第18話 前・思考停滞路線跡 北総線

 しかし、冷泉の世界は昼に戻された。

 思い切り身体が後ろに引っ張られた。冷泉への配慮など欠片もない、時代が時代なら裁判所に持ち込まれても仕方がないような雑な扱いである。

 もし冷泉が声を出せたのなら、カエルが踏みつぶされたような小さな悲鳴が上がっただろう。その代わりではないが、女子高生妖怪は見た目通りに可愛らしい作り声を上げて手を離した。

「……アモロウナグか」

 割って入ったのは覚だった。いつの間にか冷泉の近くまで来ており、不敵な笑みを浮かべるアモロウナグと呼ぶ妖怪を鋭く睨みつけていた。カク猿に向けられたものと同じ目だった。

 冷泉の首根っこを掴んでいた手を離すと、覚が妖怪へ歩み寄る。それに合わせて冷泉たちから距離を取るアモロウナグ。冷たい殺意と、それに対するわずかな焦りが静かにその場で交錯した。

「気を付けろ、馬鹿。そいつの水を飲むと魂を持っていかれるぞ」

 ……このあたりに敵意はないって言っていたような気がしたのですが、聞き違いでしたか?あと馬鹿は余計です!

「ああ、敵意とか殺意とかではないな。こいつにとっては、そこらの草花を摘んでいくみたいな感覚だろうな」

「あれれ?もしかして心読まれてるのかな」

 それまで貼り付いていたような楽しげな表情がアモロウナグから崩れ落ち、ほんの僅かだが不快そうな顔が露出した。

 「ああ、覚かぁ」と残念そうに呟いた彼女は、先程まで冷泉の命を奪おうとしていた者とは思えない。覚が言うように、これまでの行為には本当に殺意が欠片も含まれていなかったのだろう。

「人間だったら押し倒して犯していたんだけどなぁ。覚じゃあ、どれだけ人間っぽく見えてもノーサンキューかな」

「うるせえ消えろ。天女だか何だか知らねぇが、こっちこそ願い下げだ」

 天女、という言葉を頭の中で頭の中で転がし、その意味に気付いて驚く冷泉。見た目はかつて日本中に溢れかえっていたような見た目のように見えて、とんでもない正体を持っていたのだ。にもかかわらず覚はシャベルを持ち直して、今にもアモロウナグに飛び掛かりそうな雰囲気である。

「待って待って!もう魂をつまみ食いしようなんて思ってないから。その子には興味ない、もう無関心だからぁ!」

 しかしその言葉は信用ならん、という視線を向ける覚と冷泉。アモロウナグはバツが悪そうにそれ以上近付くことはなかった。

「はぁ。人間なんて百年近く見ていなかったからラッキー、って思ってたのに。アサクサも住み辛くなるし、不幸よ不幸」

 がっくり肩を落とした彼女の言葉に反応する冷泉。

「……お前、アサクサから来たのか」

「ん、そうだけど」

「不審なことが起きているのは本当なんだな?」

「まあね……もしかしてあなた達、あそこに行くつもり?本気で?」

 冷泉と覚を交互に見て、少しだけ目を丸くしたアモロウナグ。しかしすぐに興味を失ったようにそよ風のようなため息を吐いた。

「あまりおススメはしないよ。最近はみんなダウナーな感じになっちゃってるし、頭おかしい妖怪も出てきちゃうし。もううんざりしたから私もどっか別のところに行こうかなって思ったの」

「おい。それは災霊が来てからのことか?」

「さあ?災霊なんて見たことないし。いつの間にか都中がおかしくなってたから……まあ他に理由があるとも思えないけど。あーあ、結構住み心地良かったんだけどなぁ」

 彼女の丸めた目が切れ切れの灰色の雲が漂う空に向いた。その方角にはおそらく都が、アサクサがあるのだろう。冷泉にはこの妖怪がどのような素性を持ち、アサクサにどのくらいの思い入れがあるのかも知らない。しかしアモロウナグの瞳は少なからず憂いを帯びたものであり、アサクサを離れたのも不本意であったことが察せられた。

 そしてそれは、妖怪であっても意に反して離れなければいけないアサクサの現状を暗に示しているということだった。先程遭遇したカク猿たちのことも合わせ、想像された都の有り様は同じ妖怪である覚の眉間にしわをわずかに作った。

 まるで重い石が上からのしかかったような雰囲気の冷泉と覚だったが、アモロウナグは軽やかな足取りでその場から立ち去った。

 彼女は一言、「お嬢さん、すぐに死にそうだけど頑張ってね。何するか知らないけど」と空っぽの言葉を冷泉に残していった。

 それを受け止めた冷泉はしばらくの間立ち上がることができなかった。アモロウナグに対する恐怖が残っていたからではなく、立ち上がったとしても都へ進む一歩が踏み出せるかどうかわからなかったからだ。妖怪すらも近寄らない地と化した都の姿が思い浮かび、その街の影が彼女の足を地に縛り付けて放そうとしなかった。

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