第9話 前・印旛

 川沿いから川沿いへ、川が途切れたら近くの東西へ伸びる川を探し、とにかく覚が目指しているのは川の上流だと少女にも理解できた。しかしどうも覚は上流は上流でも、どこかの山を目指すのではないようだった。

 太陽が高く昇り始めた道すがら、錆びて根元から倒れた鉄の看板に書かれてある「印旛」の文字と、覚のつま先と同じ方向へ伸びている矢印を見た少女は、とうやらこれから覚が向こうに見える町へ入っていくらしいと察した。妖怪が集まるところ、と話題に出た町へ行くのだと。

 当然少女は抵抗した。しかし抱えられた腕の力を強められると、少女はカエルが踏みつぶされたような悲鳴を上げて黙るしかなかった。

 その後から少女が覚の小脇から見る風景は、背の高い草の隙間に民家がところどころ垣間見える、まさに人間に見捨てられた土地とも言えるものであった。しかしさらに一時間ほど歩くと、セイタカアワダチソウやカヤなどの植物群が減り始め、代わりにそれほど劣化が見られない大きな道と、それに沿って立つ背の高い建物が見えるようになってきた。

 以前覚が言っていた通り、妖怪たちは人間の住まいが多い地帯に集まっているようだった。

 目立たないようにだろうか。町に入った覚は大きな道路を避けた道のりを選んでいたが、大通りから枝分かれした細い道にも妖怪の影が見え隠れしていた。覚を見ているのか、少女を見ているのかはわからないが、建物の壁に茂った植物の中、ビルの割れた窓の隙間、放置された車の影、いたるところからいくつもの視線が向けられていた。それらが好奇によるものか、食材を見定めるものかはわからなかったが、どちらも嫌だがせめて前者であってほしいと願う少女だった。対して覚は、そんな視線などは道路に積もる枯草と同じだとでも言うように堂々とした様である。

 ……あの、サトさん。

「見るな。気にするな。お前は自分のことをジャガイモと思え」

 それで何とかなるんですか?

「人間が緊張するときは、そう暗示をかける文化があるそうだ」

 聞いたことないですね……やってみますが。

 そうして覚に連れていかれること一時間。住宅の密集地域を抜けると、二人の目の前には小さな山一つ分はあろうかという広大な湖が広がった。決して綺麗とは言えないが、深い青に染まった水面は穏やかで、いつまでも身を任せていたくなる静寂が湖の周りにはあった。覚がここまで川を頼りにして歩いてきたのは、きっとこの湖に至るためだったのだろう。

 それまで自身はジャガイモであると思い込んでいた少女も、その光景には目を見張ったのだった。

 ……いいところですね。

「確かに眺めは悪くないな。……ああ、眺めはなぁ」

 何か嫌なことでも思い出したのだろうか。それとも、これから何か嫌なことでもあるのだろうか。

 そこからなぜか重い足取りの覚に抱えられてやってきたのは、湖の傍にある一軒の小さな日本家屋だった。少女にはその正体がわからなかったが、辺りには醤油を焼いた香りがほんのりと漂っていた。そして何よりも少女の目を引いたのは、その家屋の前に立っている覚の背丈よりも少し高いくらいのボロボロの看板に「うなぎ」と書いてあったことである。かつて人間が飲食店を営んでいたのだろう。

 少女、大興奮である。

 ここまで空腹と妖怪の視線のストレスに耐え続けていたのだ。中に入れば看板に書いてある通り、ウナギが食べられるのだと信じて疑うはずもない。

 そもそも今も店として使われているのか、誰が用意するのか、などということを気にする腹の余裕など、今の少女が持ち合わせているはずはなかった。なんせ、山に住んでいた頃は、諦め半分で川に仕掛けた罠に数年に一回かかっていればいいほうだった。それほどのご馳走なのだ。

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