第9話
最初に戻ってきたのは聴覚で、ぴちょん、ぴちょん、という水の音が鼓膜を震わせた。
次いで痛覚が戻る。体中が痛い。目を開けるのもしんどい。
思わずうめき声をあげると、耳元で大臣ジュニアの声がした。
「わーっ! わーっ! 勇者先輩生き返った! うおおおお大丈夫っすか! 大丈夫っすかー!?」
「死んで……ないから……。あとうるさい……」
耳を塞ごうにも腕があがらない。
僕はゆるゆると瞼を持ち上げ、水音の正体を知った。
王女が、大きな葉にためた水を少しずつ少しずつ、僕の顔に落としていた。
「最初は10分置きにコップ一杯分の水をぶっかけてたんすけど、こっちの方が効率いんじゃね? ってことになって」
「あー、だから顔びしょ濡れなんだね。うん、一応ありがとう……」
「目覚ましてくれてよかったっすよ……もし勇者先輩が死んじゃったら俺……俺……」
目元を押さえて口ごもる大臣ジュニア。
僕はそこまで慕われていたのか。気恥ずかしさはあるが、悪い気はしない。
僕は彼を慰めようと、ゆっくり腕を伸ばす。
「……もし勇者先輩が死んじゃったら、俺が勇者扱いされちゃうじゃないすか……俺、国中にあんなダッセェ銅像建てられんの、絶対嫌っすわ」
僕はぱたりと腕を下ろした。
……まあ『勇者像とか建てるのだけはやめてください』と出発前に国王に言っておいたから、そういう事態にはならないはずだが。
よく見れば、僕は寝台に寝かされていた。寝台もびしょ濡れだが、大丈夫なんだろうか。
そもそもここはどこだろう。どれくらい時間が経った? 状況を把握しなければ。
「確か僕は……崖から落ちたんだっけ。よく生きてたなあ」
「突然消えたからビックリしたっすよ。下が草むらになってて助かったんすね。骨とかも折れてはなさそうっすよ」
「あの時君らの後ろに化け物がいたけど、そっちは大丈夫だった?」
「え、……ああ、その化け物ってソイツっすか?」
「へっ」
大臣ジュニアが僕の後ろを指差す。軋む体でむりやり振り向くと、小山のような化け物が背を丸めてそこに座り込んでいた。
声も出せずに固まった僕の前で、その化け物は流暢に人語を話した。
「驚かせてごめんなさい……ぼく、勇者のおじさん達を案内しにきただけだったのに……」
まだ幼い少年のような声だった。ミスマッチここに極まる。
あと『勇者のおじさん』は『勇者先輩』を抑えて呼ばれたくない呼称NO.1に輝いた。
「……魔王の所への案内役か」
「うん。遅いから見てきなさいって、魔姫さまが」
「まひめさま?」
「魔王さまのむすめ」
国王の娘はお姫様だけど、魔王の娘は魔姫様と呼ぶのか。初めて知った。
僕は痛む身体をゆっくりと起こして、寝台を降り、立ち上がる。
「分かった。じゃあ案内してもらおうか」
「え? もうしたよ。勇者のおじさんをここに運んだの、ぼくだもん」
「え?」
「魔王さまはそこにいるよ」
化け物が鋭い爪で示したのは僕の後ろ、大臣ジュニアと王女の向こう。
彼らがスッと身をずらすと、その向こうにも寝台があった。
そこには、一人の老人が横たわっていた。
やせ細った腕、シワの目立つ肌、弱々しい呼吸。
総白髪の間から生えた二本の山羊の角と、半開きの口から覗く牙がなかったら、僕は目の前の老人が魔王だなんて信じられなかっただろう。
だが、もっと信じられない光景は、そのベッドのさらに向こうにあった。
年老いた魔王のベッド脇に付き従っていたのは、僕の知っている女性だった。
「久しぶりね。……まさかあなたが勇者としてここへ来るなんて」
僕の元妻が、疲れた微笑みを浮かべてそこにいた。
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