
「シズオカ……?遠江になら行ったかな。うん、確かにあそこはシズオカとも呼ばれていましたね。あ、失礼ですが、もしかしてどこかで会いました?」
会ってはいない。
しかしそれは災霊が冷泉に、である。しかし冷泉からすれば、姿をはっきり見たわけではないが、彼から感じ取る雰囲気は間違いなく声を奪われた時に覚えたそれである。
小説で犯人を追い詰めた名探偵はこんな気分なのでしょうかね。……私は、やっとこの言葉をぶつけられます。
『私の声を、返してもらいます』
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