21 靴と朝食と

「おはよーございまーす」

「おはよーございまっす」

 声色の同じ二つの声で、アリスはぼんやりと目を覚ました。ぼうっとする頭のままに取り敢えず上半身だけを起こして、毛布を抱え込んだ。微かにだが、部屋の中を風が流れている。顔に柔らかい陽光が刺さるのは、採光窓が開いているからだと気付く。そしてそこから風が流れているのだ。

 寝ぼけまなこで部屋をよく見てみれば、玄関にあった小窓も開いている。妖精の為の出入り口だと思っていたが、どうやらこれも採光窓の一つなのかもしれない。二つの窓が開いている事で部屋の中を風が循環しているのだ。

 そして、鼻腔をくすぐる香しい匂い。焼き立てのトーストだろうか、こんがりと狐色に焼けた様子がアリスの脳内に描かれる。

 そこで、はっとして、はっきりと目を覚ました。そうではない、ここは違う世界だ。食パンがあるとは限らないし、ではこの匂いは何なのか。いやその前に、声をかけて起こされたのだ。アリスは少しばかり混乱して、呻く。

「ううん……」

「まだ起きてないわね」

「勝手に起こしたけど駄目だったかな」

「あ、う。起きます……」

 アリスはようやく二人の妖精の名前を思い出した。ワエユとナギュ、髪の長さこそ違うものの、青色の髪を持つ妖精の姉妹。アリスを起こしてくれたのだ。

 アリスはベッドの木枠から足を下ろし、床板の感触から靴を脱がない形式の場所であった事を思い出し、昨晩まで履いていたはずの黒いローファーが無い事に気が付いた。

「あれ、靴」

「どうしましたか」

「どうしたー」

 アリスの右手側、石窯の方からワエユの声。髪が長く丁寧な物腰の妖精だ。左手側、作業机の方からナギュが喋りかけている。こちらは髪が短く快活そうな印象の妖精だ。姉妹である二人の妖精はこちらを見つつ、忙しそうに石窯と作業机を往復して飛び回っていた。

 その手には妖精サイズの小さな板らしき物を持ち、その上には茶褐色の丸いパンらしきものが薄っすらと湯気を立てている。

 アリスは食べ物らしきものを気にしつつも、再び自分の足元、その周囲を見渡した。やはりローファーが見当たらない。

「靴が無いの。寝る前まではあったんだけど……。なんで?」

「あたしは知らないわ。起きた時には無かったと思うけれど」

「あたしも見てない。消えたんじゃないか?」

「ええ、消えた!?」

 そんな馬鹿な、と思いつつベッドの周囲を慌ただしく見渡す。寝る前に、確かにベッドの脇で靴を脱いでいたはずだ。しかし構造的にベッドの下に空間は無く、特に余計な物が存在しない家の中は床の上の大半をその場で確認出来る。靴らしきものは無い。

 そこでアリスはふと、一つの疑問を口にした。

「本当に消えた? 靴も身体の一部だから……?」

 首を傾げて唸っているアリスの顔元に、ワエユが飛んでくる。目の前に来たワエユと目が合う。海の様な青さの長い髪が非常に特徴的だが、よく見れば瞳の色も青い。足首まで隠す長い丈のワンピースは、植物の葉で染めたかの様な薄緑。その上に亜麻色のエプロンを着ており、全体的に不思議な色合いになっている。そしてトンボのような透明な二対の翅からして、いかにもメルヘンな存在としての妖精、と言った風貌である。

 作業机の前でこちらの様子を窺うナギュは姉妹だからなのか、着用している物や翅、纏う色合いはワエユと同じだが、髪は肩より短く、目元が少々切れ目がちで、印象がわずかに異なる。

 ワエユがアリスの顔元にまで到達すると、眉をひそめる。

「あら……?」

 失礼、と呟いて小さな手を伸ばし、アリスの頬をそっと撫でた。とても暖かい手だった。そして朝の香り、香ばしく焼けたトーストに似た優しい香りだ。先程から石窯から何某かの料理を運んでいたからなのかもしれない。

 それがとても心地良く、アリスはついつい静かに目を閉じてしまった。

「ちょっと、もう。寝ないで下さいね。……成程、人間かと思っていましたが、死霊(バイフェル)でしたか」

「ええ!? 死霊? アリスが?」

 驚いた様子のナギュが、運んでいた茶褐色のパンの様な物を机の上に置いてから、アリスの元に飛び、その顔や身体をまじまじと眺め回した。

「本当だ……。珍しいな、こんなに身体がしっかりと作ってある」

 二人の妖精に観察されながら戸惑うアリス。左手を首元に添えつつ、しどろもどろに答えた。

「えと、ごめんね、特に聞かれなかったと言うか、自分でもまだ慣れてなくて忘れてた。少し前に……死んだばっかりで」

 それを聞いたワエユとナギュが、ふむと頷いた。

「じゃ、靴は消えましたわ」

「だな。死霊の一部を長時間切り離すとそうなる」

「そ、そうなの」

「では靴を作って下さい。どうせ死霊の衣服など、魂と魔力の塊です」

「そうしたら朝メシにしよーぜー」

 何でも無かったと言わんばかりに踵を返し、作業に戻ろうとした二人の妖精をアリスは慌てて引き留めた。

「待って待って。どうやるのそれ」

 空中で振り返ったワエユが眉間に皺を寄せて、ふうと溜息をついた。左手を腰に当てて、軽く首を傾げる様子は、非常に気だるげな心情を隠そうともしていない。

「……そうでしたわ。死霊に成り立てでしたわね」

「ねーちゃん頼んだ。あたしは用意続けるから」

 ナギュはさっさと朝食の用意に戻ってしまった。再び石窯と作業机を往復し、小さなパンの様な物を運ぶ。

 ワエユは翅を羽ばたかせ床まで一気に降りて、アリスの足元まで歩き、片手で靴下越しにアリスの足をぺしぺしと叩いた。

「簡単な事です。靴をしっかりと頭の中に描いて、それを履いている様子をそのまま自らの足の形にすれば良いのです」

「ううん?」

「ふむ。では目を閉じて。あたしが魔力の流れを形作る補助をしますわ」

 言われた通りにアリスは目を閉じる。足先にくすぐったさに似た感触。ワエユが両手で足に触れている。

「履きたい靴を想像して下さい。大雑把にでも構いませんが、細かく考えられるならその方が良いので、まぁ取り敢えず想像して下さい」

 アリスは普段履く、制服の黒いローファーを想像しようとして、一度そのイメージを拭った。森の中を歩く時、そしてユーナを操縦する時、それが足枷となった。

 この地で歩き易い靴を想像する。森の中。母が趣味にしていた登山を思い出し、その装備の一つであるトレッキングシューズを想像する。形が決まりかけた所で、そのイメージも手でどかす様に横に置いた。もう一度浮かべたイメージはユーナを操縦する時に最適な靴。フライトブーツだ。

 編み上げブーツを思い浮かべる。履き口は足首までをしっかり覆う高さで、折り返しには靴紐を通して隠せるカバーが付く。これで靴紐が飛び出さない。そして靴紐を通す穴はリングを設けて、そこに紐を通す形にする。これで素早く靴を着脱出来る。靴底だけはトレッキングシューズに近い形状に、踵は高さを付けない。靴底の模様は、地面を踏みしめる力は損なわずフットペダルも踏み易い波型に。色は黒。オシャレさよりも、イメージのし易さを。黒いフライトブーツ。

 アリスの考えた屋外行動用改造フライトブーツとでも言うべき物が脳内で完成する。

「良い調子ですわ。そのまま、両足とも靴を履いている様子を想像して下さい」

 両足分を揃えて、それを履いている自分の足を想像する。ぐっと音がするかの様な重さが両足にかかる。厳密にはそう感じた。足が何かに包まれている感覚。

「……はい。目を開けて下さい。出来ましたわ」

 言われた通りに目を開けたアリスは、自分の足を見て驚いた。想像した通りの黒い改造フライトブーツが自らの足を包んでいる。

「凄い。魔法みたい」

「魔法ですわ。これだけ明確に死霊としての形を作れるのに、魔法は使えないんですの?」

「わたしの住んでいた世界に魔法って無かったから」

「ふうん? まぁ、これくらいならば、慣れればあたしの補助無しでも出来るようになりますわ。自分の身体ですもの」

 ワエユが両手を叩いて埃を払い、透明な二対の翅を振るわせてアリスの顔の高さにまで飛んだ。

「さあ朝食にしましょう」


 部屋の西側中央には大きな木製の机が壁から生える様に設置されていた。かなりの厚みがあり、握り拳程もある。それ故に非常に頑丈で、恐らくは作業台としての使用方法が主だったものなのだろう。表面は油汚れの痕や、何かしらの道具等で付いた傷が多い。

 その机の上に並ぶのは、両手に収まる程度の木の器と、その中に盛られた小さなパンらしき食べ物だ。パンの大きさは一円玉程度で、横から見ると楕円形に膨らみ、表面は綺麗な狐色だった。トーストに似た香ばしさを漂わせている。

 アリスは部屋の隅にあった木製の丸椅子を運び、用意された食事の前に座った。それと同時にナギュがスプーンを抱えて机の上に降り、アリスの前に置いた。これもまた木製のもので、長年使われた物である事が解る。

 ワエユとナギュはそれぞれが小さなパンを二つ程、小脇に抱えて机の上の適当な場所で座って、アリスに向かって食事を促す。

「それでは頂きましょう」

「人間……ああ、死霊の食べる量が判んねぇから適当に作った。足りなかったら適当に作ってくれな」

「う、うん。これ、何て食べ物?」

 アリスの疑問に、小さなパンに噛り付こうとしていたワエユとナギュが不思議そうな顔を向ける。

「何って、そうですわね、ディを焼いた……グフィオフの様な、フフェフグの様な、適当に作った食べ物ですわ」

「どっちかって言うとグフィオフじゃねーかな?」

「えっと、ディと、グフィオフと、フフェフグの説明をお願いします……」

 ワエユとナギュが互いに目配せする。少しして、ワエユが手をひらひらと動かしナギュに説明を促した。

 ナギュは小さなパンを両手で持ち直し、アリスに差し出す様な形で表や裏をひっくり返しつつ全体を見せる。

「ディって言うのは、植物だな。畑で収穫される細長い奴で、先端に穂を付ける。それをなんかの道具で挽いたりして粉にして、後は練ったり焼いたりして食べる。らしい」

「この森ではそんなに生えていませんわ。人間の国ではよく作られているそうで、この家にあったものは人間の国から持ってきたものでしょうね」

「小麦みたいなものなのかな」

 ナギュの説明からは小麦が連想される。アリスは、恐らくそれに近い植物だろうと考え、説明を聞いた。

「グフィオフってのは、粉にしたディを焼いて膨らませたものだな。これよりもっと膨らんで柔らかい。人間の国ではよく食べられる。らしい」

「パンかな……。そういう食べ物があるんだけど」

「パン? 妙な名前ですこと」

 ワエユが片眉を上げて、パン、と何度か呟く。ナギュはその様子を気にせず続ける。

「フフェフグは膨らませない。生地を薄く延ばして、よく焼く。固い板みてぇになるんだ。こっちは保存が利いて日持ちするから、出かける時はフフェフグを作る。旅人は大体持ってるんじゃないかな」

「お煎餅……?」

 ワエユは更に首を傾げ、お煎餅、と復唱した。どうも音感が引っかかるらしく、何度も呟いては自らの口に馴染ませる様に名称を呼ぶ。

 それを途中で切り上げて、ワエユはアリスを見て微笑む。

「妙な名前ですが、パンもオセンベイも良いですわね。音が軽く、食事がより身近なものに感じられる名前。アリスの国の食事文化を大切にした方が良いですわ。これはきっと、アリスの身体を作るものですから」

「わたしの身体を作るもの? そう……なのかな。じゃあ、パンでもいいんだ。ディって植物から作ったから、ディのパン」

 おう、とナギュがにかっと笑った。ディのパンを片手で持って説明を続ける。

「まぁ食品の名称なんて、誰かと話す時に困らなきゃいいんだ。食品は食べるものだからな。……そんで、これはパンとオセンベイのどっちでもないな。適当にディの粉を練って、適当に焼いた。パンもどきだな」

「え、待って。これ、器の中に一杯あるけど全部今朝に手でこねて作ったの?」

「当然ですわ。ここに住んでから毎日そう。ああ、今日は普段より早く起きて、多めに焼きましたわね」

「なー。でも適当だ。アリスがどれだけ食うか判らん。人間は大きいからなぁ。だから足りなかったら何か他のもんで適当にやってくれ」

「……ありがとう」

 アリスの心中にじわじわと、自分がこれまでに生きてきた環境がどれ程に恵まれているものだったのか、その実感が湧き始める。

 毎朝、当然の様に用意されている朝食。それは母が用意してくれていたものだ。解っていた。しかし、再び今それを認識する。

 自然にアリスは両手を合わせていた。唯々目の前の食事を用意してくれた二人の妖精と、手間暇をかけて作られた食品そのものに対する気持ちを表現する方法が、身体に馴染んだ動作として現れたのだ。

「いただきます」

「はい。どうぞ」

「食べるかー」

 妖精二人は、さっさと両手に持ったディのパンを頬張った。アリスも木のスプーンを持ち、器の中に盛られたディのパンを掬う。そのまま口に運ぶ。

 それは一言で表すとすれば、ライ麦パンの味がする、ナンの様なものだった。味は雑然としてはいるが、コクがあり僅かに甘く、何よりも焼けた香りが立つ。食感は密度があって、もちもちとしたもので、確かにパンの様に膨らませた類の物ではない。

 調味料も用いられていないので、ただ素材の味だけのシンプルで素朴な味だった。だが、それでもアリスにとっては十分だった。よく噛み、飲み込み、また掬って、食べる。一口を食べる毎に忘れていた空腹が存在感を主張して、眠ってもまだ身体の芯に残っていた疲労を消し去ろうと食べる事を要求する。

 胸の中にあった意識が溢れる。

 一口、もう一口と食べるアリスの頬を涙が伝った。時間を置いて、それは小さな嗚咽となって肩を震わせるものになった。その様子に気付いた二人の妖精が、食べる手を止めて立ち上がり慌ててアリスに声をかけた。

「ちょ、ちょっと?」

「どうした。え、その、不味かったか? 泣くほど?」

 アリスは髪が乱れるのも構わず首を横に振って否定の意思を伝える。口の中でまだ噛んでいるので、喋りたくても喋れないのだ。しかし、胸の中を押し寄せる感情が溢れ出してしまい、上手く食べる事が出来ない。

 しばらくそうして、ようやく飲み込んだアリスが、絞る様に声を出した。

「違う。おいしい……おいしくて……」

「なら何故泣くのですか」

「よく解んねぇな」

 妖精二人は互いに顔を見合わせる。

 アリスは地球の、数日前まで当たり前の様に得ていた食事をありありと思い返していた。母の作る料理、様々な食品、多くの調味料、当たり前の様にあったそれらがここには無く、そしてもうその場所には戻れず得られない事を、食事を通じて実感した。

 西の森の女王、ピブルの前で自身の死を認識し、実感し、戻れない事に泣いたはずだった。それでもやはり、実感と共に自分の中で全てを呑み込む事は出来ていない。

 たった一度で全てを割り切れてしまう程にアリスは成熟していない。自分はまだまだ子供であって、多くの人や物に囲まれて自分というものがあったのだという事を理解する。

 死霊として身体を維持出来ている事、自分のコンプレックスにもなった事もある身体の特徴が、魂を形作る事に有利に働いた事実。それがどこか嬉しくて、自分というものがそこにしっかりあると思えて、心のどこかでそれで笑みを浮かべていた自分が居た事を認識する。

 だが、今食べたこの世界の食べ物の、余りにも素朴な味わいが、再びアリスの自意識の姿を曝け出した。脆く崩れた足場の上で、座り込み右往左往しているだけの自分自身だ。

 食事とは、その世界その時代の、最先端の技術の結晶である。それに囲まれていたアリスは、死してこの世界に渡った時点でその加護を失った。常識が崩壊し、自らの立つ足元を崩され立っていられる人間は居ない。

 それ故に、このディのパンなる食品もこの世界の技術が生み出した結晶の一つであり、母に代わってワエユとナギュが作り出した、アリスを囲むものの一つであり、故にその味は素朴にして美味だった。

 この食事は、アリスの立つ足元の一部なのだ。

「ご、ごめん……おいしい、美味しいから……なんだか、涙が」

 ワエユとナギュは揃って、はあ、と大きな溜息を付いて、各々の食事を再開した。

「美味しくて泣く人がありますか。驚きましたわ、もう」

「美味いんなら良かった。笑うともっと美味いな。たぶん」

「うん……、うん……」

 きっとまた、どこかで余りにも脆い足元に気が付くのだろう。そして泣く事もあるのだろう。それでも、何度もそうやって泣いて、誰かの助けに気付いて、改めて自分とその足元に気付いていく。

 アリスは、アリスの周囲に様々な『物と者』があって、自分の形を作っているのだと再認識した。そうして何度でも前へ歩もうとしていけばいい。


 結局、アリスの涙は止まらなかった。泣きながら、しかし妖精にからかわれて笑いながら、アリスは器に盛られた朝食を全て食べ切った。

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