憧れの学校
今日も寝不足のまま朝を迎える。まったく、部屋をわけろなどと言うのではなかった。そばにいなければいないで、かえって気になって仕方ない。
カーテンから透ける朝日を憎々しげに見つめ、元の長さに戻った金髪を面倒くさそうにかき上げる。机の引き出しから適当な紐を見つけて束ね、しわになったシャツなど気にするはずもなく、一つ大きく欠伸して部屋を出た。
「おはよう、カイン様。オムレツできたよ」
女中たちと一緒に厨房に立つシルヴァの顔色は良い。席に着くと、手際よく朝食を並べて茶を淹れる。少し苦い香りがぼんやりとした頭にしみた。
「よく眠れたか?」
「うん。カイン様はまだ眠そうだね」
まさか自分が言い出したことが原因だとは知られたくなくて、暑さのせいにしておいた。
窓から吹き込む潮風がカーテンを揺らす。外はすでに日差しが強く、餌を求める海鳥たちの声が騒々しい。
できることなら、涼しい部屋で冷たい果実酒でも舐めながら過ごしたかった。
「ね、カイン様。学校にはいつから行っていい?」
「ん……」
夏が終わってから、などと言ったらきっと怒るだろう。仕方なく、朝食のあとで入学の手続きに行くことにした。
「まあ、シルヴァさんが学校に?」
「はい。読み書きくらいできるようになりたくて。それに、ウェーザーのことをもっと知りたいですし」
アレシアは良いことだと支持し、通学用に自作の手提げかばんを譲ってやる。丈夫な麻布に花の模様の刺繍が施され、実用的でおしゃれなかばんにシルヴァは大喜びした。
街に出て雑貨屋で文具をそろえ、いよいよ学校の門をくぐる。先にセリオが話を通しておいてくれたらしく、校長はにこやかに二人を迎えた。
「ようこそ、シルヴァさん。どうぞたくさんのことを学んでくださいね」
新しい紙のにおいのする教科書を受け取り、シルヴァはそっとページをめくってみる。文字の書き取り、数字の計算、ウェーザーの歴史、胸がときめく。
「短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」
挨拶が済むと、担当の教師に案内されて教室へ向かった。
「無理を言ってすまんね」
「とんでもございません。カイン様のご婚約者様をお預かりできるなんて」
カインは懐を探り、用意しておいた寄付金を手渡した。校長はその額に驚く。
「こ、こんなに?」
「ん、相場がわからなくてね。まあ、校舎の修繕や備品の買いたしにでも使っておくれ」
シルヴァのために警備兵でも雇うべきかと、校長は頭を悩ませた。
「授業が終わるころに迎えにくる。そうだ、街で困っているひとはいないかね」
恋人が勉学に励んでいる間、何もせずに寝ているのも気が引ける。全てのひとを幸せにという役目を果たさねば。
「そうですね……下町の貧困層は、何かと問題を抱えているようですが」
あまり詳しくないのは、関りを持ちたくないからだろう。仕方ない。カインは礼を言って学校を出た。
* * *
穏やかな光の差し込む廊下、教室の窓は開け放たれ、教科書をめくる音、ペンを走らせる音が静かに響く。生徒たちは机に向かってせっせと書き物をしたり、ときどき手を挙げて質問したり、優しそうな教師は丁寧に説明する。
彼らは珍しい新入生に気付くと、手を止め、気もそぞろに視線で追いかけた。短い黒髪に碧色の瞳、噂の運命の乙女だ。
校長室から三つ離れた教室に通され、黒板の前に立たされる。
「どうぞ、簡単な自己紹介を」
「え、あ、はい。えっと、シルヴァ・ミントです。ウェーザーのことを勉強したくて来ました。よろしくお願いします」
緊張した面持ちでお辞儀すると、ぱらぱらと拍手が起こった。頭を起こしてよくよく見れば、同級生は十歳くらいの子供ばかり。みな不思議そうにシルヴァを見ている。
「あは。シラー語は読み書きできるけど、ウェーザー語はまだわからなくて」
そういうことかと納得したようだ。
「では、シルヴァさん、あちらの席へどうぞ。途中からなのでわかりにくいかもしれませんが、しっかり聞いておいてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
用意されていたのは窓際の最後列、潮風に乗ってかすかに波の音が聞こえる。
さっそく、前の席の子が話しかけてきた。
「ね、教科書、読める?」
「ううん、読めない。なんの授業?」
「トマの歴史。トマとウェーザーが戦争になった時のこと」
「戦争?」
教師がこほんと咳払いし、白墨で黒板を叩く。シルヴァ達はあわてて口をつぐんだ。
「……ウェーザーはトマ一族の航海技術と軍事力をほしがりました。そこでウェーザー王は、一族の統領の孫娘に近付き、味方につけます」
トマ一族の統領は烈火のごとく怒り、孫娘を奪い返すためにウェーザーに攻め込む。しかし陸での戦闘に不慣れなトマ一族は敗退し、降伏を迫られた。
「ウェーザー王はトマ一族に、海軍になるように言いました。そして、今のトマ海軍ができたのです」
シルヴァは話を聞きながら、一人胸を高鳴らせる。
これは、カインの両親の出来事だ。五百年前のことと理解しているつもりだったが、こうして歴史として語られると改めて驚かされる。ぜひ、もう一度本人から聞いてみたい。
午前の授業が終わり昼休みになると、生徒たちは一斉にシルヴァの机の周りに集まった。別の教室の生徒も興味津々に覗き込んでいる。
「ね、運命の乙女って本当?」
「シラー語は話せる?」
「黄金の王と旅してるの?」
「カイン様のこと、好き?」
無邪気な質問に、シルヴァは一つ一つ答える。もともと人懐こい性格なので、打ち解けるのは早かった。
「あれ? お弁当は?」
「あは。知らなくて。今日は用意してない」
「じゃあ、私のわけてあげる」
「僕も」
育ち盛りの子供たちからもらうのは気が引ける、と思ったが、正直な腹が盛大に鳴る。申し訳なさそうに赤面しながら、一口ずつわけてもらった。
午後はいよいよウェーザー語の授業だ。教科書の文字を覚え、書き写し、読み上げる。少しずつ単語がつながり、文章になると、世界が広がるような気がした。
* * *
授業が終わるまでの間、カインは校長から聞いた下町の様子を見にきていた。どの都市にも少なからず貧困層はあるが、たしかにトマの荒れ方はひどい。
今にも朽ちそうな古い家、路地の石畳はひび割れ、ごみと汚物が散乱している。座り込んだ男たちは虚ろな瞳で宙を見つめ、手にした酒瓶が空になると苛立たしげに放り投げた。
物陰からじっと見つめる子供たち、服はほつれて薄汚れ、髪は何日梳かしていないのだろう。そして、なぜこの時間に学校に行っていないのだ。
何かおかしい。
たった一年の間に、なぜこれほど変わってしまったのか。もっと活気にあふれ、みなで助け合い、笑って暮らしていたはずだ。
評議会はいったい何をしている。貧困層への施しや、子供たちの学費の援助はどうした。
「セリオに確認してみるか」
まったく、どこから助けてやればいいのかわからない。いや、きっと何もするなと恋人は言うだろう。一時的な優しさなど意味はない。自分の意志で立ち上がり、生きようとしなければ。
不意に足元に衝撃があり、驚いて確かめると、幼い少年がしりもちをついていた。
「ああ、すまん。大丈夫かい」
助け起こそうとする手を払いのけて、少年は走り出した。
「……俺からすろうなんて、たいした度胸じゃないか」
カインはやれやれと肩をすくめ、足首をほぐす。そしてきっと金瞳に力を込め、地面を蹴った。
本気を出したカインにかなうはずがない。少年はすぐに捕まり、泣きながら謝った。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 返すから! おねがい、見逃して!」
首根っこをつかまれたまま、足をじたばたさせる。少年のズボンのポケットからは、カインのもの以外の財布も出てきた。
「さて、どうしようかね」
なかなか慣れた手つき、常習犯だ。何か事情があるのだろうと見逃してやるべきか、警備兵に引き渡すべきか。
「なぜ、ひとの財布を盗むんだ」
少年はきょとんとした目でカインを見つめた。金が欲しい他に何がある。
「いや、理由があるだろう?」
どう答えたらいいのかわからないらしく、少年は困惑している。少し先の曲がり角で様子をうかがっていた別の少年たちが、舌打ちして逃げていくのが見えた。
カインはため息をつく。
「あれは、おまえの兄弟か?」
「ううん」
「では、友達か」
「う……ん……」
ろくでもない友達だな、と内心毒づきながら、少年を解放した。少年は戸惑いながら後ずさる。
「いいか、困ったことがあれば、評議会に相談しろ。難しければ、丘の上のトマの屋敷においで」
この夏の間に、救えるといいが。ポケットに忍ばせてやった菓子は、公平に行き渡るだろうか。
時間になり、シルヴァを迎えに学校へ戻る。
同級生に囲まれてシルヴァは楽しそうに話していたが、カインの姿を見つけるなり駆け出した。
「お待たせ、カイン様」
「ん、どうだった?」
「すごく楽しかった。みんな、また明日!」
手を振ると、男子は大きく振り返し、女子はカインの目を気にしながら上品に会釈した。
「あのね、歴史の授業で、カイン様のご両親のことを習ったよ」
「へえ」
「それから、お昼休みにはみんなから少しずつお弁当をわけてもらったの」
「よかったな」
「ね、何かあった?」
じっと顔を覗き込む、大きな碧色の瞳。まずい、浮浪児のことを知られたら、きっと気に病むだろう。せっかく楽しそうにしているのに。
「いや……男子が多いなと思って……」
「え、あんな小さな子たちにも妬くの?」
驚きながらもうれしそうにしている。ひとまず誤魔化せたか。嫉妬心の強い男だと思われるのは不本意ではあるが、仕方ない。
「おまえが毎日あの子たちと過ごすと思うと、気が気でないね」
「あは。じゃあ、カイン様も一緒に通う?」
「……おまえを信じるよ」
いつの間に嘘が言えるようになったのだろう。いや、少し真実が含まれているか。年長の子はシルヴァと年齢が近い。年寄りくさい自分より、気が合うかもしれないという心配は多少ある。
もっとも、仲睦まじく手をつなぎ寄り添って歩く二人に、誰が割り込もうなどと思うだろうか。
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