第8話 前・印旛

 覚はこのあたりの地理に多少の覚えがあるようで、特に立ち止って道を確認することもなく、九十九里の海岸から西へと道なりにまっすぐ進み続けた。ところどころにボロボロの民家、もしくは民家だったものが点在していたが、覚はそれらに目もくれなかった。民家の中に入ったのは、火を囲んで焼き芋を食べ一夜を明かした先日の一軒のみであった。 

 朝方の川沿いを歩く覚。少女はまたもや彼の小脇に抱えられながら、川を歩くサギのような鳥をぼんやりと眺めているのであった。

 そういえば、いつ頃お知り合いのところに着くのでしょうか……。

「日が昇り切る前には行けるだろうな」

 うーん、もうしばらくは暇ですねぇ、これは。

「置いていくぞお前……」

 嫌ですね、冗談ですよ。

 いまだに少女は一人で歩ける状態には程遠かった。人間が足首を遠慮なしに捻られて、一日やそこらで治るほうが無理なのだ。

 何か乗り物でもあれば、と考える少女だったが、たまに路肩に放置されている車は錆をまとって巨大な揚げ物のようになっていた。人間が移動手段として思考を凝らし発展させたものの数々は、妖怪たちにとっては無用の長物でしかないのだ。

 くぅ、とのんきで尻上がりな音が鳴った。空腹のサインである。それが誰のものかとは言うまでもない。少女の耳があっという間に椿のように赤く染まっていく。

 今のは、冗談ではないです……。

「肝心なところで素直なのはいいんじゃねえか、別に」

 しかし、少女と覚の手元には食料がない。芋も昨晩で平らげてしまっていた。

 な、何か食べ物を……。できれば芋以外で。

「そんなこと言ってもな。食べられそうなのは……この変な色の草なんてどう――」

 あ!あのサギを捕まえましょう!そうしましょう!

「食いたきゃお前がやれ」

 そんな殺生な。

 しかし、少女の腹ほど切迫してはいないにせよ、実際は覚も空腹の兆しくらい感じていたのかもしれない。彼に空腹なんてものがあるのかどうかは知らないが。

 覚は少女を柔らかい草の上に雑に降ろすと、シャベルを片手にのそのそと川べりまで進んでいく。

 対岸に近い川の中に立っているサギとの距離が十五メートルほどのところまで静かに詰めると、柄の部分をもって地面と水平になるように頭上へと振り上げた。

 ――まさか。

 そのまさかであった。さじ部をサギへと向けられたシャベルは覚によってものすごい勢いで射出された。少女はかつて写真で見たスポーツ選手の姿を覚に重ねた。陸上競技だったか、バレーボールだったか。

 弾丸のごとく投げ出されたシャベルは獲物を確実に串刺しにすると思われた。

 しかし、サギはサギで察知した己の危機に素早く反応した。あと数メートルのところまで飛来した槍、いやシャベルを見ることもせずに、身体をまっすぐ伸ばしながら自らの体躯の二倍ほどもある羽を広げ、秋の空へと飛び立った。シャベルはサギが不在の空間を横切り、川岸の石に当たってボールのように跳ねながら草むらに消えていった。 

 少女が空へと目を向けると、驚くことに、サギは突如として青白く発光しながら、十字のシルエットとなって彼方へ去っていくのだった。

 川の流れがさらさらさらりと聞こえてきた。

 も、もしかしてあの鳥も妖怪だったんですか……。

 食料が消えていった空を見上げる少女。

 覚はというと、こちらを振り返ることもなく、対岸の草むらに消えていったシャベルを拾いに無言で川を渡り始めた。

 ……さて、戻ってきたらどんな感想を伝えるべきでしょうか。

 だが、覚はその歩みをすぐに止めた。少女もそのことに気付き、覚が見つめる視線の先を追っていく。

 反対の川べりの、少女の足の付け根くらいの高さまで伸びたカヤの草むら。そこから突き出るように直立する者がいた。

 枯草色の着物に虫の羽のように薄い黒の羽織をまとった侍のような風体の、齢五十を超えていそうな老人である。その姿が、少女は最初は人間だと思えたのだが、彼のこめかみのあたりから細長い一対の触角が垂れ下がっており、またよく見るとくぼんだ目が左右で違う方向へギョロギョロと動き回っているのが見え、確信した。

 間違いない。妖怪だ。

「……これは何とも、奇怪な巡り合わせよ」

 年齢を重ねたことを感じさせる、距離があるのに耳に届く、落ち着き払った声だった。

「都を目指す道中、懐かしい香りがするので参ってみれば、まさか貴殿がいるとは。それに――」

 少女は翁の妖怪の不揃いだった目線がこちらに集まるのを感じた。まだ立ち上がれない。反射的に身を縮こめた。

「ひよこを連れ立っておる。これはまた愉快な」

 もしかしなくても私のことだろう。というか、その目つき、獲物に狙いを定めた獣のものではありませんか?あ、ひよこって、そういうことですか……。

 少女は思わず覚を見る。彼は川の中から一歩も動かないまま、老人の妖怪をにらみつけ、沈黙を保ったままであった。少女に背中を向けているので、その表情を見ることはできない。

「――やるのか?」

 覚はたった一言、そう告げた。少女には、その声がなぜか嬉しさを帯びているのを感じ取れた。覚に得体の知れない僅かな恐怖を覚えた。

「いや、ただ良き香りの元へ立ち寄ったまで。久方ぶりに知人の顔も見れて飽き足りた。今はこれにて去ろう」

「おう。じゃあ消えろ」

「まあしかし、悲しいことは、この次は会うだけでは満ち足りなくなること」

 老人の妖怪は身を翻した。そこで初めて、少女はその妖怪が腰に一本の大きな刀を携えているのに気付いた。

「顔合わせの次なるは、切り合わせ、ということもあり得るか」

 何やら物騒な言葉を残し、草むらが広がる川の向こうへと歩いていった。先ほどのサギと同じく、去った後には静寂が訪れた。

 老人妖怪が見えなくなると、覚は何事もなかったかのように川岸からシャベルを見つけて戻ってきた。

「行くぞ」

 ……触れないほうがいいですか?

「別に気にはしねえよ。説明もしねえがな」

 まさか今のが、サトさんが会うつもりだった知り合いの妖怪ですか?

「そう見えたか?」

 いえ。でも、知り合いっぽかったので。

「知り合いだとしても、アレは会いたくないタイプの知り合いだ。ほら行くぞ」

 ……あっ!大事なことを思い出しましたよ!

「うるせえすぐ脇で騒ぐな。……一応聞いてやる。何をだ?」

 くぅ。

 お腹がすきました。

 覚は深い深いため息を吐くと、片手にシャベルを持ち、もう一方の片手で喚く少女を抱え、川沿いに西へ進んでいくのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る