15 ファーストフライト II

 先に動いたのは竜だった。空中で翼を何度か羽ばたかせ、縮こまらせていた身体を一気に伸ばすと、その巨体からは信じ難い速度で飛翔した。

 機体、鏗戈(うか)により異形の戦闘機へと変じたユーナの方へとぶつかる勢い、いや体当たりをするつもりであるのだろう。あるいは翼の先に付いた爪で切り裂くつもりかもしれない。

 どちらにせよ当たる訳にはいかない。操縦席の中のアリスは顎を引いて奥歯を噛み締め、機体がもたらすであろう荷重に耐えるべく構えた。左手のスロットルレバーを奥まで押し込み最大に、操縦桿を手前に引き、左のフットペダルを踏む。

 機体の主翼が斜め下に向いて駆動し、裏面から爆発的な勢いで白い炎が噴出され、推力偏向パドルがその向きを左へとなびかせる。結果、機体は左斜め上へと向かって旋回しつつ飛んだ。元居た位置を竜が飛び去る。

 主翼の炎が左斜め上への円弧を描いた所で、アリスは操縦桿を元の位置に戻し、フットペダルから足を離す。スロットルレバーは勘で半分程度の位置に戻した。

 機体はおおよそ左斜め四十五度に傾いた状態で、竜よりも少し上空を並走する形になった。アリスは傾いた操縦席の中で、左下に飛ぶ竜を確認する。

「は、速い!」

 竜の爆発的な加速はアリスの予想を完全に裏切るものであったのだ。

 この機体、ユーナは主翼から炎を噴出し、その反作用を推力として飛翔している事は間違いない。これはつまり、内部構造までは解らないものの、アリスの知る現代のジェット航空機や、あるいはロケットとほぼ同じ仕組みだ。別に例えるとしたら、膨らませた風船から指を離して飛ばした時と同じだと考えてもいい。

 一方、竜はどう見ても翼による飛翔方法しか外見からは考え付かない。竜の翼は巨体に見合う長大さを持つが、しかし果たして竜の体躯を浮かせられるだけの力があるかと言えば難しい。とは言え竜の筋力や内部の骨格が解らない以上、飛んでいるのだから、きっと飛ぶ様に出来ているのだろう。

 それでも、鳥の様に羽ばたく程度が限界であろう、とアリスは思っていたのだ。蛇が飛び掛かるかのような爆発的な加速を、まさか空中で行うとは予想だにしない事態である。

 だが、よくよく考えてみればこの世界は妖精なる存在が居る世界である。アリスが今、搭乗しているものも、妖精が変じた『何か』だ。

「魔法、とか、あるっ――!」

 前方、左下に並走する竜、地面との距離を目まぐるしく確認しながらアリスが呻く。

 竜の行動を理屈付けようと考えていた所で、並走していた竜が翼を空に打ち付けた。その一動作で、竜の身体が一気に詰め寄る。だが、その方向は機体のわずかに後ろに目指しているように見えた。

 アリスは機体を操作し、減速しつつ左上へと機体を滑らせた。一瞬で交差した機体と竜は位置を変えて、今度は右斜め下に竜が位置する。森の木々が次々と後ろへ流れていく。

「はッ、あいつっ、後ろに付こうとしたっ!」

 機体の急な機動に身体が追い付かず息を止めていたが、思わず言葉ごと吐き出した。先程の竜の動きは確実にこちらの後ろを取ろうとしたものだ。竜にしてみれば、その飛翔速度と加速力があれば、例え爪で攻撃するにしても後ろに付いて追いかけ続ければいい。空中戦、ドッグファイトの基本だ。

 だが、アリスにしてみれば操縦席の内部から外が確認出来るのは、前方だけだあった。竜がこの事を知っているとは思えなかったが、何にしても後ろに付かれては回避もままならない。それだけは避けなければいけなかった。

「ユーナ、これっ」

 アリスが何かを言い掛けようとしたが、視線の先に居た竜が再び翼を打った。

 巨体が一気に近付き視界を埋めようとしていた。

 咄嗟に機体を上方へ動かし、横回転(ロール)。天地が逆になる。操縦席の足元に月、アリスの頭の上には夜の森林が高速で過ぎ去る。距離感が掴めない。しかも竜の黒い体表が闇夜に混じり溶けて、迷彩となっていた。

 それでも、僅かに見える竜の赤い目のいくつかを視界に捉えて操縦桿を引く。機体は上下を逆にしたまま大地の方へとわずかに降り、竜と同じ高度で再び横に回転して姿勢を正す。

 突撃してきた竜を躱すと同時に、上下に山なりの機動をする事で速度を減じさせないままに竜の後ろを取ったのだ。

「はぁっ、はぁっ、っく、はぁっ」

 だがそれは、ほぼ奇跡に近い動きだった。上に避けて、機体を戻そうと上下を逆にした所までは良かった。その時の浮遊感、身体の揺さぶり、髪の毛が荷重にそってふわりと垂れる首筋の感触。

 そして何よりも夜の森の木々、即ち『地面』を認識した瞬間の恐怖感がアリスの身体を強張らせた。

 頭の中に描けたイメージでは、もっと深い角度で急降下し、竜の後ろに付くつもりだった。だが、地面を見て、激突、墜落、そんなイメージが全てを上書きしてしまった。恐れて、機動が浅く緩いものになった。

「はぁっ、はぁ」

 喉が渇く。唾を呑み込んだ。

 知識と予測と経験と、そして実感は、全てが全て別のものだ。それをようやく理解する。

 高速で過ぎ去る木々の輪郭が捉えられない。それに当たったらどうなるのか。アリスは戦う為の武器として戦闘機を選んだ。速さは武器だ。しかし、速さが己を殺す武器でもある。実感する。

「は」

 それでも今、機体の前方、眼前の竜が更に翼を打ち付け、一気に速度を殺して――つまり空中で急ブレーキをかけて――襲い掛かってきたのならば。

「んッ!」

 右へ急旋回。砲丸の様に丸まって機体へとぶつかろうとした竜を直前で避ける。

 右旋回を続けて半円の弧を描いた所で、竜が更に爆発的な加速で白い蝶を貫こうと飛来する。しかも先を読んでいるコースだ。旋回を続けてはぶつかる。操縦桿を引く。

 機体は急上昇。横に半円を描いていた軌道は捻じれて上空へと円を描き始める。竜はそれに追い縋った。機体の上下が逆転した所で、再び操縦席の上面に森が来る。距離はあるが、恐怖心が勝ってしまった。

 左へ旋回。した所で、しまったと気付く。竜が後ろになる機動だった。機体は左旋回の為に九十度傾いた姿勢で、左手側が森、右手側が夜空だ。アリスは左手側を振り向いたが後方は見えない。映っていないのだ。奥歯を噛んで操縦桿を素早く操作する。

 機体の向きが反転、右へ急旋回。今度は森が右手側に映る。

 アリスから見て真上の位置に竜が飛翔している。機体の急激な旋回に追いつけなかったらしい。

 スロットルレバーをゆっくり下げて速度を落とす。旋回の半径が小さくなり、次第に竜の位置が真上から正面へと移動する。

 竜の旋回速度に機体が勝ったのだ。空に立体的な曲線を描いた、複雑な機動の攻防はアリスが竜の後ろを取った。

 だが竜も急激に旋回方向を変えた。

「ぐっ!!」

 アリスもその挙動に追い縋る。猛烈な斜めの荷重に耐える。

 それを二度、三度と繰り返す。炎の軌跡が多くの曲線を描く。

 両者の位置と速度は再び近い位置で一致した。竜を左手側に捉えたまま並走する。

「はぁっ、ユーナっ、はぁ」

「アリスっ」

 ユーナも疲弊して見えた。急激な旋回の度に身を強張らせていたのだ。恐らく、機体にかかる荷重がそのまま反映されているのだろう。

「ユーナ、これ、後ろ見えないかな」

 息も絶え絶えにアリスが言う。額には珠のような汗が浮かんでは流れ、服を濡らしていた。

「たぶん……ううん、出来る。でも魔力が上手く繋がらない。少しだけ時間を頂戴っ」

「うん。お願い」

 アリスは息を整えつつも、左手側で並走する竜に注意を払っていた。神経が昂っているからなのか、細かい部分が良く見えた。身体中にある赤い目がぎょろりと動いて、こちらの様子を窺っているのが見える。なぜ攻撃してこないのかは解らないが、もし竜にも疲れがあるのだとしたら、利用するしかなかった。

「ねぇユーナ」

「う、うんっ」

「このまま飛び続けて――」

 急旋回の連続で疲弊したアリスの意識を、胸ポケットの中の感触が目を覚まさせる。

「遠くに逃げるって訳にはいかないか」

「アリス?」

「ユーナ、飛ぶ前に森の中でリンリンって鳴ってたのが虫鐘ってのだよね?」

「うん。誰かが、竜の呪猖(じゅしょう)を見て鳴らしたんだと思う」

「あれで皆が避難するのってどれくらいかかるかな」

「大体はもう逃げたり隠れたり出来たと思う」

 それを信じて期待するならば、守護の樹、西の森の女王ピブルの元に竜の呪猖が出現した報せは届いているだろう。守護の樹がどれ程の脅威を退けられるかはアリスには判らなかったが、だが少なくとも、何も知らないままでいる事は無いだろう。

 となれば、目の前の脅威をどうするかだ。

「あの竜って、どれくらいで消えるかな」

 ユーナの顔が曇る。

「あの大きさだと……数か月は」

 アリスは、ふうと息を吐いて、その一息分だけ目を閉じた。逃げ続けるという選択肢は完全に消えた。

 この機体が、ユーナがどれほど飛べるのかという問題よりも、胸ポケットに仕舞い込んだフィヤの容態を考えれば、残された時間は多くない様に思えた。

 覚悟は決めたつもりだった。だが、まだ未熟なのだと、飛ぶ事で思い知った。

 ならば、またそうすればいい。

 アリスが毅然とした表情で、背筋を正し、息を整え、しかし左手側に飛ぶ竜からは目を逸らさない。

「よし。ユーナ、覚悟を決めよう。戦う」

「うん……うん。でも、どうすればいいの。私は剣でも槍でもないよ」

「武器がある。絶対に何かある。ユーナのこの身体は絶対に武器がある」

「武器の中に武器?」

「そう。絶対ある。例えば、細長い矢みたいなもの。敵を追いかけて爆発する矢」

「爆発する矢……。えっと……」

「じゃあ、小さな弾をたくさん撃つ武器。そう言うのはある?」

「翅の中に……これはなに……? 飛ぶ為の魔力じゃない。小さいものが一杯」

 アリスが一瞬、視線だけを台座の上のユーナに向けた。

「それだ。使えそう?」

「魔力の繋がりが、あと少し、あっ」

 立体映像のユーナがぴくっと身体を跳ねさせた。翅を広げると、輪郭を白い光が伝わり縁取る。

 アリスが握っていた操縦桿の一部が構造を変化させる。新たに生成された、拳銃の引き金に似た形状のそれは、まさしくその通りのトリガーだった。

「よし」

 アリスが笑った。

 すぐに竜へと注意を向きなおしたので一瞬の事ではあったが、確かにアリスは笑った。逃げ続けるだけ、避け続けるだけであった状況に一石が投じられた。

 不条理に抗う新たな術が手中にある。

「アリスッ!」

 ユーナが叫んだ。アリスは正面へと振り返り、状況を理解する前に操縦桿を引いた。

「うっ!? がっ」

 眼前へと迫っていた何かを回避する為に急上昇し、機体にかかる荷重を全身で受け止める。座席に押し付けられ、舌を噛まない様に歯を食いしばる。

「ぐ!」

 目線の先に岩肌の様な物が高速で過ぎ去り、樹の幹、枝葉が見えて過ぎ去った。再びの夜空。

 上空へと向いた機体の姿勢を戻しつつ眼前に迫った物を確認する。

 空中に浮遊していた樹木。この森の上空に所々見かけていた物体だ。遠目には判らなかったが、樹木の根が岩を抱えているので想像以上に大きい。家三軒が地面ごと浮いている様な物だった。

 先程まで飛翔していた場所には見かけなかったが、今現在居る場所は遠目にいくつか見える。

 偶然なのか、あるいは誘い込まれたのか。竜にそれほどの知性があるのか。

「しまった、あいつどこに」

 浮遊している樹木を避けた際に目を外してしまった。アリスは周囲を見渡す。見える範囲には居ない様に見える。機体を傾けて左旋回。見えない部分を補い、再び周囲を見渡す。

 アリスの左下方、浮遊している樹木の陰から竜が飛び出て上昇する。口を開いているのが見えた。

 右のフットペダルを踏み込む。スロットルレバーを最大に、操縦桿を右手前に引く。機体は左に旋回している状態から、剣で斜めに切り上げたかの様な鋭い捻りの旋回で斜めに上昇した。

 視界が複雑に一回転し、左手側に広がっていた森林が一瞬にして右斜め上にまで移動する。アリスの視点の真上を黒い炎の奔流が高速で通り抜ける。

 更にペダルを操作し、操縦桿を動かす。機体がそれに合わせて、上昇しながら左旋回。機体の裏側を黒い炎が昇る。その残り火に沿う様に急降下、正面に竜が見えた。既に炎を吐いている。

 機体の主翼が左右別に捻じれ、機体を斜めにスライドさせた。黒い炎を間一髪で避ける。急降下の勢いを速度に変えて加速しつつ、旋回を織り交ぜながら姿勢を水平に戻した。

 この一連の機動で、炎を吐く為に速度が低下していた竜から距離を取り、浮遊する樹木を盾にする位置に付けた。

「あんなに沢山、火を吐けるなんて……!」

 ユーナが竜の方を睨みつつ叫んだ。

 アリスも竜の位置と、浮遊している樹木の位置を視界に収めつつ応える。

「はぁ、は、さっき、飛んでいた時に、準備してたのかも……」

 旋回して、竜が隠れている位置へと回り込む。浮遊する樹木の裏側を探る様に飛ぶ。機体の傾きは七十度近い。アリスは首だけを地面に対して水平になるよう曲げたまま、機体の横に近づく樹木と岩肌の圧迫感に耐えた。

 竜の尾が覗く。裏を取った。

「でも次は!」

 アリスは操縦桿のトリガーに指をかけた。

「こっちの番!」

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