003
◯神暦4819年 5月13日 東方城砦国家ウィンザー 要塞都市アースガルド
夜が明けて、朝。
自宅である集合住宅の一室で青年は目を覚ました。
(……眠)
日課である深夜の修行から戻って眠りについたのが2時間ほど前。そのためか目元には結構な眠気が残っている。
怠そうに後頭部を掻きながら、ゆっくり寝台の上で体を起こす青年。一度、天井に向かって
やり過ぎたか……正面の鏡に映る半眼で無愛想な顔を眺めながら思う。いつもなら日が変わる前には切り上げる修行を、昨晩は気がつけば3時間も延長していた。そのためか今日は一段と寝覚めが悪い。
いくら顔を洗っても、頭が開かない。
仕方ないので、そのまま着替えることにする。
「―――ラティ、起きてますか?」
クローゼットから《アカデメイア》の制服を引っ張り出し、寝間着用のシャツを脱いだところで玄関がノックされた。
聴き知った声だからか、青年―――ラティウス・ファーレンハイトは上半身裸のまま、なんの躊躇もなく家の扉を開ける。
「よかった。今日はもう起きて……って、な、なんて格好してるんですかぁ!?」
「は? なにが?」
「な、なななななななにがじゃありません! 早く服を着てください!」
目を背けながら両手で顔を覆う目の前の少女。あまりに恥ずかしいのか、その耳は真っ赤に染まり、声は酷く上ずっている。
金色に輝く短い髪と、エメラルドのように美しいつぶらな瞳が愛らしい少女だ。その身には襟元に茶色と黄色のラインが映えるノースリーブの白いシャツ、小さな赤いリボンに同色を基調としたチェック柄の短いスカート、そして膝上まで覆う白いソックスを身につけている。彼女が所属する刻聖騎士団―――《
ミスティアナ・ベルグハイネ。同じ孤児院で育ったラティの幼馴染。
そんな彼女の慌てぶりに呆れ、ラティは溜め息を
「……なにいまさら動揺してんだよ。孤児院にいた頃は人数が多すぎて時間ないからって、みんなで一緒に風呂とか入ってたろ。男の半裸程度で取り乱すなよ」
「そういうことじゃありません! そ、それに昔だってドキドキして……」
「は? なんだって?」
「な、なんでもありません! いいから早くしてくださいっ!」
「……うるさいやつだな。着ればいいんだろ着れば……」
ぶつくさ不満を零しながら室内へ戻り、制服のシャツに袖を通すラティ。ミスティは何度も深呼吸して動揺を鎮めてから「お、おじゃまします」と律儀に断って家に上がった。
もっとも、今の室内は人を歓迎できるほど綺麗ではない。昨晩の衣服は脱ぎ捨てたまま床に散らばっているし、修行前に取った夕食の後片づけも疲れていたので放置したままだ。
「ずいぶん散らかってますけど……掃除とか洗濯とかちゃんとしてますか?」
「やってるって。今日はたまたまだ。ってか、いい加減来なくていいって言ったろ。俺と違ってお前はもう候補生じゃないんだ。仕事もあるし、世間体もある」
「そういうわけにはいきません。お
「……」
無言は肯定の証。
それを察したのか、ミスティは「ちょっと中、見せてもらいます」と室内を回り始めた。ラティが本当にちゃんと自活しているのか確認するためだろう。
(……ったく。お節介め)
呆れたように鼻息を漏らすラティ。
だが、仕方ないこともわかっていた。ミスティは《優》や《善》をはじめ善性に関わるメンタルステータスがすべてSSS。一点の曇りもない善人だ。4歳の時に出逢って以来の付き合いだが、そんな彼ですら彼女が他人を叱ったところなど見たことがない。
……自分以外には。
(絶対ダヴィンチの連中に金とか積んでレーティングごまかしてんだろ、あいつ……どこがSSSだよ。俺から見りゃBでも高いくらいだ……)
前者には、純粋な力や速度を示す《力》や《速》、手先の器用さなどを示す《技》、そして敏捷性を示す《捷》などがあり、これは数値で示される。
後者には他人を思いやる心を示す《優》や規律などを守る心を示す《善》、嫉妬深さを示す《妬》や秘めたる憎しみを示す《憎》などがあり、こちらはCを最底辺にB、A、S、SS、そして最高位のSSSというランクで示される。
ミスティは《優》《善》以外にも、己への厳しさを示す《克》、そして他人への寛容さを示す《寛》などがすべて最高レートのSSS。つまり、人間として怖いくらい非の打ち所がない完璧な存在だ。
そんな彼女は今、洗面室にいるようだ。そちらからなにやらゴソゴソ音が聴こえる。ラティがためておいた洗濯物を整理しているのだろう。
また小言を言われる前にさっさと着替えて出かけてしまおうか……。暫し迷ってそうしようと決めたラティは、おもむろにズボンを脱いだ。
その時だった。
「な、なななななにしてるんですかぁぁぁ!」
「は……? って、げぶふぇっ!?」
後ろを振り返ったラティの顔面に巨大な袋が直撃し、その衝撃で倒された彼は後頭部を床に強打。その顔の上に大量の衣類が一斉に降り注ぐ。彼の洗濯物だ。
「……いっ……ってぇなぁ! なにすんだいきなりっ!」
「お、おおおおおおおおおお女の子の前でいきなりズボン脱ぎ出すとか信じられません! そ、それに自分の下着を被るなんて不潔です! 変態ですっ!」
「お前のタイミングが悪いだけだろうがっ! あと被ってんのもお前のせいだ!」
それから二人は盛大な口喧嘩を繰り広げた。
だが、もちろん決着などつかない。どちらも勝手な言い分を言い散らすばかりの並行線である。
―――小一時間後。
「「ぜぇ……ぜぇ……」」
すっかり疲れ果てて、膝に手をつき息を切らす二人。
「し、しかたありません……それでは、どちらが正しいか、いつものように決めましょう」
このままでは
だが、ラティは「は?」と
「あほか、こっちは今日レーティングがあるんだぞ。そんなことやってられ……」
「だめです。おねえちゃんのいうことをききなさい」
「うっ……」
途端、彼女の一言に、ラティが反射的に身を引いて口を
「……お前……こういうときばっかずるいぞ……」
「さぁ? なんのことでしょう?」
彼の文句を聞き流し、ミスティは散らばったラティの衣服を革袋に詰め込み直す。そして「よいしょ」と両手で革袋を抱えると「外で待ってますから、早くしてくださいね」とだけ言い残し、部屋を後にした。
一人残された彼は、しばし無言の後、小さく「ちっ……」と漏らす。
―――おねえちゃんのいうことをききなさい。
それは彼にとって、決して逆らえない、魔法の言葉だった。
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