第1話 海上
人間が使う暦を基準にすると初秋の昼下がり、その巨大な船は妖怪の手にって今日も日本の各地を回遊していた。
かつて人間が使っていたクルーズ客船の操舵手を務めるのは老齢の船幽霊であり、本人も何だかよくわからない力で船を操り、遠くへ用事がある妖怪を快く乗せて生前以上に船旅を楽しんでいるのである。
しかし普段は陽気な雰囲気が漂う彼の船も、今日ばかりは妖怪たちからしてもただならぬ雰囲気を匂わせていた。
船の甲板を下っ端の船幽霊たちが蜘蛛の子を散らしたように走り回っている。或る者は脱出用のゴムボートの中を覗いたり、或る者は穴の開いたタンクの中に首を入れたり、明らかに何かを探しているようだった。彼らの間で交わされる会話の端々から「ここは匂いが強いぞ」や「中も探せ」といった言葉が聞こえる。中には目を血走らせて船内を駆け回る者もいたため、船客の他の妖怪も何事かと部屋から首を出す。
そんな妖怪たちの死角を縫うように部屋から部屋へ、物陰から物陰へと息を潜める一つの影があった。
少年とも少女とも捉えられる顔立ちをしているが、手足や頬、身にまとっているローブなどすべてが泥にまみれてとにかく汚い。その動く姿は傍から見れば使い古した布切れが風に吹かれているようにしか見えないだろう。ショートヘアの前髪から覗く大きな瞳は縦横無尽に動き回り、その者が妖怪たちの目から逃れるようにしているのは明らかだった。
そうしてその者の足が行き着いた先は、船のシアター劇場だった。当然照明など点いているはずもなく、だからこそ隠れるのにはもってこいの暗闇が期待できた。しかしそのシアターは本来スクリーンが広がる前面に大穴が開いていたため、大海原が見渡せる景色から差し込む光が暗闇の大部分を暴いていたのだ。その者はわずかな影を探して隅へと移動する。
捕まれば確実に食われる。
その緊張感から解き放たれたためか、逃走者は埃にまみれ色の褪せた絨毯の床に寝転がった。ゆっくりと息を整えるその身に舞った埃が雪のように降り積もり、沈黙の劇場には静かな呼吸音があぶくのように浮かんでは消えるだけだった。
しかしそのほのかな静寂も、数刻と経たずに扉の向こう側の喧騒によって崩れ去った。
「――この部屋って調べたか?」
「部屋なんて多すぎてそんなの覚えてないねぇ」
「んじゃ入ってみるか、一応」
起き上がった時にはもう遅かった。劇場の入り口が乱暴に開く。船内の通暗闇に路の照明は点いていないものの、暗闇に目が慣れた者にとっては花火のような閃光が差し込む。その光とともに侵入した二体の妖怪は座席の下へ隠れようとしている者をすぐに見つけた。
逃走者の匂いをたどってやってきたのだろう。その者は隠れても無駄だと悟る。
走り出したと同時に、背後の足音が激しくなる。出口を目指したが、数歩とせずに後ろに身体が引き戻される。妖怪の手に引っ張られたのだ。うつぶせに組み伏せられ、掴まれた肩には握りつぶされたと思うほどの圧力がかかる。
「やっと捕まえた。……やっぱ人間だぜ!」
「初めてみるなぁ…。思っていたより汚いし、臭い。ほんとはアカナメじゃないのコイツ」
「バカ。これは間違いなく人間だ。しかも、ほら顔を見てみろ。まだ子供の女だ」
「子供で女だと高く売れるんだっけか」
「女だと上手くいけば親にすることもできるからな。子供は売値にどう響くかはわからん」
頭上で身勝手極まりない会話が続いている中、組み伏せられた逃走者の人間、小汚い身なりのその者――少女は骸のように沈黙を保っていた。身動きをしようにも、手足自体が石にされたように動かない。
「じゃ、連れていくか」
「足くらい捻っておいたほうがいいんじゃない?逃げられたら面倒だし」
「それもそうだな」
刹那、左の足首がはじけ飛んだ。そう錯覚するほどの激痛。
痛い。きっと足首が笑えるほど狂った方向へ曲がっているに違いない。痛い。声は出ない。なぜか吐き気を催す。痛すぎて痛いと考えることを拒否したくなる。
あぁ、死ぬ。彼らの会話、釣った魚を締めるようにためらいなく行われる暴虐、それらで少女が自らの死を悟るには十分だった。
悔しさだった。命を他人に奪われる予感に、足首の痛みを忘れるほどにこみ上げたのは悔しさだった。
そして、彼女だからこそ、妖怪ではない人間であるこの少女だからこそ、迫りくる死に背を向け、遠ざかる希望を掴むように願った。
生きたい、と。
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