眠れない夜
日が暮れ、ちょうど夕食の支度が整った頃にアレシアが帰宅した。
「おかえりなさい」
待ちわびたシルヴァが急いで階下に降りて出迎える。
当主夫人でありながらアレシアは、週に三度ほど働きに出ていた。趣味ではじめた裁縫が好評で、才能を活かすべく街の仕立て屋に勤めているのだ。
トマの屋敷を飾るカーテンや敷布、女中たちの前掛けなどもアレシアの手作りらしい。技術はもちろん、美的感覚にも優れている。
「あら、セリオもまだなの?」
「はい。遅くまでお仕事されているんですね」
二十六歳の若さで評議会に参加するセリオは、街の運営や港の管理で多忙を極め、連日朝から晩まで働き詰めだった。
いつ帰ってくるかわからないセリオを待っていたのでは、せっかくの料理が冷めてしまう。アレシアが先に食べてしまおうと言い、カインとシルヴァも席に着いた。
「まあ、今日はおいもだらけなのね」
テーブルに並ぶ皿を見て、アレシアは目を丸くした。香辛料を効かせた魚料理以外は、いものサラダ、いものスープ、そしていものパイと、見ているだけで腹が膨れそうだ。
「カイン様が、木箱いっぱいのいもを全部むいちゃったんです」
先ほどあれだけ大量の揚げいもを食べたばかりのシルヴァが、すでにサラダとスープを平らげ、美味そうに魚をほお張っている。きっと、パイも全部食べるのだろう。
いもづくしの原因を作ったカインは、スープだけ飲み、あとは果実酒を舐めながらナッツをかじっていた。シルヴァが食べた分が全て、彼女の胸の肉にでもなればいいのにと思いながら。
「いやだ、いよいよおいもしか買えないほど、家計が逼迫しているのかと思ったわ」
「なんだ、そんなに散財してるのか?」
突然、雷のようなしわがれ声が響く。驚いて振り仰ぐと、赤ら顔の大男が豪快な足音を立てながら入ってきた。
「おひさしぶりです、カイン様」
「やあ、ブラス。元気そうだな」
まさにシルヴァが思い描いていた海賊そのものの風貌、この男こそトマ家の現当主ブラス・トマだ。さすが現役の海軍司令官を務めるだけあって、引き締まった身体、筋肉質な腕は年齢を感じさせない。よく日に焼けた顔は半分がひげに覆われ、伸び放題の髪を無造作に束ね、白い歯を見せて笑う。トマ一族の特徴である金瞳がカインとどこか似ているだろうか。
「カイン様がいらっしゃったと連絡を受けて、急いで帰ってきたのです」
「はは。相変わらず、陸より海にいる時間の方が長いようだな。アレシアが寂しがっているぞ」
余計なことをアレシアは目くじらを立てる。嬉しそうにブラスは照れた。
「それで、運命の乙女はどちらに?」
部屋をぐるりと見回すと、カインの隣に座る可愛らしい少年と目が合う。にっこりほほ笑みかけ、そしてもう一度よく部屋中を探した。アレシアが肘で小突いてようやく気付く。
「む、まあ、ひとの好みはそれぞれで……」
化粧をすればなかなかの美人だと言いかけたが、ふとそれが誉め言葉かどうかがわからなくなり、カインは黙って笑っておいた。
「ずっと、海にいるんですか?」
やはりパイも食べることにしたシルヴァが、もぐもぐと口を動かしながら小動物のように首をかしげる。
「そう、海の安全を守れるのは、我々海軍だけですから」
ブラスは誇らしげに胸を張るが、軍事を野蛮だと嫌っているアレシアはうんざりと顔をしかめた。
「こんな暑い夏は、海の民が目覚めるかもしれんのです」
「海の民?」
「屈強な船乗りたちさえ恐れる怪物の一団です」
トマの港を出てさらに北上すると、氷で覆われた極寒の海になる。それは夏の日差しでも溶けることはなく、ひとはもちろん海の生物も近付くことができない。
「ところが、数年、いや数十年に一度、大暑の夏に氷が溶けて、封印されていた魔物が復活するとか……」
「それが、今年……?」
いつになく、シルヴァの表情が固い。口の中に残るパイをごくりと飲み込み、フォークを握る手に力を込めた。ブラスはじっとシルヴァを見つめ、わざと声を低くする。
「その魔物の正体というのがですね、はるか昔に難破した船に乗っていた、どこかの国のお姫様の亡霊だそうで……」
「……」
シルヴァは泣きそうな顔でカインに救いを求めた。意外な弱点があったものだ。カインはやれやれと肩をすくめる。
「五百年も生きているが、まだ見たことはないね」
あっさり作り話と明かされて、ブラスはばつが悪そうに苦笑した。シルヴァもほっと胸を撫でおろす。
「ただいま。あれ、みんなどうしたの?」
ようやく帰宅したセリオが、暗い雰囲気に戸惑う。アレシアが怒りながら説明すると、セリオはまたかとため息をついた。
「父さんは、いつもそうやって小さい子を怖がらせるんだから」
もうすぐ十七になるとは言えず、シルヴァはしょんぼりうつむいた。
「いやあ、まさかこんな話を信じるとは。悪かったですね」
「いえ……」
楽しいはずの夕食が憂鬱な気分で終わり、シルヴァは残念そうに階段を上がる。カインもあとを追い、そして思い出したように振り返った。
「そうだ、アレシア。今夜から部屋をわけてくれないか」
「え……」
これだけ怖い話に怯えているというのに、ひどい。今夜こそそばにいてほしい。シルヴァの瞳が揺れる。
「こ、困ります!」
アレシアはあわてて拒否した。シルヴァの気持ちもわかるうえに、すでに女中たちは仕事を終えて帰ってしまった。今さら掃除をして、寝泊まりできるように支度するのは面倒だ。
「ん、掃除くらい自分でするさ。シルヴァは敬虔なシラー神信徒だからね。しばらく滞在するのにずっと同室はまずいだろう」
戒律の厳しいシラー神教は婚前の男女の触れ合いを禁じている。何もしないと約束はしたが、どのような間違いが起こるかわからない。
「カイン様も、神罰は恐ろしいですか」
「まさか。ただ、シルヴァが大切にしていることは守ってやりたいんだ」
ブラスが茶化すと、カインはふんと鼻を鳴らした。ウェーザーの軍人は、他国の宗教や文化に寛容なのだ。
「では、せめて明日からにしていただけませんか」
「そうですよ。父さんのせいで、シルヴァさんも怯えていらっしゃいますし」
アレシアとセリオが説得するが、カインは不満げに頭をかく。
「……おまえたち、俺ができた人間だと勘違いしていないか?」
今まで、運命の乙女以外の女に興味がなかったから無欲でいられたが。なぜ待ちわびた恋人を目の前にして我慢できると思うのだろう。
時を止め、心などとうに老いたはずなのに。シルヴァと出会い、再び時が動き出したように心が騒ぐのだ。青年だったあの日のままに。
「あは。お掃除は私がきちんとしますから」
シルヴァはにっこり笑うが、きっと無理している。アレシアは余計なことを言ったブラスをきっと睨みつけた。気付かないふりをして酒をあおる。
「それから、離れの片づけははかどっているかい?」
トマ家の人々にも日常の生活がある。互いに干渉しない方が、気楽でいい。
しかし、セリオとアレシアは顔をひきつらせた。明らかに動揺し、食器が無駄な音を立てる。
「そ、その、整理しようとしたら、か、かえって散らかしてしまいまして……」
カインは首をひねる。夏に自分が借りる以外、誰も使っていないと思っていたが。ベッドと机の他に、散らかるようなものがあっただろうか。
グラスを傾け、様子を見ていたブラスが一つ咳払いする。
「ほら、あの、カイン様がいつも持ち帰られるがらく……ごほん、宝物のことではないですか」
「宝物……?」
考え、ぽんと手を叩く。そうだ、各地を旅する途中で、助けた礼にと渡されたもの、呪いが怖いから処分してほしいと預けられたもの、その他いろいろな理由で託された品々が、五百年の間にずいぶんと積み上がっていた。
「ああ、すまん。持ち歩くのが面倒で置いていただけだ。全部捨ててかまわんよ」
セリオは卒倒する。
「すすす捨てるだなんて、とんでもない! 貴重なお品ばかりなんですよ!」
「ん、そうなのか?」
ブラスの言うとおり、元はただのがらくただった。だが、長い年月を経て、どれも歴史的価値の高いものになっていたのだ。
「ほしいのならやるよ。好きに使ってくれ。売って金になるのなら、小遣いにすればいい」
セリオ達は信じられないと息を呑んだ。
まったく、何を企んでいるのやら。ブラスは酔ったふりをして聞き流す。
* * *
静かにくり返す波の音、暗闇の海の向こうには未知の世界。ブラスの言った魔物は作り話だったが、この広い世界にはどんな怪物がひそんでいるかわからない。
薄い月が不気味に笑っているように見える。
枕を抱え、寝返りをうち、幾度めかのため息をこぼす。眠れない。
(カイン様……)
そばにいてほしい。大きな手で、髪を撫でてほしい。
いつの間にか、カインがそばにいることが当たり前になっていた。一番、心やすらぐ場所。
目の前の壁をじっと睨みつける。
とんとん、と、向こう側から壁を叩く音。
それだけで、周囲に明かりが灯ったような気がした。
ああ、明日はどんなことが起こるだろう。考えると、楽しくなってきた。早く、会いたい。
シルヴァもとんとん、と壁を叩き、小さく「おやすみ」とささやいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます