第3話 前・九十九里
拝啓、おばあさま。私はあなたが大嫌いです。
少女はもし手紙を書く機会があるとしたら、その挨拶から始まる恨みつらみをつづってやるつもりだった。
物心がついた時、すでに人類は自分たちを置いてはるか宇宙の彼方へ移動した後だった。大移動の前、つまり妖怪たちがこの星を支配する前、人間たちがどのような日常を営んできていたかは祖母が持っていた本を読んで知っていた。その様子は本当に一分一秒の隅々までが楽しそうで、色褪せたボロボロの雑誌や小説が宝石のように輝いて見えたものだ。だからこそ、今の世界は人の営みが一切楽しめない苦痛で満ち溢れており、少女の恨みもそれはそれは妥当なものだと言えるのだろう。
そして今、祖母がこっちに来いと手招きをしているのだ。なぜか祖母は川の向こう岸にいるのだが、その川を渡ってでも骨と皮だけになったその首根っこを掴んで聞きたいことがある。
川岸から一歩踏み込む。しかしその足は川底をとらえることなく、立つべき地を失った少女はそのまま川底へ沈んでいくのであった。
そこで目が覚めた。
海岸から少し離れた浜の木陰。少女は身を起こして自分の容態を確認する。
どうやら気を失っていたのだろう。少女は全身ずぶ濡れで横たわっていた。木の枝葉の間から覗く太陽はまだ高い位置にあるので、そこまで長い間ここにいたわけではないようである。絹のように柔らかく吹いてくる潮風が少し冷たい。
そして少し離れたところで、例のシャベルの男が少女の様子をうかがいながら立っていた。
その男は少女が目を覚ましたとわかると、何か言いたげな視線を送ったが、結局何も言わずに踵を返してどこかへ立ち去ろうとした。
ま、待って!
少女は慌てて彼を呼び止めようとする。おそらくはあの男が少女を海からここまで運んでくれたのだ。立ち去る前に、いろいろ聞きたいことがある。
しかし呼び声は聞こえるはずがないのだ。
少女は声を出していないのだから。
だが、シャベルの彼はぎくりとした様子で一瞬立ち止まった。こちらを振り返らなかったが、少女の心の声に反応したことは容易にわかる。
ここである確信が少女の中に打ち立てられる。
間違いない。これは私の心の声が聞こえている反応だと。船で会った時に妙に意思疎通が成り立ちすぎていた気がしていたが、つまりそういうことなのだ。
……聞こえていますか?
いざ意識して心の声をかけるとなると、他人に知られることもないのに気恥ずかしい。これでもし違っていたら誰にも見られないところで叫びたくなるかもしれない。もちろん心の中で。
「……まだ何か用か?」
いまだこちらを振り返りもしない、渋々絞り出したような返事が投げ返された。
あの、助けてくれてありがとうございました……。
「そうか。助かってよかったな。あとはどこにでも好きなところへ行ってしまえ」
そりゃあ行きたいのはやまやまなのですが。
「なんだよ」
足が……。
「……」
シャベルがカランと小さく音を立てたかと思ったら、男はそのまま立ち去り始めた。
あっ!ちょっと!何か察したけど面倒くさそうだからこのままスルーしておこうってつもりですねこの人!待ってくーだーさーいー!
「うるさい。気まぐれで助けるのはここまでだ」
女の子に一度手を出してすぐ見捨てるなんて、オトコとしてどうかと思いますが?!
「だから、どこに行こうとお前の勝手だ。そこまで面倒を見る気など――」
あーこのまま動けないと妖怪に食べられてしまいますねーヤダ―!どうしましょー誰か助けてくれませんかねー!
「死ぬときは死ぬだろ。人間にとってはそんな世界だ」
……。
その言葉が少女に現実を、今自らが生きる世界を叩きつける。
そうだ。ここは本の中の、人間がキラキラと生きているような世界ではないのだ。あの船でもう落としたと思った命をこの男に拾ってもらい、何か希望が見えたと思った。しかしあの窮地を脱することができたことが一瞬の奇跡だった。奇跡はそう簡単に起こるものではないから奇跡なんて言葉を当てはめるのだ。ここはすでに人間が生きることができない、そんな世界だ。あの船の中で死ぬはずが、この木の下で死ぬことになっただけだ。
あの……。
「何だ」
ありがとうございました。あとは自分で頑張ってみます。
「……そうか」
少女は観念して身を起こし、細く頼りない木にもたれかかる。
これからどうしようか。とりあえずこの足が何とかなるまで大人しくして……なんか左の足首がナスみたいに変色しているんですけど。それに、どことなく寒気がしてきたような。こ、これこそ前途多難、雲行きが怪しくてお先が真っ暗だ……。
どうやら風邪をひいたらしい、頭に重しを乗せられたような痛みを感じた少女だった。
だが、不意に浮遊感に襲われる。
シャベルの男が少女の手を取り、雑な扱いをしながらも、そのまま自らの背に小さな体を乗せたのだ。
少し朦朧とした意識の少女からは男の表情は見えない。わずかに温かさを感じる背中は意外と大きく、得も言われぬ安心感が少女の胸に広がる。
この人は何なのだろうか。助けると言ってくれたり、助けないと言ったり、かと思えば何も言わずに助けてくれたり。どんな性格をしているのだろう。もし、このままもう少し生きていられたら――――。
少女の上の瞼がとろりと降りてくる間際、歩を進めようとしたシャベルの男は眠りにつこうとする少女の意識に滑り込ませるように、そっと呟いた。
「臭いな」
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