六章 アンバーカラー 1—4

 *


 オレンジシティーへの旅は、ジェイドにとって暗く切ないものだった。

 調整してるわけでもないのに、傷ついたチップが刺激され、毎晩、あの悲しい記憶が夢に現れた。


 と思うと、ジェイドも知らなかったような思い出が、記憶の底から、ふっと浮かびあがる。


 眠るジェイドの首すじを、誰かが優しくなでる。

 目をあけようとすると、甘い女の声がささやいた。


「いいの。いいのよ。そのまま眠っていて。寝てるときなら、抑制装置は働かないわ」

「アン……ジェ?」

「そう。わたしよ。だから、いい子にして、眠っていて」


 まどろみのなかに、麻薬のように甘美な恍惚が入りこんでくる。やがて至福がすべてをいろどり、奔流となって駆けぬけた。


 AIに心を支配され、自分の体さえ思うままにならないことが、ウソのように自由に羽ばたいていけた。


 生まれ変わったような爽快感。

 自分の意思に翼が生えたかのよう。


「アンジェ……こんなことして……」

「わたしの愛してるのは、あなたなのよ」

「ああ。愛してるよ。おれも。でも、彼に知られたら……」


 美しい彼女のおもてが自嘲的にゆがむ。


「あの人は、わたしより研究が好きなんだわ。実験に夢中よ。わたしが話しかけても気づかないくらい」


 そういうアンジェリクの表情を見て、気づいた。

 ほんとは彼女は、自分をかえりみない夫にかまってほしいのだと。

 彼女はさみしがりやだ。

 さみしさをまぎらわすために、ここへ来たのだと。


 彼女がジュンを愛しているという、その気持ちに偽りはないのかもしれない。

 だからといって、百パーセント純粋に、アンジェリクの心がジュンの上にあるわけではない。

 彼女の心は、二人の男のあいだでゆれている。


 もしも夫が、彼女の心を自分のほうにだけ向けさせる努力をおこたりさえしなければ、遠からずジュンのことは過去の思い出となっていただろう。


(おれは……ずるい。わかってる。でも、それでも、かまわない。アンジェがそばにいてくれるなら……)


 そんな夜が続いた。

 ジュンの眠りがさめないよう、半睡状態が続くように、睡眠薬を飲んで、アンジェの愛に応えた。


「あの星へつくまでに、まだ三百年もかかるそうよ。食料もつきるし、コールドスリープルームは封鎖した第二セクションにある。わたしたちは、全員、死ぬのにね。エドはなぜ、あんなに必死になって研究なんてするの。この前も、変な心理学のテストをうんざりするそどさせられたわ」


「それなら、おれもしたよ。全員がやらされたみたいだよ」

「ダンやウィリーが彼に協力してるわ。ニコラスもね」


 生物学者と心理学者、物理学者だ。

 でも、中心になっているのはエドガーで、三人はあくまで専門分野での助言ていどのようだ。

 エドガーが何をしようとしてるのか知らないが、その執念には鬼気せまるものがある。


「この前、見たとき、彼、ずいぶん、やつれてたね」

「不眠不休だもの。バカみたい」

「そうかな。それだけかな」


 あるいは、エドガーもジュンとアンジェの関係に気づいているんじゃないかと思う。


 ただ、彼は誇り高いから、気づかないふりをしているだけではないかと。

 妻を寝とられるなんて、彼には絶対にゆるせない屈辱のはずだ。

 内心は、はらわたが煮えくりかえり、ズタズタに引き裂かれるほどの怒りや嫉妬にさいなまれているだろうに。


 エドガーがアンジェリクを熱愛していることを、ジュンは知っていた。


 そう。だから、けっきょく、こんなことになったのだ。

 来るべき日が来たことを、まもなく、ジュンは知った。


 フューチャーの船長でもあるエドガーに呼びだされれば、AIコマンダーの一人にすぎないジュンに断ることなどできない。実験室へ行くと、エドガーはたった一人で、そこにいた。冷たい目をして笑っている。


「喜びたまえ。キリシマくん。ついに、わが一世一代の偉業が完成した。君はその記念すべき被験体一号となるのだ。これは名誉なことだよ、君」


「ヒケンタイ……? おれ……いや、自分は、どうなるのでありますか?」


「そんなこと君が心配する必要はない。たとえ失敗したところで、我々の存続のためには、たいしたリスクじゃない。AIコマンダーは三人いるからね。私は同じ失敗を三度もするほど愚かではないからね」


 くくく——と、陰湿な笑い声をあげ、エドガーはジュンを手術台にしばりつけた。


 AIで意識をコントロールされているから、ジュンには抵抗できない。


 上から、のぞきこむエドガーの顔に、悪魔のような笑みが浮かんでいた。

 ここで彼に殺されるのだと、ジュンは静かに思っていた。


「君には感謝しているよ。キリシマくん。私の研究が完成したのは、ひとえに君のおかげだ。今日のこの日まで、私は何度も挫折しそうになった。そのたびに君への憎しみを糧にして乗りこえてきた。君とアンジェに復讐することだけを糧にしてね」


 エドガーの手にした注射器の針が、照明を受けて光る。その針が自分の腕に刺され、なかの液体が注入されていくのを、ジュンはながめた。


「あなたは、知って……やはり、知って……」


「もちろん、知っていたとも。私が妻の浮気に気づかないほど愚鈍な男だと思うかね? 私は彼女を……アンジェリクを生かすためにだけ、この研究に打ちこんだ。なのに、あの売女——」


 麻酔が効いてきたせいだろうか?


 ジュンを見おろすエドガーのおもては、憎悪というよりは、悲嘆にくれているように見えた。


 きっと、彼は、これまでも何度も涙をのみながら、この研究のための単調で気の遠くなるような作業を続けてきたのだ。


 なぜだ。なぜなんだ。僕はこんなに君を愛しているのに。なぜ裏切ったんだ——


 そう心にくりかえしながら。


「安心したまえ。すぐにアンジェにも君のあとを追わせてやる。残り少ない食料は大切に使わなければならないからね。研究に貢献できない人間には去ってもらう。二十六体すべてを完成させるまでは、まだ時間が必要だ」


「なんで……あなたは、アンジェを、愛して……」


 ぴしゃりと、冷たい答えが返ってくる。


「私を愛さない彼女などいらない」


 そのあと、エドガーは、彼にだけわかる妄執の世界へ入ってしまった。


「私は生まれ変わる。何もかも忘れて、彼女をゆるす。彼女も次は従順な妻になるだろう。だが、おまえだけはゆるさない。おまえは苦しみ続けるがいい。私の味わった苦しみの百倍……千倍も苦しむがいい」


「何……を……」


「めざめれば、わかる」


 エドガーは、また、あの悪魔の笑みを刻む。


「最後に一つだけ教えてやろう。君とアンジェには娘がいる。アンジェは気づいていないがね。定期健診で受精後三週間の受精卵が見つかった。百パーセント、キサマの子だ。この一年、私は彼女にふれていない。

 現在、受精卵は母体から摘出し冷凍保存にしてある。受精卵一つくらいなら、冷凍保存しておける資材がある。そう。五百年は保存できるだろう。有効に使わせてもらうよ。私の大いなる事業の要として」


「やめ……ろ。何を、する気……」


 アンジェや娘に手を出すな——


 叫びたかったが、意識は朦朧もうろうとしていった。

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