第9話

「うー、もうダメ……。ちょっと横になる……」

 三本目のビールを飲み干したところで、母さんに限界が訪れてしまったようだ。

 ごろりと、カーペットの上に寝転がってしまう。

 こうなったら自分で起き上がることは、酔いが醒めるまではないはずだ。

(まったく、母さんってば……)

 これ以上、母さんのはしたない姿は見せられないと、ぼくは姫那ひめなにパーティの終わりを告げていく。

「母さんはもうダメみたいだし、これでお開きにしよう。いい時間だし、朝練だってあるだろ?」

 時計は夜の九時を回っている。

 毎朝、陸上部が練習をしているのを見ているし、そろそろ寝る時間だろうと思ってのことだ。

「それは、そうなんだけど……。その前に、ちょっといい? 二人だけで、話したいことがあるの。ほんの少しだけだから。付き合ってくれないかしら?」

 立ち上がる姫那。

 ぼくに拒否権はないようだ。

「ああ、わかったけど」

 いったいなんだろうと思いながらも、ぼくも立ち上がる。

「それじゃ、冴子さえこ。ご飯、ありがとう。わたし、部屋に戻るから。おやすみ」

「うん、おやすみー。姫那ちゃんまたねー……って、うぇ……」

 起き上がって手を振ろうとした母さんだったけれど、吐き気を催してしまったようだ。口元を押さえて、再び崩れ落ちてしまう。

 その姿を見て、大丈夫なのだろうかと後ろ髪を引かれる思いになりながらも、ぼくは姫那と共に家を出た。


              ☆☆☆


「……冴子、大丈夫なのかしら?」

 吹きさらしの共用の廊下に出た直後、姫那が訊ねてくる。

 吐きかけた姿を見たのだから、気になって当然だ。

「まあ、いつものことだから」

 苦笑しながらぼくは答える。

 たぶん、大丈夫だと思う。

 たぶん、だけど……。

「それで、話ってなんなんだ?」

 春になってからかなり経つとはいえ、外はまだ少し肌寒い。

 話をはやくすませた方がいいと思って、さっそく、ぼくは切り出した。

「隣同士のこと」

 ぼくから視線を逸らして、少し照れたような表情で姫那は続ける。

「……学校では、秘密にしてくれるかしら?」

 まさか、リトルプリンセスからそんなことを言われるなんて――。

 ぽかんとしていたぼくを不審がるように睨み付けながら、リトルプリンセスが訊ねてくる。

「ねえ、聞こえてた? 学校では、秘密――わかったかしら?」

「いや、その……」

「なによ? 聞こえてなかったの?」

「そうじゃなくて、そんなこと、気にするタイプだったんだな……」

 素直な気持ちをぼくは告げた。

 他人にどう思われるとか、そういうことを、リトルプリンセスは気にしないタイプだと思っていたからだ。

「な、なによ、それ! あんただって、わたしとヘンな噂が立ったら困るでしょ! 普通は困るわよねっ!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ、リトルプリンセス。

「あ、そうだね。困る、かも……」

 確かにその通りではある。

 藤堂さんにヘンな誤解をされたくはない。

 それは絶対のことだ。

「だったら、秘密にして。喋り掛けてきたりするのもダメだから。あと、学校で姫那とも呼ばないで。誤解の温床おんしょうになるのは間違いないもの」

「やっぱり姫那じゃなくて、普段も天城さんって呼んだ方がいいいのか?」

 さっき姫那と呼んでいいと言ったのは、あくまで母さんの前だから――。

 これからも母さんの前以外では、ちゃんと天城さんと呼ぶべきなのかと思ったのだけど……。

「天城さんって呼ばれるのがこそばゆいのは本当のことよ。仰々ぎょうぎょうしい苗字みょうじだし。別にあんたがわたしのことを何と呼ぼうと構わないわ。リトルプリンセス以外ならね。ただ、学校だけで姫那はやめてってこと……わかった?」

「だったら、姫那でいいか?」

「なんでもいいわよ。学校以外ならね」

 なんにしろ、学校で必要以上に親しくしないことは、ぼくにとってもありがたい話なのだ。異論を唱える必要なんてない。

「なら、そうするよ。おやすみ」

「おやすみ」

 おやすみの挨拶をぼくに返したあと。

 姫那はそっけない態度で、自分の部屋に入っていった。

 その扉が、ばたんと閉じられたあとのこと。

 扉を見つめながら、ぼくは思う。

(やっぱり、リトルプリンセスって呼ばれるのは、嫌なんだな……)

 それにしてもヘンなことになったと、ぼくは自分の家の中へと入っていった。


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