17 代償

 西の森の女王ピブルは、傍に仕える妖精二人と共に守護の樹の外に出た。腰まで伸ばした薄い金色の細い髪が夜風にふわりとなびいて、纏っている象牙色の薄布の服に疎らに並んだ。

 ピブルは夜の空気を一息だけ吸い込むと、傍の妖精を下がらせた。東の夜空の一画が薄っすらと紅黄色に彩られ始めている。その光で周囲の様子が窺える。

 守護の樹の周囲には、様々な息吹灯を掲げた妖精達が集まっている。誰もが不安そうに寄り添って居たり、あるいは樹の根元で身を縮こまらせたりしていた。ピブルの姿を見て顔を上げる者も居たが、しかしその場を動こうとする者は多くなかった。

 呪猖(じゅしょう)、それも竜の姿を模したもの。それは守護の樹をもってしても防ぎ切れるか危うい存在である。

 ピブルが居城とする守護の樹の中には、まだ幼い妖精や、自衛の為の手段を持たない妖精達で既に一杯になっており、入り切れない者達は守護の樹の展開する障壁の内側で震えて過ごすしか方法は無いのだ。

 竜とは、それほどまでの存在なのだ。

 一度竜が湧けば、騎士が辿り着くまでに周辺の森は集落ごと破壊し尽くされ、飛翔すれば誰も逃げられず、もし騎士が敗北すれば呪猖が自然消滅する数ヵ月の間、殺戮の限りを尽くす。

 そして今、この西の森には騎士が居ない。誰もが強い不安を抱えている。薄っすらと、漠然と、死を想起する。

 そんな陰鬱とした雰囲気の中、ピブルは少し声を張り、誰ともなく言った。

「呪猖が飛び去ったと聞きました。誰か、行き先を知っていますか」

 周囲を見渡すが、誰もがそわそわとした様子で互いの顔を見比べている。そんな中、まだ幼さの残る妖精の一人が緊張した面持ちでそっと前に出た。

「あ、あの、北の方に……。あたし、虫鐘を鳴らしたんです。そ、そしたら、何か大きな白いものと一緒に……」

 言葉の歯切れが悪いのは、呪猖を目の当たりにした恐怖もあるのだろう。ピブルは腰を下ろし、口元が震えている様子の妖精の手をそっと自らの手で包んだ。

「貴女が虫鐘を鳴らしてくれたのですね。その勇気ある行動によって皆が守護の樹へと辿り着けました。それで、白いものとは……?」

「えっと……、なんて言うのか……」

 妖精が言葉を詰まらせる。ピブルに手を握ってもらったからなのか、奮えは止まっている様子ではあるが、次は困惑の表情で自らの手を見つめている。

 すると、周囲で見守っていた妖精の中から一人が出てくる。快活そうな雰囲気に違わず、翅を器用に羽ばたかせてピブルの元へと近づき、説明を始めた。

「呪猖と同じくらいの大きさの、白い、なんだろう、蝶みたいな形をした怪物? それとも魔物なのかな。虫鐘が鳴ったから、近くの虫鐘を鳴らそうと探していたら空を物凄い速さで竜と白い怪物が飛んでいきました」

「ふむ……。ありがとう、皆の所に戻って大丈夫ですよ」

 ピブルは口元に指を添えつつ、再び周囲に集まる妖精達を見渡した。

 その中に星渡りの渡り人であるアリスと、世話を任せたユーナ、フィヤの姿は無い。

 アリス達が向かっていた、今は亡き騎士オエゴーエブの住処は、簡易的ながらも守護の樹に近い性能を持っているものだ。そこにまで辿り着いていれば、少なくとも呪猖は北の方へ飛び去ったのだから、三人は無事であると考えられた。

 解らないのは竜の呪猖が飛び去った北の方角では未だに虫鐘が鳴らされた様子が無い事と、白い怪物である。

 ピブルが少々険しい顔つきになろうとした所で、眩しさに目を細めた。いつの間にか東の空からは太陽が昇り始めている。森の地平から顔を覗かせた白い陽光が、ピブルを、集まった妖精達を、森の木々を照らす。

 そしてもう一つ。空にある何かが輝いた。ピブルは目を細めたまま、一瞬視界の端に映った輝きの方へと首を巡らせた。

 方角は北。その様子を見て他の妖精達も北の空を見上げた。昇る太陽が次々に妖精達を照らす様子に並んで、皆が空を見上げていく。

 数分程の間だろうか、誰もが空に輝く一点の光を見上げていた。その光が次第に大きくなるにつれて、目の良い者が呟いた。

「白い蝶……?」

 その一言にざわめきが立つ。白い蝶とは即ち、竜の呪猖と対峙した正体不明の怪物の事である。

 そこからは誰も、何かをするだけの時間は無かった。遠目に見えていたはずの白い物体は凄まじい速度で接近し、ざわめきが喧騒になる前に守護の樹の真上を轟音と風を纏って通過した。木々の葉や草花が揺らされる程の風が集まっていた妖精達に吹き荒び、所々で声が上がる。

 ピブルの傍に仕えていた妖精達は急いで女王を守護の樹へと避難させようとしたが、しかしピブルは後退りつつも白い何者かを見上げていた。上空を通過した筈のそれは、気付けば既に旋回して守護の樹の真上に居たのだ。

 確かにそれは、白い蝶と言うのが正しいだろう。鳥の嘴の様に尖った部位が伸び、その後ろに白い炎を吐く大きな翅が上向きに一対、剣の如く鋭い脚先が下向きに一対、計四枚の翅の様なものを背負った異形の何かである。

 異形は白い炎を吐き出す翅を器用に動かし、守護の樹の真上から滑る様に移動し、徐々に炎を吐き出す勢いを抑えてゆっくりと下降していった。ピブルの前に広がる木々の途切れた広間に着地しようとしているのだ。

「皆、離れて!」

 白い蝶が吐き出す風と甲高い音に負けじとピブルが叫ぶ。元々白い蝶が着地しようとしている地点に妖精は居なかったが、その声が届いた妖精達は急ぎその場を離れ、着地地点を中心に円状に散らばった。

 それを見計ったかの様に白い蝶の脚先が地面へと接地し、嘴部分と接合しているであろう箇所を、膝を折り曲げる様にゆっくりと曲げ、更に高度を下げる。噴き出される炎もそれに合わせて抑えられていく。

 そして嘴状の部分が地面に着きそうな所で、突如として炎の噴出は止み、嘴はべしゃりと地面に着地した。周囲に響いていた甲高い音も消え、風も止んでいる。最後に炎を吐き出していた翅が力を失った様に下がり、静寂が戻った。

 ピブルを含め、誰も動けなかった。目の前の白い蝶が何者であるか、何であるか、判断が付かないからだ。誰もが白い蝶の次の行動を待っていた。

 白い蝶の嘴がゆっくりと開く。ピブルはその隙間にアリスの姿を捉えた。

「アリス様!?」

 ピブルの驚愕の声が聞こえたのか、嘴が開き切ったその中で憔悴しきった顔を見せるアリスが身体を動かし、座席に立ち上がり、嘴の部分から降りようとして、力尽きたのかそのまま地面に右肩をぶつける様に転んだ。

 ピブルが声を張り上げ、白い蝶の元へと飛翔した。二対四枚の透明な翅が振るえる。

「手当が出来る者は前へ! アリス様を守護の樹の通路に運びます。飛べる者、運べる者も前へ、指示を待ちなさい!」

 その声に妖精達が一斉に動いた。

 慌ただしくなる中で、アリスが顔を伏せたまま、呻く様にピブルへと声をかけた。

「女王様……」

「アリス様! お怪我はありませんか。一体何が」

「フィヤを、助けて……」

 アリスがそっと右腕を上げる。指を開くと、その中には守られる様に、しかし凄惨な姿のフィヤがあった。

 だが、ピブルはほんの一瞬怯んだだけで、すぐにフィヤの全身をくまなく確認した。

 フィヤは左腕、両足、翅の一対を失っていた。傷口は白い光で覆われている。障壁の魔法だった。フィヤの意識は無いであろう事は明白だが、自分の身を守ろうとする防御反応か、あるいはフィヤ自身の強い意志からであろうか、とにかくその傷口は、内向きに張られた障壁によって抑え留められ、出血を防いでいた。

 魔法の光は危うい様子だった。明滅し始めている光の先に、損傷した断面が見え隠れしている。

 状態を理解したピブルが素早く両手をかざした。一番損傷が激しい両足を覆う障壁に、自らの障壁の魔法を被せる。展開されている魔法を補強する。だが、手が足りない。フィヤの左腕の障壁の魔法も消えかけている。

「手当が出来る者はここに! 治療や治癒の心得がある者も来なさい!」

 号令によって妖精達の動きが変じる。元より駆け寄ろうとしていた者達はフィヤの元へ。魔法を会得しているものは女王に続いてフィヤの傷口の障壁を支えた。治療の技術やそれに類する魔法を使える者は守護の樹の中で待機していたが、伝令によって状況を伝えられ飛び出してきた。

 その様な術を持たない者達も、それぞれが手を貸した。フィヤは多くの妖精によって慎重にアリスの手から降ろされ、草や蔓で編まれた担架に乗せられ、その小さな呼吸を止めない様にと手を尽くされながら守護の樹の中へと搬送されていった。

 ピブルはその様子を見送って小さく息を吐く。

 アリスは妖精達によって服の所々を掴まれ補助されつつ、どうにか守護の樹の根元へと運ばれそこに座り、身体を太い根に預けていた。

 ピブルが近付く。

「アリス様、フィヤは守護の樹へと運びました。心得のある者達によって治療されておりますので、どうかご安心下さいまし」

 そう言うと、アリスは小さく頷いた。かなり疲労の色が濃い。それでも意識はまだはっきりとしているようで、何度も大きく深呼吸をしてゆっくりと言葉を発した。

「ありがとうございます……女王様」

「礼を言うべきはこちらでございます。フィヤをここまで運んで下さり――」

「それは……ユーナが。ここまで頑張って、飛んで、わたし道が判らないから……」

「ユーナが? では、あれは……」

 ピブルは振り返り、地面に臥している巨大な白い蝶を見た。言われて、よくよく見てみれば、ユーナの姿の名残がある。半分に切った紡錘形の翅は最たるものだろう。模様の有無と大きさこそ違うが、その形状と魔力を噴射する飛翔方法は共通するものだった。

 そして、ユーナは鏗戈(うか)の魔法、特性を持っていた。異国の地より星渡りをしてきたアリスが鏗戈の切っ掛けともなれば、ピブルの全く想像だにしない姿形の物へと変じる可能性は十分に考えられた。

「あれは、ユーナなのですね」

 ピブルは確認する様にアリスへと向き直し、段々と焦点が合い始めたその瞳を見た。交わった視線は何度か瞬きで遮られたが、一度強く目蓋が閉じられると、そこには意思の通った瞳があった。

「はい。ユーナが、黒い竜と戦う為に」

「そうでしたか。では、アリス様も戦う決断をしたのですね。私達はそれに報いねばなりません。そして巻き込んでしまった事を詫びなければいけません」

「そこまでじゃ……何て言うか。そうしないと駄目だった気がして、えっと」

「言葉にするにはまだ、お時間が必要でしょう。今はお休み下さい。後ほど寝所もご用意致しましょう」

「ありがとうございます。あの」

「はい」

「ユーナに、伝えて下さい。もう戻ってもいいって。少し、休まないと」

 ピブルが硬直した。複雑な感情があったのだろう、それを表情に出すまいとした、そんな表情のまま、アリスに静かに尋ねた。

「アリス様。『戻る』とは、何を指しておりますか」

「え、だって、ユーナが戦闘機になったから……鏗戈ってのをして、あの形に。戦いが終わったから戻らないと」

 ピブルは沈痛な顔を隠さなかった。出来なかったのかもしれない。

「アリス様。鏗戈をした妖精は、二度と、二度とは、元の姿形に戻る事はありません」

 一拍の間を置いて、アリスが顔を上げた。

「……え?」

 まさか、と言いたげな顔だった。それもピブルの表情を何度か見て、次第に陰りが生まれる。

「そんな……え、だって。嘘」

 アリスは緩やかな動作でユーナとピブルを見比べる。アリスの困惑の仕草を、しかし対するピブルは丁寧に、はっきりとした口調で静かに告げる。

「鏗戈とは、妖精がその身を武器に変じて、心を失い、意志を騎士に託し、揮われるものなのです」

「それって、嘘、え。そんな」

「蛹が蝶になっても、蝶が蛹になる事はありません。それが鏗戈、その身を武器に変じるという事なのです。ユーナは、その覚悟を持って鏗戈をした。アリス様、貴女にその存在の全てを託したのです」

「それじゃあ、ユーナは、ユーナは妖精の姿に戻る事は……」

 その問いにピブルは断言した。

「ありません」

 そんな、と呟くアリスの身体から一気に力が抜けた。そして、そのままゆっくりと瞳を閉じて眠りについた。身体と精神に限界が訪れたのだ。

 いつの間にか太陽はその全容を現し、空を覆う夜を拭い去っていた。広場に着陸しているユーナの表面に陽光がかかり、白く輝かせている。周囲を妖精が慌ただしく飛び回っているが、ユーナがそれに反応する事は無く、眠る様に動作を停止させていた。

 こうしてアリスとユーナは一時の休息を朝と共に迎えた。

 青空が広がる中、藤宮マリークラリッサ アリスの長い一日が終わった。

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