第20話 後・思考停滞路線跡 北総線
「この妖怪の星で生きていく自信がなくなったのかい」
『はい』
この心情の吐露がきっかけとなり、冷泉の中へ静かに注がれてきたものが溢れ出てきた。なぜ会ってからほとんど間もない狐に吐き出したのかはわからない。しかし、泥の海を渡り歩いてきたようなここまでの道のりで貯まった何かを、これ以上黙って背負うことはできなかった。
『声を取り戻しても、妖怪におそわれたらどうしようもありません。都に行っても、ただ死ぬだけかもしれません』
書きながら、冷泉は酷い吐き気に襲われた。その文字の後半はほとんど殴り書きのような筆跡だった。
しばらくの間、雨と大地の音だけが響いていた。狐はその場からいなくなってしまったかのように、しばらくの間沈黙を守っていた。
自分が小さくなって消えてしまいそうな気持ちになる冷泉。
「まったく、その通りだね」
木が実を落とすような、そんな返事だった。
この世界では冷泉の命など、いや人間の命などは吹いたら消える無下の火なのだ。お前の願いなどは次の瞬間にも踏みにじられ、存在していなかったのと同然の扱いなのだと。そのように言われている気がした。
しかし狐の言葉は続く。以外にも冷泉を導くような、ゆったりとした語調だった。
「ただね、冷泉ちゃん。強いことや弱いことは生きていく理由には決してならないんだよ」
『でも、弱い人間は妖怪に生きる場所を追いやられてしまいます』
冷泉は思い出す。祖母が生きていたときも、自分たちは山の中で妖怪から姿を隠すことを第一として生活していたのだ。人間が妖怪に食われた、という話も散々聞かされてきた。
「人間に限った話じゃないさ。私だって昔人間に酷い目に遭わされたこともあるし、何なら冷泉ちゃんより力を持たない妖怪だってたくさんいる。でも、そんな妖怪でもこの星でずっと生き続けているんだよ」
耳を疑う冷泉。
この狐はどれくらい生きているんだろうか……。いやそれよりも、人間よりも弱い妖怪がいたなんて。
「私はね、妖怪も人も強さに生かさるんじゃなくて、心に生かされているんじゃないかって思うのさ。そりゃ力は必要だろうけど、それが生きることの原動力かというとそうじゃない。私たち妖怪はそれぞれが強い思いを抱いているから生きていけるんだ」
風が吹いた。目の前にかかっていたベールが取り除かれたような気がした。
「人間は違うのかい?」
冷泉は自らの胸の小さなふくらみに手を当てる。不安はもちろんある。だが、このままでは帰れない。そのような叫びが返ってきた。
たるんでいた頬を一度強く叩き、口元に力を入れた。
ありがとうございます。
スケッチブックにその小さな呟きは書かれなかったが、狐は何かを察したのか、満足そうに短く唸った。
「まだ折れていなさそうだね。でもやっぱり嫌になったら印旛に戻っておいで。死ぬほど甘やかしてやるからさ」
楽しそうな、しかしどこか真剣さも含んだ言葉を残して、狐の気配は風に乗るタンポポの綿毛のように消えていった。
雨が止んだ。
立ち上がった冷泉の目が輝いて見えたのは、きっと日差しが強くなったことだけが理由ではないのだろう。
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