第11話 後・印旛
「……そうじゃない。今そいつは『ありがとう』と思っている」
「へえ。大したことはしていないけどね。でも、どうしてこの子は喋らないんだろうね」
傍らから助け舟を出してくれた覚に黒髪の女性は尋ねる。
どうしたものかと少女がオロオロしている間に、覚が言葉少なに事情を話し始めた。無駄な説明をしない、ではなく適切な言葉を探しながら、といった印象を受けた。
少女の声の出ない理由。そしてそれを取り戻すために山から下りてきたこと。
「ってことを泣きながら話してたぞ」
最後のいらないですよね!
「あ、わかる。怒っているわあこの子。まあ、よりによってこんなデリカシーのない覚に代弁されればそりゃねえ」
そうそう。本当に一言多いんですよね、この方。
「お前も同意しているんじゃねえよ。……じゃあ、俺は行くからな」
「お待ち。人を預けていくにしては、ずいぶん素っ気ないんじゃないのかい」
「知るか。俺が連れてくるつもりだったのはここまでだ」
「なら、今日くらいはゆっくりしていきなさい。この子も腹が減っていそうな顔だしね――お客さんだよ!マッハでウナギ二つ準備しな!」
覚の返事を待たずに、女性は奥にあると思われる厨房へ、小柄な体から出たと思えぬ大声で呼びかけた。
ウナギっ?!ごちそう!
少女、再び大興奮である。
そしてこの店には従業員がいるらしい。何者かはわからないが、女性の呼び声に答えて「了解ですぞ!」と陽気な掛け声が一つ返ってきた。すぐに何かを焼く音が、かすかだが確かに聞こえてくる。
サトさんのお知り合いっていい妖怪なんですねっ。
「このクソ狐が?んなわけあるか。しばらく見てろ。こいつの腹の中が泥水で満たされていることがわかる」
「どんな会話かわからないけど、ともかく失礼だね。私は裏も表も同じ、素敵で頼れる狐様さ。だからクソ狐呼びはいい加減やめてくれないかい」
「ほら見ろ。こうして隙あれば自己顕示だ」
「あーあ。昔はさとりん、まーちゃん、なんて呼び合ったのにねえ。まーちゃん悲しいわあ」
「おいやめろ」
……さとりん。
「やめろジャガイモ」
「そういえば、この子の名前を聞いていなかったね。人間は氏と名があるそうだけど、何て名だい?まさかジャガイモが名前でもあるまいし」
「……さあな」
クソ狐、もとい狐のまーちゃんは驚きと呆れで上手く表情が作れないというように顔の筋肉を硬直させる。
「嘘でしょう?一晩を一つ屋根の下で共にしたというのに、名前すら聞かないってのはちょっと……」
どうにも、名乗るタイミングがなかったもので。
「文字が書けるなら、これに書いてもらえるかい?」
久しぶりですが、字なら書けます!
少女はうなずくと、狐が奥から持ってきた古紙と鉛筆を手にして自らの名を刻んだ。
『冷泉』
「へえ。レイゼイて読むのかね」
『レイセンです』
「いい名前じゃないか。名付け親はいるのかい?」
『祖母が決めたみたいです』
少女、冷泉は自らの名前の横に、続けて狐への返事を書いた。
「そうかい。いいセンスを持っているね」
『そうですかね。この星に残る選択をした人でしたが』
「そりゃ、尖った生き方をするおばあさんだね」
ワンテンポ遅れ気味だが、これなら少女も自分の気持ちを伝えることができる。冷泉の鉛筆の先は踊るように紙の上を駆け抜けた。
『狐さんの名前も教えてほしいです』
「私かい?私は……ただの狐さんさ。そんでこっちは覚。教える名前なんてないのさ」
狐は楽し気に答えた。勝手に紹介されたからだろうか、覚は対照的に苦々しい顔をしていた。
あれ、でもさっき自分のことを「まーさん」って言っていたような……?
「お待たせいたしましたぞ!」
雷鳴のような声とともに、冷泉たちが囲んでいたテーブルに置かれた、少し薄汚れた長方形の漆の器。中には湯気をまとった白米と、見た目で香ばしさが伝わる焼き色に染まったかば焼きが盛られていた。その上には色の濃いタレがとろりとかかっている。
かねてからの山籠もりの生活のせいで大半が山菜の食生活な上、ここ数日は空腹の上に空腹を重ねていた冷泉にとって、目の前の器はどんな料理のフルコースよりも勝るご馳走であった。もちろん、冷泉はフルコースを目にしたことなどはないのだが。
「会心の出来であるので、熱いうちに召し上がっていただきたいのである!」
今にも器に手を伸ばそうとしていた冷泉は、このご馳走を用意してくれた者に礼を言おうと斜め上へ視線を上げた。
そして見てしまった。
まさに筋肉の塊と言えるような体躯の、半裸にふんどしをまとった巨漢の姿を。
ほげええええええええええええええええ!
もし、声を出せるならば、きっと冷泉の口からはこんな叫びが聞こえたに違いない。
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