18 『もし』の悪魔
日の出と共に気を失う様に眠ったアリスが目を覚ましたのは、その日の夕方頃だった。
守護の樹の根元で横になっていたアリスが身体を起こし、寝ぼけまなこを服の袖で擦る。そのまま周囲を見渡してみれば、アリスがすっぽりと収まる程度のドームの中に居る事が解る。
アリスは少し驚いたが、その壁面をよく見てみれば、植物の蔓や蔦、葉といったもので編まれた大きな籠で、隙間からは日も沈もうとしている赤紫色の空模様と、横にそびえる守護の樹が見えていた。
ドームは地面に固定されている訳では無く、軽く置いてあるだけのもので、アリスはその壁面にそっと手をかけて横にずらす。指の隙間をくすぐる蔦や葉の感触は軽く、そのまま隙間から外に出る事が出来た。
外からドームを見ると、植物で編まれた四枚の板が合わさっている簡単な構造だった。
すぐ傍には守護の樹の根があった。根の合間には丁度人間一人分が寝られる程度の空間があり、そこでアリスは眠っていた。風除けと日除けを兼ねるであろうドームは、妖精達が用意してくれたものだろう。
アリスは外の景色を見渡した。夕日に照らされた守護の樹が赤く鮮やかに、その後ろにしっとりとした夜の影を広げている。周囲には妖精達がまばらに、思い思いに過ごしている様子が見られる。
張り詰めた様な空気は無い。脅威は去ったのだと、アリスは妖精達の様子を見て実感していた。自分が目にしたあの巨大な黒い竜は、災厄は、災難は、去ったのだ。
だが変わってしまったものもある。妖精達が集まっている一か所。そこには白い輝きを放つ異形の戦闘機、ユーナがその巨躯を佇ませている。
物珍しそうに見上げる妖精や、様々な部位に登っては、きゃあきゃあと楽しそうな声を上げている妖精達によって囲まれている。
――ユーナが妖精の姿に戻る事は無い。
アリスが目を細め、唇を強く結んだ。鏗戈(うか)をする、そうユーナが望んだ事であった。黒い竜と戦うとユーナが決意した。だが、それを選び、手を伸ばしたのはアリスだ。共に戦うと、そう決めて手を伸ばして、事実あの黒い竜と戦った。
その結果。今のユーナの姿。責任感とも言える意識がアリスの胸中で行き場を求めて暴れている。それが身体の中を叩く度に、嗚咽や涙が溢れそうになる。
ユーナの元へと歩く。遊んでいた妖精達がアリスの姿に気付き、竜の呪猖(じゅしょう)を倒した勇者に近付こうとして、その険しい顔付きを見て踏み止まった。周囲の妖精達と顔を見合わせ、アリスの行く道を開けていく。
そしてユーナに手が届く所まで歩いて、手を伸ばし、躊躇う。手を握り一呼吸置く。再び手を伸ばして、機首の部分に手を当てた。ひやりとした感触が手に伝わる。
「ユーナ、起きてる?」
「……ううん?」
ユーナの声が目の前に響く。どこから発声しているのか位置が掴めない、独特な響き方。しかし間違いなくユーナの声である事に、アリスは大きく安堵の溜息を洩らした。
黒い竜を撃破してから、アリスもユーナも心身共に限界の中で、守護の樹へと戻るべく飛行していた時。二人は最低限の言葉だけで意思疎通をしていた。ここに辿り着いた時にはフィヤを預ける事が精一杯で、その後の事はかなり曖昧としている。
だから、ユーナはもう声を出せないのではないか、そんな不安があった。
「ん、んう……アリス?」
いや、ピブルの言葉が正しければ、鏗戈をした妖精は心を失くすのだと言う。武器は言葉を発しない。今のユーナの状態は、何か特異な状態にあるのだろう。
「女王様に色々聞かないといけないね。解らない事だらけ」
「アリス」
「おはよう、ユーナ」
「うん。おはよう。もう夜? 私はどれくらい寝てたんだろ? ……私、寝てたの?」
「寝てたんじゃないかな。ユーナ、身体の調子はどう?」
この機体の事を身体と表現して良いのかアリスは一瞬迷った。だが、ユーナの意識があるのならば、それはユーナの身体と呼んでも差し支えは無いであろう。
「身体は……えっと、よく解んない……。魔力の繋がりは解るの。だからそれが変になっていないって事は何となく解る」
ふむ、とアリスは小さく頷いた。元より魔法の無い世界の住人であるアリスにとって、魔力の繋がりなど到底解るものではない。
「あと、そうだなぁ。何だろう。とりあえず軽く身体を動かそうとしたら多分駄目だよね。周りの子達にぶつかる気がする。大きさが上手く掴めない感じ」
主翼が付け根の位置を中心にゆっくりと上下左右に振られる。
「ちょっとだけ動かしたつもりなんだけど」
「結構動いてる」
「そっかぁ」
ユーナの主翼の動きに合わせて妖精達が集まり、主翼の近くを飛び回ったり、機首部分の上に乗ったりと、それぞれに興味を示し始めた。ユーナは動くのを止めて、妖精達が遊ぶがままになっている。
その様子を眺めながら、アリスは機首部分に身体を預けた。妖精の姿だったユーナの、指先に触れる小さな感触を思い出す。艶やかな黒紫色の長い髪が風に吹かれる様子も。
たった一日の事だ。その間に、あの小さな妖精はひんやりとした白い構造体を持つ、巨大な何かになった。
アリスが呟く。
「元に、戻れないんだよね」
その言葉にユーナは応えなかった。アリスは言葉を続ける。
「わたし、それを知らなかった。解っていなかった。でもわたしがユーナを、そうなるように選んだのは解ってる……と思う。だから、ごめんなさい」
「……アリスが謝る事じゃないよ。私は知っていたし、解っていた。そう決心したから、いいんだよ」
「でも」
「いいの。私は特別みたいだし、いいんだ。こうしてアリスと喋れてる」
「心を失う、って聞いた気がする」
「鏗戈したらね。どうして私は意識があって喋れるんだろう」
アリスは答えられない。妖精を知らない。鏗戈という魔法の本質も解らない。だが、もし、ユーナの鏗戈たる現象が想像以上にアリスが思い描いたものを取り込むのだとしたら、可能性として思い浮かぶものがいくつかあった。
「コンピューターとか、なのかな」
「なにそれ?」
またしてもアリスは答える事が出来なかった。イメージや概念としては解る。だがそれが何なのかを、アリスは知らない。答える事が出来ない。頭を左右に振って、己の無知を肯定して表現した。
だが、もし。その曖昧なものでさえも鏗戈は形にするのだとしたら。
アリスの世界の現代において、電子演算装置が搭載されていないものを探す方が難しい。それに対する雑然とした印象でさえも鏗戈は形にするのだとしたら。もしユーナに演算装置に類する物が搭載されているのならば、それが人格を振舞うという動作も可能とするのではないか。
アリスは再び首を横に振った。
「わかんない」
「アリスが言ったんだよ。でも、アリス。元に戻れないって事なら、私よりもフィヤは――」
痛ましい姿を思い出してアリスの顔が険しくなる。ユーナも言葉を切った。姿は変わり細かい所作は窺えないが、言葉に詰まったであろう事は察しが付く。
少しの間を置いて、ユーナは続く言葉を紡ぐ。
「――フィヤは、無事だったとしても元に戻れないよ。どうしよう。私、何も出来ない」
あの怪我では、元の生活を、生き方をする事は出来ないだろう。しかもフィヤがまだ助かったと決まっている訳では無い。
持てる力の全てを使って、アリスとユーナを護ろうとした勇敢な妖精フィヤ。そんなフィヤを、二人は持てる力の全てを使ってここまで送り届けた。それが悲しい結末を迎えるのだとしたら、誰も報われない。
アリスは嘆息する。
ふ、と。
アリスの足元で走り回っていた幼い妖精が足を止め、アリスを見上げた。
「フィヤねえちゃんですか?」
まるで生まれてから髪を切っていないとでも言いたげな、濃い金髪のボサボサ髪を地面にまで伸ばした、幼い妖精である。翅は髪の中に隠れているようで、虫の翅に似た透明な輪郭が僅かに顔を覗かせている。
「うん?」
アリスは座って、幼い妖精の前に手を差し出した。ひょい、と軽やかに妖精が手に乗ったのを確認して、両手でそっと顔の位置まで持ち上げる。重さはほとんど感じられない。
「フィヤを知っているのかな」
「知ってます! 女王さまが言ってました。起きたって」
「……うん、ん?」
「フィヤねえちゃん、怪我してたけど起きたって言ってました。お昼くらいです!」
「ほ、本当?」
「言ってました」
「そう……そっか。うん、教えてくれてありがとうね」
幼い妖精をそっと地面に置く。妖精は近くに居た仲間の元へと元気に駆けていった。アリスは座ったまま振り向いてユーナの機首を見上げた。
「ユーナ」
「聞いてた。本当に……?」
「そうか、私達寝てたからだ」
ユーナは広場で停止状態にあり、どうやら眠っていたと思われる。となれば、妖精の中の認識としては鏗戈した妖精が言葉を発するとは考え難いのだろう。そしてアリスは仕方ないとは言え地面の上で寝ている程に疲弊していたのだ。わざわざ風除けの為の植物のドームまで用意された程に。それを起こす事は、恐らくしないだろう。
アリスは自分の頭をがしがしと掻いて、髪の毛を乱れさせた。夕闇に黄昏て心配するよりも先にするべき事があったのだと、目覚めたばかりで今の現実と状況を呑み込み切れていない自分の意識を反省する。
フィヤが起きた。生きている。
「ユーナ、女王様って守護の樹の中だよね? 行ってくる」
「うん。フィヤに伝えて、二人とも生きてるって。逃げるどころか、倒したんだって」
アリスは強く頷く。陽が落ちかけて星が見え始めている空を背に、守護の樹の中へと駆け出していた。
守護の樹の根元にある出入り口を、アリスは天井に注意しながら潜り抜けた。樹の根が密集して作り上げられている壁面に手を添え、息吹灯と同じ明かりを灯す光源に足元を照らされながら、右に弧を描く通路を進む。
蔓草と薄布が編まれて作られた仕切りを前にして立ち止まった。壁の根の隙間に隠れる様に座っていた妖精が二人、アリスの前に飛び出たのだ。妖精の片方は皮鎧であろう装備を服の上に纏い、もう片方の妖精は手に小石を研いだ短剣を手にしている。女王の居る場所を護る警衛なのだろう。
妖精のサイズならば、通路に侵入した虫や小動物の類も脅威となる。それらを追い払う役目も担っている妖精達であった。
皮鎧を着た妖精がアリスに声をかけた。
「アリス様。女王様に何か……?」
「えっと謁見って言うのかな。フィヤが起きてたって話を聞いて、会いたくて。今は会えるのかな」
「少しお待ちを」
皮鎧を着た妖精はそう言うと、すっと仕切りの中に入っていく。残された石の短剣を持った妖精が心配そうに声をかけてきた。
「ずっと眠っておられましたが、お身体の方は大丈夫でしょうか」
「うん。風除けの籠は皆が作ってくれたのかな。ぐっすり寝たから元気だよ」
「それは良かった。あの籠は香草と薬草、それと治癒の魔法を編み込んでいるんですよ。本来ならば寝床や敷布に使うのですが、あの様にして身体を囲えば全身をほぐす効果があるんです」
「治癒の魔法! そっか、だから疲れとか、あと靴擦れとかも無いのかな」
「きっとそうでしょう。治癒の魔法は扱える者が少なく、希少な魔法なんです。フィヤの治療にも多くの使い手が尽力して……。普段、呪猖が襲来すれば多くの怪我人が出ますから」
黒い竜の呪猖を、アリスとユーナが引き付けて撃破した事によって、被害は最小限に済んだのだと目の前の妖精は説明した。だからフィヤの治療に全力を注げたのだと。
話が終わると、仕切りの中から皮鎧を着た妖精が出てくる。
「アリス様、どうぞ」
「はい。えっと、失礼します」
その妖精に案内されながら、アリスは蔓草と薄布が編まれた仕切りを分けて、軽く頭を下げて女王の居る間へと入る。昨日来たばかりではあるが、壁から突き出ていた板の数や位置がわずかに変わっており、そこにいる妖精の顔ぶれも変化があった。
アリスはいそいそと空間の中央に座して、目の前にある装飾の施された板の前で待つ。わずかな時間を待つと、板の上に天蓋と共に吊るされたカーテンの中から、西の森の女王ピブルが進み出た。
ピブルはアリスを見て、すっと頭を下げた。
「我々妖精族、そしてこの霊樹の森の全ての生き物に代わり、この森の呪いを退けて頂けた事を感謝致します」
「あっ、えと、はい!」
フィヤの事で気が急いでいたアリスは少々出鼻を挫かれ狼狽える。礼節を持って接してきたピブルの様子を見て、背を伸ばして姿勢を正した。
ピブルが頭を上げるまでの小さな静寂。アリスは目を泳がせるが、ユーナもフィヤもこの場には居ない。
「すみません、こういうの慣れてなくて……」
次第に緊張感が強まってきてしまい、それを誤魔化そうとつい左手を耳元へと上げて、髪を触ってしまう。
「いえ、良いのですよ。それで、フィヤの事ですね」
「はい。昼頃に目を覚ましたと聞きました。怪我の様子はどうですか?」
「フィヤはかなり危険な状態でしたが、一命をとりとめました。昼頃に一度、目を覚ましてアリス様やユーナの安否を心配していたと聞きます。そして再び眠りについております」
「今はどこに?」
ピブルが右手を掲げて、壁面に突き出ている板の、地面に近いものの一つを指し示した。板の上に妖精が一人座っており、壁面に付けられたカーテンを開ける。
そこには穴が開けられていたが、恐らく通路の様になっているのだろう。灯りが漏れているのが見えた。更にその先までは、アリスの位置からは奥まで見る事が出来ない。
ピブルがその先を指し示したまま説明をする。
「治療の必要な者を安静にさせておく為の部屋があの先に続いております。この守護の樹の根幹に近く、魔力と大地の力に満ちているのです」
集中治療室の類だろうか、とアリスは納得して、その先を覗き込んでフィヤを直接見てみたい気持ちを留めた。アリスの体格では通路に入らないであろうし、フィヤを動かす訳にもいかない。
「しかし、治癒の心得のある者の尽力、大地の力をもってしても、フィヤの怪我の一切を治す事は叶いませんでした」
「それは……」
ある意味、当然と言える。
アリスは確かに四肢の大部分を失ったフィヤの姿を見ている。治癒の魔法の効力と、妖精がどの様な身体の作りをしているかは定かではないが、しかし失った手足が元に戻るような、そこまでのものではないだろう。
「看病をしている者によれば、まだしばらくは眠り続けるかもしれない、との事です。むしろ一度目を覚ましたのは奇跡とも言えましょう。フィヤはそれ程の怪我でしたので。ですが――」
アリスの中に、もっと早くここに連れてくる事が出来たのならば、と言う『もし』の悪魔が鎌首をもたげ始める。もし、竜を振り切って先にフィヤを預けていれば。もし、もっと早く竜を倒せていたら。もし、ユーナを違う形に鏗戈させてフィヤを癒す力を得ていたら。
それが出来るかは解らない。それで良いのかも解らない。だが、『もし』はそれ故に様々な形をとって心を苛ませる。
「――アリス様」
ピブルの声に、はっとアリスが顔を上げた。辛うじて返事をする。
「はい」
「貴女がフィヤを、私達を、この森を護ったのですよ。貴女の働きは騎士に劣らぬもの。顔を上げて下さいまし。我々はただ、感謝を述べたいのです。どうかお顔を曇らせないで」
「でも、わたし。もし」
「良いのですよ。貴女は最善以上の事を成した。そうでございましょう? 見知らぬ土地で、見知らぬ我々に対して、自身の命の在処すらもまだ決めかねている中で。その中で戦う事を選び、そして護り切ったのです」
いつの間にか、直接見てはいないもののフィヤの近くに来た事で、アリスの心は閉じ籠ってしまっていた。その場その時に、唯々必死に成せる事をしようと足掻いていた竜との戦闘。それが終わってみれば、反省点とすらも呼べない後悔が幾つも押し寄せてくる。『もし』の悪魔もそれだ。
アリスはまだ何事をも決断出来ない。割り切れない。そう思っている。こんなに小さな妖精達が見せつけてくる強い思いにすら並ぶものを持ち得ない。そう強く思ってしまう。
「フィヤは……あんな風になって、わたしを恨んでないのか、怖くて」
「まさか。いけませんね、私の言葉で不安にさせてしまいました」
ピブルは居住まいを正し、優しく、ひたすらに優しくアリスに語った。
「アリス様。フィヤは、あの子は、目を覚ました時にまずアリス様とユーナの安否を確認したそうです。看ている者がそれを伝えると、一言、良かったと言ったのです。恨まれてなどおりませぬ。どうかそれだけは、フィヤの気持ちを尊重して下さいまし」
心の中の様々な棘のついたモヤ。ああすれば、こうすれば。こうなのではないか、こうだったのではないか。
それらを両手で押し退けてもいいのかもしれない。
そういったものを置いて歩いて行く事も。捨て去る事も出来そうにない。アリスは本当に唯の一人の少女で、例えば誰かの生死に対して力強い決定も出来る訳でも無い。
それでも、自分の心を縛るものを少しだけ横にずらす事は出来るだろう。
ユーナが伝えてくれと言った言葉を思い出す。ユーナの言葉を借りて、アリスはまだ迷いを生じさせたままの顔で、それでもはっきりとピブルに伝えた。
「それなら。それなら……フィヤが起きたら伝えて下さい。二人ともちゃんと生きてるって。あの大きな竜を、逃げるどころか、倒したんだって」
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