第5話 後・九十九里
生き返る心地、とはまさにこのことなのだろう。
「死んだこともないのに、そんなことがわかるのか」
比喩って知ってます?
「そのまま言えばいいことを、わざわざ遠回しにすり替えて言うことだろ」
先ほどからの会話でも分かったことだが、この男の人はとても面倒な性格だ、と少女は確信する。会話する度にストレスが積み木のように積み重なっていく気がする。
しかし積み上げられたストレスも、広々とした湯船に浸かっている少女にとっては大したものでもなかった。意外なことに湯舟だけでなく、床や備え付けられた桶に至るまで掃除が行き渡って輝くようだったのもポイントが高い。外観からは想像がつかないほどの清潔感だった。山で暮らしていたころもお風呂くらい入ったことはもちろんあったが、その浴槽は祖母が昔から使い込んでいた円筒形の大きな鉄の桶だった。老体を丸めながら火の勢いを見てくれていた祖母が、五右衛門風呂と呼ぶのだと言っていた気がする。浴槽に溜める水を運ぶのも大変で、そもそも妖怪から隠れるように暮らしていたので、おいそれと火を頻繁に焚いたり水を求めてうろうろするわけにもいかなかった。それなので、身を清めるのも数か月ぶりだということは乙女の秘密だ。
隣で同じく湯に浸かっていたシャベルの男も、ここまで見てきた中で最も柔らかな表情を湯船に浮かべている。
これで口から気に障る一言が出てこなければよいのだが。
「余計なこと考えてんじゃねえ」
それはそうと……あなたは、なぜ考えていることがわかるのです?
「俺にとっては当たり前のことだ。できないお前ら人間のほうが不思議だよ」
少女は薄々勘付いていた。やはりこの人……もとい男は人間ではない。妖怪だ。しかし、不思議と少女の気持ちは平静と恐怖の境界線にて、ぎりぎり平静のところで踏みとどまっていた。
そうなると出てくる疑問がある。なぜこの妖怪は私を助けたのだろうか。
彼は言った。「気まぐれ助けた」と。
しかしそもそも妖怪にとって人間は敵でしかないのだ。気まぐれであったとしても、助けるなんて選択肢が出てくることがおかしいのではないか。……もしかしたら、この妖怪も船の奴らと同じように自分をどうにかしようと企んでいるのでは。こう、油断させて置いたと思ったら乱暴して……本にしたらとても薄いものになりそうだ。
「言っとくが、いつでも好きに逃げてもいいぞ。それはそうと、ここには俺以外の妖怪もいるのは入り口で見ただろうがな」
確かに……。入り口には数こそ一、二匹ではあったが妖怪がのんびりしていた。番頭らしき小汚い妖怪は男に抱えられた少女を怪しい目で見ていたのだが、
「こいつは座敷童だ。この通り畑仕事をして土で汚れたらしい。だから湯に入れたい」
「あの、それよりも、その方から妙な匂いが……」
「畑仕事をしていたからな。ジャガイモ臭いのは許せ」
「あの……」
「じゃあ入るぞ」
道を通るのに理由がいりますか?とでも言うかのような振る舞いで男が押し通し、この二名は運よく誰もいない湯船に入ることに成功したのだ。
確かに今逃げ出そうとしても、この足では移動することすらままならない。通りすがりの妖怪に、路肩の花を摘むように簡単に捉えられてしまう。
それにしても、誰がジャガイモ臭いんですかね?
「割と本当のことだから身体をよく洗え。土臭いし汗臭いし、何より人間臭いのがまずい」
海水で多少汚れは落ちているはずですが……前の二つは洗い落とせるとして、一番最後の項目はどうしたらいいでしょうか。
「とりあえず少しでも長くこの風呂に入っとけ」
なぜです?
「匂いで人間であることがわかるなら、まずそれを消すことだ。妖怪が浸かった湯なら一時しのぎだが隠すことはできる。服なんかも妖怪どもが使っているやつを剥いで奪う。とりあえず妖怪と同じものを使ってこの世界に馴染んどけ」
なるほど……?いまいちピンとこないが、今はその言に従ったほうがよさそうである。
少女はそう判断し、脱衣所に落ちていたボロボロのタオルで身体を洗い始めた。
しばらくの沈黙。人は身を清めるときとカニを食べるときは自然と押し黙るものである。この少女も例外ではない。が、思い浮かべるだけで彼と会話ができるのだから、少女はふと気にかかったことを心に描いてみた。
湯船の彼を見る。
彼は、どんな妖怪なのだろうか。
「……覚だ。考えが読めるって言ったら大体察しがつくだろバァカ」
そういうことではなく……それに妖怪の種類とかそんな知らないですし。
「よく生きてこれたなお前……」
少し前までは山の奥に住んでいましたからね。
「そのまま隠れていればいいだろ。わざわざ食われに出てきたのか」
身体を洗い終え、湯船に戻ろうとしていた少女だったが、その質問に歩みを一瞬止め、そろそろと湯船に足を入れた。浴場のあちらこちらに目を泳がせていたが、複雑な迷路を辿り終えたようにゆっくりと覚に向け言葉を思い浮かべた。
取り戻したいんです。
「何をだ」
声、です。
「……ああ」
……ある日、どんな妖怪かはわからないんですけど、山の中で、遠くにちらっと妖怪を見かけたんです。それで妖怪に見つからないように隠れていたら急に、震えが止まらなくなって。
「……」
そうしたら声、声が、出なくなって、それで、あの……すいません。
「泣くほど悲しいのか」
すいません。
こうして誰かに打ち明けるのは初めてであったため、少女は自分の目的を伝えるだけのつもりが、大粒の涙まで一緒に出してしまった。涙とともに湯へと溶けていく呼吸音を、覚はしばらく黙って聞いていた。
「……俺は先に外へ出る。そのめちゃくちゃな顔がマシになったら出てこい」
……あの、ありがとうございます。
「何でお礼が出てくるんだよ。あの番頭から礼を言われるならともかくな」
ええと、それはどういう……。
「あいつはアカナメだ。客が入り終わったら、その浴槽や桶を舐めて――――」
すべてを察した。
不自然なほどにこの銭湯が綺麗なことと、彼の今の言葉。
涙の通り道に板を打ち立てたように、頬を伝う水はどこかに消え去ってしまった。その代わりに、沸き上がる嫌悪感。
もし、少女の今の心境が質量を持つ文字となって現れるとしたら、「ぎ」と「ゃ」と「あ」、そして「!」でこの浴場は大洪水となっていただろう。
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