第17話 ギースと巧斗

 衛兵の屯所に行くと、師匠は一人で屋敷裏庭の修練場に行ったと告げられた。


「そう、ありがとう。じゃあ、行くわよ兄様」

「うむ、行こうミュリカ! 久しぶりの巧斗さんとの逢瀬、身体が逸るなあ! いや、もちろん心も逸るけど!」

「え、ギース様をお連れするつもりですか……!?」


 居場所を教えてくれた衛兵が、隣にいるギース兄様を見て慌てたように訊ねる。きっと今までにもここで何かやらかしたんだろうな、兄様……。

 深いため息を吐いてこめかみを押さえていると、何かを逡巡した衛兵が、私にこそりと耳打ちしてきた。


「あの、ミュリカ様……。教官は今、一人稽古の最中ですが、良いんですか……?」

「……どういうこと?」

「ダン様……というかジョゼ魔道士様の指示らしいのですが、教官の稽古中はだれもそこに近付いてはならないと言われているのです」

「ええ? 何でかしら。私が向こうの世界にいる時は、普通に師匠と一緒に稽古してたけど……」


「ふふ、僕は知っているよ。稽古中の巧斗さんはものすごい色気とフェロモンを発するんだ。その現場に遭遇したら、みんな前屈みになっちゃうよね」


 ……何でそんなことを兄様が知っているんだろう。


「フェロモン、ねえ……」


 ギースの言葉は話半分で聞くとしても、ジョゼが指示をしているとなると、相応の理由があるに違いない。

 実際、日本にいた時は感じなかった師匠の甘い匂いは、こちらの世界でのみ発現する『女神の加護』に由来するフェロモンのようなものなのかもしれないし。


「仕方ないな、兄様はちょっとここで待ってて。私が先に師匠のところに行ってくる」

「僕も行くよ。勃っても気にしないし」

「私が気にするわ。つーか少しは気にしろこの野郎引っこ抜くぞ」

「抜くなら是非とも巧斗さんにお願いした……ぐふっ!」


 ちょっとこの変態何言ってるか分からないから、鳩尾に一撃放って黙らせた。


「ごめんなさい、一人で行ってくるから、兄様のこと取り押さえておいてくれる?」

「はっ、かしこまりました」


 衛兵にギースを預けて裏庭に出る扉を開ける。

 すると、外に出てすぐに、師匠のものらしき甘い香りが風に乗って漂ってきた。

 修練場は周囲を壁で囲われているけれど、それだけでは抑えきれないようだ。入り口から中を覗くと、その香りはさらに強くなった。


「……美由?」


 すぐに私の気配に気付いた師匠が素振りを止めて振り向く。

 こっちに来てからほにゃほにゃしている師匠しか見ていなかったが、久しぶりに剣を構える彼の視線はきりりと凜々しく、立ち姿は美しかった。肌を出すのを嫌う師匠だが、暑いのだろう、珍しく襟元のホックを外して鎖骨をわずかに晒している。

 首元や額ににじむ汗、張り付く髪。薄く紅潮した肌色。


 なるほど、確かにこれはすごい色気だわ。


 おまけにこの、めちゃくちゃ良い匂い。ギース兄様の言っていたことは、あながち間違いじゃない。

 ここに男性が来たら、間違いなく息子さん総立ちだろう。


「勝手に入ってきてごめんね、師匠」

「いや、別に構わないが……美由は大丈夫なのか?」


 近くに寄っていくと、師匠は少し困惑した様子だった。


「大丈夫って、何が?」

「その……自分ではよく分からないんだけど、稽古してる俺はものすごく臭うから近付くなって、ジョゼに言われたから。加齢臭かなあ……確かにおっさんだけど、そんなに酷いかな……」

「ちょっ、違う! 匂うの漢字が違う! 師匠はすごく良い匂いしてるよ!」


 ジョゼの野郎、絶対師匠をヘコませるためにこんな言い方したな……。でも稽古の師匠を隔離するのは英断だった。そうでなければ、きっと衛兵たちが匂いにやられて訓練にならない。


「俺みたいな枯れかけたおっさんが、良い匂いなんかするわけないだろ。……でも、臭いには相性があるみたいだから、美由が俺の臭いが気にならないなら良かった」


 私の言葉に、師匠は嬉しそうにほわんと笑った。ああもう、可愛いな!


「臭うから一人で稽古しろって言われて、ずっと実践形式の練習ができなかったんだよな……。なあ、美由、ここでも修練は続けるつもりだろう? 臭いが気にならないんだったら俺と稽古しないか? お前がどれだけ強くなったのか見たいし、俺がいない間に付いた癖も確認したい」

「あ、それは私がお願いしたいくらい! 強くなった自負はあるんだけど、我流で来ちゃったところもあるから、師匠の指導を受けたいと思ってたのよね」


 師匠に再び師事したいと思っていたのは本当だ。

 それに、こんなフェロモン垂れ流し状態の師匠を一人で置いておくわけにはいかないからちょうどいい。一緒に稽古をしていれば、誰かが忍んできても撃退できる。


 そう思っていたら、いきなり変態が忍び込んでいた。


「はぁ……巧斗さんの麗しい鎖骨がっ……何たる眼福! その白い肌に滴る汗を舐め取りたい……!」

「うわ!? ギース兄様!? いつの間に……! ちょっと、衛兵は何してんの!?」

「はは、衛兵は今頃、僕とすり替わった長椅子を押さえつけているよ。巧斗さんと会うためなら椅子も使うさ」

「椅子になったり椅子とすり替わったり忙しいな!」


 知らないうちに私の背後に立っていたギースは、一見変態らしからぬ爽やかな笑顔を浮かべている。しかしよく見たらアソコに不自然にバックラーを着けていて、やっぱり変態だった。

 おそらく私に息子を引っこ抜かれないための対策だろう。


「ギース様、またいらしてたんですね。こんにちは」


 そんな変態に、師匠は普通に微笑みで応じる。

 ん? ちょっと待て。


「また?」

「ギース様も俺の臭いを気にしないみたいで、一人で稽古をしていると時々わけの分からないところから現れるんだ。今日は珍しく、ちゃんと館の方からいらしたのですね」

「今日は誰にも阻止されなかったんだよ。ミュリカが案内してくれると言ったからね」

「……兄様、私は衛兵屯所で待ってろって言ったんだけど」

「僕の息子は待てができない」

「何かのタイトルみたいな言い方しないでよ」


 兄様は元々が変態だから、この濃密な師匠のフェロモンの中でもあんまり態度が変わらないみたいだ。良いのか悪いのか分からないが。

 それにしても、ギース兄様が今までもこの状態の師匠に接触していたなんて恐ろしい……。


「ああ、最近忙しかったから、生巧斗さんは久しぶりだ。結婚して下さい」


 うわっ、いきなり何を言いやがる。師匠に迫るな。


「ギース様は相変わらず妙な冗談がお好きですねえ」


 ……しかし、脈絡もなく告白して突進してきたギースを、師匠が身体を半歩退くだけで笑顔でするりとかわした。

 あ、これ、本気にされてないわ。


「うなじの匂いを嗅がせて下さい」

「やだなあ、おっさんの加齢臭を嗅ぐなんて、何かの罰ゲームですか?」


 伸びてきた手を手の甲で受けて、そこを軸に軽く転回して後ろに回る師匠の体捌きはさすがだ。無駄な動きがまるでない。


「その汗舐めさせてくれませんか」

「のどが渇いてるなら水をお持ちしますよ」

「せめてその汗を拭いたタオルを下さい」

「そちらに新しいタオルがありますから、使い古しよりそちらを差し上げます」


 師匠は笑みを浮かべたまま、最低限の動きで慣れた様子で兄様をかわす。

 これは、師匠の方が断然上手うわてだ。今までもこの調子だったのだろう。味方に警戒心のない人とはいえ、さすがにギースには対応するか。下手な心配は無用だったかもしれない。


 ……けれど、このままでは腕輪の燃料が補充できないなあ。

 ギース兄様も今は一応若干のエネルギーはあるけれど、イオリスと同じでずっとジリ貧だったのだろうか。


 進展を見せない二人の問答を眺めながらどうしたものかと考えていると、攻めあぐねた兄様が身悶えた。


「くうっ……この容赦ない完全スルー、全然響いてない感じ……。ああ、このもどかしさが堪らない! 巧斗きゅんへの愛しさが増すばかりだよ……!」


 あ。ガラス玉を見たらいつの間にか燃料が三割に回復してる。

 どうやらギース兄様は、師匠に体よく捌かれて新境地の喜びを感じているらしい。


 うん。変態だな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る