第19話 後・思考停滞路線跡 北総線

 雨雲がないのにもかかわらず、思い出したようにまた雨が降り始めた。強い風が一つ吹けばかき消えてしまうくらいの弱々しい雨だった。

 一人で立ち上がれなかった冷泉は、覚に肩を貸してもらい、線路にかかる橋の下に移動させてもらった。

 その間二人は互いに話しかけることもなく、雨に当たらないところへ冷泉を降ろした覚は慎重な足取りでその場から離れていった。それは心を読んだからなのか、それとも雰囲気を察したのかはわからない。

 橋の足にもたれかかる冷泉は橋から覗く空を見上げる。晴れているにもかかわらず、少し前まで自然に浸食された美しい景色の上にあった空とは思えない。今にも落ちてきそうな重苦しさがそこにはあった。

 細い雨はコンクリートを、草木を、地面を叩き、低い音が跳ねまわって冷泉の周囲を取り囲んでいた。――このまま自然に閉じ込められてしまうのではないか。根拠のないそんな考えが冷泉の思考の片隅に出穂していた。

 これからトウキョウに行って大丈夫なのか。アモロウナグの言う通り、行ったところで人間の自分に何ができるのだろう。災霊に辿り着いたとして、どうやって声を取り戻すのか。

 誰も答えてくれないいくつもの問いと共に膝を抱えていると、かすかな雑音が雨音に混じって聞こえてきた。

 いや、よくよく聞いてみると長い髪を梳くような雨足の音とは違い、雨そのものから聞こえてくるものだった。それは頭上から布をかけられるような感覚。

「――ほら、聞こえているのかい。心が折れて耳もダメになったかね」

 それは冷泉が聞き覚えのある声だった。

 ハッとして、埃っぽい色の空を見上げる。

「おや、気付いたようだね。このまま蛹みたいに動かないのかと思ったよ」

 それは今は印旛にいるはずの狐の、人を小馬鹿にしたような声だ。


 『天気雨』という天候は祖母から教えられたことがある。しかしそれが『狐の嫁入り』と呼ばれることも、狐の手先となって他者と意思疎通ができることもまるで知らなかった。

 これまでも小さいころから何度か天気雨に遭遇していたが、もしかして何度か見られていたこともあるのだろうか……。そんなことを考えて背中がぞくりと震えたが、かえって答えを知らないほうがいいと思い聞かないでおいた冷泉だった。

 ――気が済んだらすぐ止むでしょうな。

 あのときの天狗は、彼女のことを言っていたのだろうか。

 そして冷泉はこの天気雨を通して狐と話をした。なぜか狐は冷泉がスケッチブックに書いた文字を読み取ることができ、まるで目の前にいるかのように会話を成立させているのだ。ひょっとしたら狐ではなくて魔女の類なのかもしれない、とその不思議パワーを冷泉は疑った。

「ふうん。アモロウナグねえ……覚と一緒で良かったじゃないか。マトモな存在じゃないよ、ああいうのは」

 アモロウナグとの一件を伝えた。声しか聞こえないが、声色から狐のしかめっ面は想像に難くなかった。

『妖怪って何でそんな簡単に命を奪えるんですか』

「そりゃあ色々さ。そうだね……生きるため、本能に従って、ていうのが多いんじゃないのかね」

『自分が生きるためなら奪っても構わないと』

「それはそうさね。他の奴に気を遣っていたら、それこそ自分の命が奪われる」

 狐は淡々と答えた。それが世界に満ちている常識であり真実なのだろうと、彼女の口調がはっきりと告げていた。

 冷泉は押し黙った後、ところどころ躊躇いながら筆をのろのろと走らせた

『私はこれから生きていくことができるのでしょうか』

 湿度で少し湿ったスケッチブックを空に見せると、少しの沈黙を置いて狐が返事をする。

「この妖怪の星で生きていく自信がなくなったのかい」

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