第2話 海上

 突風が背を駆け抜けた。 

 それはうつぶせになっている少女の感覚の話であり、実際は少女の背に乗っていた妖怪が隣にいた妖怪を巻き込んで何かに吹っ飛ばされたのだった。壁にたたきつけられた二体は雑巾のようにのびていた。

「ぎゃあぎゃあうるせえ。痛がるか、死ぬか、悔しがるかどれかにしろ」

 まだ身体の節々が痛んでいたが、その声の元へ、少女は恐る恐る顔を上げた。

 裾がぼろぼろになった柚子の葉のような深い緑色の着物から白い肢体が覗く。暗闇と同化する黒い髪の隙間から彼女を見下ろす目は刺さるように冷たい。少女の目の前には少年と青年の中間くらいの男性が柳のようにゆらりと立っていた。

 そんなことよりも少女の目線は彼の手元に移動する。

 ……シャベル?

 大きな槍に見えたそれは鈍く光るシャベルだった。いやスコップだったかもしれない……。ともかくその得物で妖怪たちを吹き飛ばしたのだろう。そのスプーンのような先端には黄土色の液体が付着して滴っていた。

「……何ぼうっとしてるんだ。逃げたいなら早く逃げろ」

 ぶっきらぼうな物言いだが、それもそうだ、と少女は立ち上がろうとする。

 だが、すぐに地べたにべちゃりと寝転がってしまった。

 そういえば足を捻られたのだった。痛みの元を確認すると、やはりおよそ人体には不可能な方向へアグレッシブに曲がっていた。

 改めてその光景を目にすると、先ほどまで驚きで麻痺していた痛みが蘇ってきた。

 ひぃ、痛い。痛い。多分このまま死ぬ。

「だからうるせえって言ってるだろ。逃げない、動けないならそのままあいつらに食われてしまえ」

 おそらくは先ほどの彼と妖怪のひと騒ぎを聞きつけたのだろう。蹴破られた入り口から別の妖怪が入ってくる。毛玉のような毛むくじゃらの生き物、赤い髪の子供、背丈が大きすぎて入り口で詰まっている大男、そこからどんな妖怪が集まってきたのか見るのをやめた。口々に何かを言っているが、内容なんて気にならなかった。誰にどう扱われてもよい未来が見えないのは確かだろう。

「モテモテだな、お前」

 これほどうれしくないモテなどあってたまるのだろうか。いや、ない!

「じゃあ生きてここから逃げたいって言うのなら、やることは一つだな」

 シャベルの男は落ち着き払ってそう言うと、シャベルの柄部を両手で握り直した。見られただけで切られてしまいそうな細い眼を妖怪たちへ向ける。これが殺気というものか、と少女は雰囲気で察する。

 目線に一瞬ひるんだ妖怪たちであったが、先頭にいた一匹の獣のような妖怪が少女に向かって飛び出していった。奇声とも絶叫ともとれる大声を上げながら、バネで弾かれたかのごとく少女との距離を一気に詰める。まだ満足に動けない少女は彼にとってまな板の上の鯉、というよりもまな板の上の人間である。少女の視界で獣がどんどん大きくなる。

 しかしそんな狩る者とエサの間に、例のシャベルの男が割って入った。少女の視界を覆うように立ちはだかった男はネジのように体を目いっぱい捻り、

「ふっ!」

 その掛け声とともにシャベルで豪快にフルスイングをかました。正確に言えばスイングの起動が地面と水平になる、ボールを確実に捉えやすいレベルスイングだった。スポーツ雑誌で見たことがあった。

 彼が振りぬいたシャベルの先端のさじ部は迫ってきた妖怪の顔面を直撃し、ピンポン玉のように吹き飛んだその体は壁に激突した。あまりの衝撃に劇場内が小さく揺れる。壁の照明が割れ、その破片とともに劣化してはがれた天井の一部がパラパラと降り注ぐ。

 その光景をみた妖怪たちは目が飛び出るほど驚いた。目がついていない妖怪は腰を抜かした。

 少女は驚いているというよりも、今目の前で起きていることに理解が追い付かなかった。

「今だな」

 ……えっ?

 その場で唯一呆けていなかったシャベルの男が素早く動いた。少女の腹部に腕を滑り込ませてぐいと持ち上げ、まるで子犬でも抱えているかのように軽快に駆け出す。

 彼の疾走に合わせて少女の視界が揺れる。ぐるぐる回る。床やら天井やら照明やらが上へ下へ。そして、気のせいか大海原が覗く壁の大穴が近付いているような。

 まさかこの人、とシャベルの男の顔を見る間もなく、少女の身体が大きくガクンと揺れた。遅れて動き出した妖怪たちの意味を持たない罵声を背に受け、壊れた壁の縁で男は走った勢いのまま身体を大きく屈ませ、羽ばたくように大穴から船の外に飛び出したのだ。

 アホか――!

 潮風混じりの風圧をいやというほど肌に受けながら二人は落下していく。下からは二十メートルくらい離れていたはずの青い壁がどんどん迫ってくる。このまま海面にぶつかればつぶれたトマトそっくりな人体マッシュの出来上がりである。やっぱり死ぬんじゃないか。

 あ、もうダメだな、と思考がその結論に至った時、少女の視界はふっと静かに暗転した。

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