第30話

 皆、事前にコンビニで買ってきていたパンやサンドイッチなどで昼食を摂ってから、三十分ほどした頃のことだ。

 女子陸上八〇〇メートルの決勝戦が、始まろうとしていた。

 姫那をはじめ、出場選手たちが、それぞれ自分のレーンへと向かっていく。

 そして、スタートラインについて――。

 選手たちはもちろんのこと、スタンドも緊張に包まれている中で、パンッ! と、ピストルの音が鳴り響いた。

 レーススタートだ。

 さすが決勝戦というべきなのだろう。

 誰も遅れることはない。

 素人のぼくが見てもわかるくらいの、綺麗なスタートを皆、切っていた。

 第一コーナーを回ってフリーレーンになっても、集団が崩れることはなく、そのままトラックを一周しても、先頭からしんがりまでの差は、殆どない。

 しかし、二周目のバックストレートに入ったところで、集団が崩れ始める。

 抜け出したのは五人。

 その中に――姫那はいた。

 身体は一番小さいけれど、そんなことは関係ないと証明するように、長い髪を揺らしながら、加速し続ける他の四人に、しっかりとついていっている。

 残りは半周。

 二〇〇メートル。

 最終コーナー入り口へと差し掛かる。

 五人は一団となって、最後の直線へ。

 姫那は四番手だ。

 目の前には二人の選手がいて、進路が塞がれている。

 インからは抜けそうにない。

 外に膨れて抜くのか、そのまま抜くのか。

 それとも、力尽きて下がることになるのか。

 その三択を想像したが、そのどれでもなかった。

 姫那は前傾姿勢になって、身を小さくして加速。

 二人の選手の間を抜けて、二番手に飛び出した。

 ワッと、歓声がスタンドを包んでいく。

 残るは、最後の直線。

「いけ、姫那!」

 ぼくは、声を張り上げた。

 陸やめるるもだ。

 先生や淳也も、必死に声援を送り続けている。

「天城さん、頑張って!」

 淳也の声は、姫那には届いてないかもしれない。

 でも、その声に背中を押されるようにして、姫那は更に速度を上げて――。

 その直後のことである。

「あっ……!」

 競技場全体が、言葉を失った。

 姫那の身体が、揺らいだからだ。

 膝から、身体のバランスを崩したように見えた。

 このまま転んでしまうのではないかと、誰もが思っただろう。

 姫那の怪我を知っている者なら、なおさらだ。

 なにせ崩れた膝は、怪我した方の右だったのである。

 しかし、姫那は転ばなかった。

 もう片方の左足でしっかりと踏ん張り、地面を蹴りあげ――。

 体勢を立て直して、そのままの勢いで最後の一人をかわしてゴールイン!

「よしっ!」

 ぼくはガッツポーズをしながら、声をあげた。

 電光掲示板に、姫那のゼッケン番号と名前が表示されている。

 間違いない。

 勝った!

 姫那は勝ったのだ!

「うはは、すげえや」

 そう声をあげたのは陸だ。

「一瞬、転びそうになってびっくりしたけど、さすがだよね!」

 続けてそう言ったのは、めるるである。

「やった、やったわ!」

 見れば先生は、藤堂さんに抱きつくようにして、子供のようにはしゃいでいた。

 それを受けて、藤堂さんは、少し迷惑そうな表情を浮かべている。

 淳也はそんな二人を、微笑ましい目で見つめていた。

 息を整えた姫那が、引き上げてくる。

 それにあわせてぼくたちはスタンドを駆け下りて、グラウンドに一番近い場所――フェンスの側まで近付いて、姫那に声を掛けた。

「おめでとう、姫那!」

 その声で、ぼくたちに気付いたようだ。

 顔をあげた姫那に、めるるが声を掛ける。 

「ほんと、すごかったよ!」

「怪我明けとは思えなかったぜ。マジですげえよ! あと足、大丈夫か?」

「ありがと! ちょっと危なかったけど、なんとか、復活出来た!」

 陸の言葉を受けた姫那は、にへら、と嬉しそうに笑みを浮かべて、指でVサインをつくる。

 そこに声を掛けたのは、藤堂先生だ。

「天城さん、本当にすごかったわ! おめでとう!」

 続けて、放たれた言葉。

「天城さん、おめでとう」

 それは、淳也のもので――。

「ええと、ありがとう……」

 照れくさいのだろうか?

 淳也と視線を合わすことが出来ずに、目を逸らして、姫那は答えた。

 ……さて、ここからどうするのだろう?

 本来ならば、デートに誘うところだ。

 しかし、ぼくや、陸や、めるるどころか、藤堂さんや先生までいる中で、それが出来るのだろうかと考えていると、 

「それで、なんだけど……!」

 と、勢いのままに、姫那は話を切り出した。

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