14 ファーストフライト I
黒い炎を弾き飛ばした光の渦。その中から突如として現れた巨大な物体。
それは異形ながらも、白い蝶と形容するのが相応しい存在であった。
中央に嘴の様に伸びた矢にも見える部位。そこから二対の構造物が伸びる。下方の一対は細長い剣に似て、地面に先端を突き刺して全体を支えている。上方の一対は翅である。形状はユーナの翅、アーモンドを半分に切った水滴の形。その四つの構造物が蝶の翅の様に伸びていた。全身は白い陶磁器の様な質感を思わせ、月光が反射し煌めいている。
翅の先端までの長さは木々より高く、黒い竜と同程度の全長を持つ蝶は、アリスの前方の地面に脚先を刺して佇んでいる。
「蝶……?」
見上げたアリスが呟く。黒い炎が渦巻く中、ユーナが光の奔流となって掻き消え、白い蝶が突如として現れた。そこまでは見ている。
だが、見ているからと言って理解した訳では無い。ユーナが何をしたのか、何が起きたのか。戸惑っているアリスに声が届いた。
「これが鏗戈(うか)……?」
ユーナの声だ。白い蝶から聞こえた。不思議な事に、ユーナが目の前に居て喋っているとしか思えない声だった。
アリスは白い蝶に向かって尋ねる。
「ユーナ?」
「アリス? あれ、どこに。声は……あっ、居た。これが鏗戈? どうして」
ユーナの戸惑う声が聞こえる。だが白い蝶は動かず、黒い竜に対峙したままだ。
そうだ、竜。黒い竜はどうしたのか。
アリスは白い蝶の脚のその先に、黒い竜を見た。身体のあちこちにある赤い眼がぎょろぎょろと動いている。だがそれも一瞬、赤い視線は白い蝶の元に集う。纏っていた黒い霧が揺れ、竜の口元へと収束する。
炎が来る。アリスは叫んだ。
「ユーナ!」
「あっ!? いけない、動いて!」
白い蝶が翅を広げる。翅の後方に並んだ積層の板がばらばらと展開し、隙間から青白い炎を次々と噴き出した。その炎は揺らめかず、バーナーの様に直線的な炎だ。
アリスは炎の中に所々丸い輪が形成されているのを見た。ジェットエンジンが出力を最大まで上げたリッチバーン状態の時に見られるダイヤモンド現象。それと全く同じ理屈のものかは判断が付かないが、しかし炎の勢いが凄まじいものなのは確かだ。
今まさに、ジェットエンジンが駆動するかのような甲高い音と炎が噴出する音が高らかに響く。積層の板の隙間から次々に炎が吹き上がる度に、それらは力強さを増していく。
凛とした声が、力強い声が、アリスの耳元に届いた。
「こっ――」
白い蝶の体躯を支えていた脚先が、炎の噴出についに耐え切れず、土を零しながら宙に浮いた。
「――のぉッ!!」
白い蝶が飛んだ。
翅から生み出された猛烈な前へと進む力、推力を全て使って飛翔した。それは放たれた矢の如く。一瞬で爆発的に加速し、そして黒い竜の喉元に、翅の付け根辺りを刺す様に叩きつけた。
突然かつ猛烈な白い蝶のタックルに、黒い竜が呻く。上体を大きく弾かれ、反らされ、口からは炎になるはずであった霧が溢れて散った。白い蝶の炎は止まらない。全身をそのまま押し込み続け、竜は姿勢を正す事が出来ない。
だが、黒い竜の方が体格も膂力も上だった。自由に動かせる翼を地面に擦りそうな程の位置から救い上げ、白い蝶を吹き飛ばした。
その衝撃の所為なのか、白い蝶の翅から炎が消える。推力を失った白い蝶は吹き飛ばされるままに地面へと叩き付けられ、なお勢いを殺し切れずに土を抉り、木々に衝突して静止した。土煙が盛大に巻き上がり、同時に翅の裏側から光が消える。
「ユーナ!」
木に衝突して動きを止めた白い蝶に向かってアリスは叫ぶ。そして走り寄る。全身が悲鳴を上げるが、白い蝶までの距離は近い。耐えろと全身の悲鳴を抑え込み、歯を食いしばって、だが左手に包んだフィヤを傷つけない様に。
土煙の中に飛び込むとすぐに白い構造体が見えた。横たわる白い蝶の嘴の部分に辿り着く。
「ユーナ、ユーナ!」
白い蝶に向けて叫ぶ。どこを中心に声をかけて良いのか判らず、首を左右に振り、嘴状の先端から翅の先にまで呼びかける。
応えたユーナの声が届く。
「アリス!」
やはり、目の前で喋っている様にしか聞こえない。そこでアリスは気が付いた。妖精の魔法。魂を通じて会話を成す、時にはどんなに離れていても通じ合う事が出来ると言う魔法。それが今、アリスとユーナの会話の根本にある。
声は何処から聞こえてくるのか。目の前で喋っている様に聞こえる。
ならばやはり、この巨大な白い蝶はユーナなのだ。そうであろう、と思っていたものは確信に変わる。
「アリス、私、これ、どうなったの? 私は『何に』なったの!? なんで意識があるの? アリス、アリスは何の『武器の形』を私にくれたの!?」
混乱した様子のユーナに、アリスも声を大にして答える。
「戦闘機だよ! あんな、竜なんかっ」
「何それ!?」
「飛行機! 戦う飛行機!」
「戦うヒコーキ……え、乗り物? 乗り物が武器なの!?」
「だって――」
言い訳をしようとしたアリスだったが、言い止まった。黒い竜を相手にして、考え得るものがそれだったのだ。剣が届くだろうか、弓矢が貫けるだろうか、それこそ拳銃など豆鉄砲だ。
あの巨大で強大な黒い竜を倒せるだけのものを、それ以外に思い付く事が出来なかった。
だがそうではない。
妖精と騎士の話を思い出す。ユーナが語っていたはずだ。騎士は託された意志と鏗戈した妖精を揮って戦う。それが妖精騎士。鏗戈とは、誰かに戦って貰う為の力。
ユーナが言った言葉。アリスも戦ってくれ、それにどう応えた。
毅然とした表情のアリスが居た。それは、いつか見たアリスの母の顔だった。
「――何を、すればいい? 今のわたしに何が出来るの。教えてユーナ」
アリスの瞳に意志が宿る。その左手の中に弱々しい鼓動がある。
白い蝶が、ユーナがそれを読み取ったのかは判らない。だが一瞬の間を置いた後、ユーナもまた毅然とした口調で告げた。
「戦い方が解らない。アリス、私にこの武器の戦い方を教えて」
「戦い方……」
どうすればいい。
ユーナの全身を見る。横たわっているが、その姿は目に焼き付いている。明らかにアリスの知る航空機の類ではない。異形の何かだ。だが本当に、アリスが思い描いた物に相当する存在であるのならば。
アリスは弾かれた様に立ち上がり、嘴状の部位を覗き込んだ。それはまさに嘴の如く、中央が開いて隙間があった。土煙の中、その隙間に『座席』があるのを見る。見てしまった。
大きなものが羽ばたく音がした。煙る空間で満たされ、音の先は見えない。だが、竜が飛んだのだろう。そうに違いない。解っている。
「フィヤ、少しだけ我慢して」
アリスは小さく呟くと、左手で優しく包んでいたフィヤの、余りにも小さくなってしまった身体を、壊さない様にそっと左胸元のポケットに仕舞い込んだ。指先でその小さな身体がまだ温かく、脈打っている事を確認して。
そして空いた両手で嘴状の部位の隙間に手をかける。
「ユーナ! ここを開けて!」
すると、横になったままの嘴状の部位は地面に擦り付けつつ、しかしその動作自体は音を立てる事無く開いた。はっきりと内部の様子が解る。嘴状の部位の下側に、生き物で言うのならば舌の位置に、円筒形のポッドらしきもの、操縦桿のようなもの、座席が収まっている。
迷う時間は無い。アリスは走り、嘴の間に入り込み、横になったままの『操縦席』に座った。
「閉めて!」
再び嘴が動き、閉まる。隙間はピッタリと閉じられアリスをその内部に収めた。
内部は暗闇の中だったが、隙間が完全に閉じられると同時に内壁の白い構造体が光り、内部の全てを浮かび上がらせる。
座席は固い。ユーナの白い陶磁器の様な材質とほぼ同じに思えた。
正面には婉曲した壁が床と天井と一体になっている。側面は狭く、腕を少し横にすれば構造体にぶつかる程だ。だが、左手側には前後に稼働するレバーがある。そして中央、足の間には歪な、しかし表面には何もないシンプルな形状の白い操縦桿がある。足を伸ばせば、両足のそれぞれの位置にペダルがあった。
アリスは唾を呑み込む。間違いない。余りにもシンプルではあるが、これは航空機の操縦席だ。あるのは飛ぶ方向を決定するであろう操縦桿とフットペダル。そしてエンジンの出力を決定するスロットルレバー。これだけだ。もし車に例えるとしたら、ハンドルとアクセルしかない。
それが逆にアリスの決心を強固たるものとした。アリスの持つ知識は雑誌や書物の類、あるいはゲームのものだ。航空祭や基地祭で実物の航空機を見た事はある。展示されている機体の操縦席の内部も見た事はあった。とは言え所詮はその程度の知識で、あれらを使いこなせる訳が無いのだ。
だが、今の状況ならどうだ。
「これなら出来る」
「アリス。アリスが戦い方を教えてくれたら、きっと私は動ける。鏗戈した妖精は騎士に力を与えるから。絶対に」
アリスが頷く。右手は操縦桿を握る。左手はスロットルレバーに添える。きっとそうだ、と確信に近いものを感じつつ、左のフットペダルを軽く踏む。
「ユーナ、立って」
ユーナが――『機体』が、動いた。横たわっていた姿勢から、右の『主翼』が炎を噴出させ機体を浮かせると、両足の『スタビライザー』を地面に突き刺し全体を安定させた。
立ち上がる。主翼を再び広げて蝶の様な姿勢になる。その工程は素早く、滑らかに行われた。
操縦席の中にユーナの戸惑いとも感動とも取れる声が響く。
「動ける……」
アリスは緊張したまま浅い呼吸を繰り返しつつ、一度右手を操縦桿から離して、正面の婉曲した壁に向けた。
「ユーナ、次はここ、前が映せると思うの。ユーナの見ている正面。映して」
一秒も経たない内に変化が現れる。婉曲していた壁の一面が小さくまばらに輝くと、アリスの正面から操縦席の半分程が黒く染まった。
よく見れば天井には大小二つの月と星々が映っている。黒一色に思えた側面も、夜空と森の木々に分けられている事が解る。前方の光景が投影、あるいは透過しているのか、何にせよ操縦席の内部から外が確認出来るようになった。
操縦席の右手側が輝く。操縦席前方のポッド状の構造物から、結晶が成長する様に構造物が伸び、小さな丸い台座を作った。その上に小さな光が集まるとユーナの形になる。だがその姿は半透明で、ユーナ本人ではなく立体映像の類に思えた。
アリスは右手をすっと伸ばしてユーナの姿に触れようとするが何の感触も得られないまま通り過ぎる。『二人乗りの機体をイメージした』のだ。こういった形で表現されるのかもしれない。映し出されているユーナも気付いた様子は無く、正面を見据えている。アリスも額の血と泥を素早く袖で拭って、顎を引いて、正面を見据えた。
土煙が晴れる。黒い竜が居る。
翼を大きく羽ばたかせ、その度に巨体が宙に浮き、徐々に高度を上げている。
もう散々な目に遭っているのだ。解っている、空から見下ろす竜が口を開けているのは炎を吐く為だ。そんな事は解っている。
確認する様にアリスが呟く。
「次は、飛ぶ」
「うん」
アリスは左手を添えたスロットルレバーを静かに前へと滑らせた。抵抗感は全く無い。レバーが前へ前へ進む毎に、操縦席内に響く甲高い音がより強く、高い音となって響く。
機体の主翼裏に並ぶ積層の板がばらばらと展開し、隙間から炎を噴き上げている。地面に刺さっていたスタビライザーが主翼の生み出す推力に負けて、地面から離れた。操縦席の中にふわりとした浮遊感が生まれ、座席を通してアリスの身体に伝えた。
小さな円形の台座の上に投影されたユーナの翅が、ぴんと伸びる。次の瞬間、ユーナが正面を向いたまま叫んだ。
「アリスッ! 炎が来る!」
「このっ!」
のんびりと確認する余裕など無い。アリスは左手のスロットルレバーを最大まで前に押し込んだ。視線だけをちらりと黒い竜に向ければ、開いた口の内側に渦巻いている奔流がある事が確認出来た。だが次の瞬間、猛烈な加速がアリスを座席に押し付ける。
主翼から噴出される炎が限界まで伸び、最大限の推力を生み出した。その勢いでスタビライザーの先端を地面に擦り付けつつ、機体は前方へ押し出された。
そして、そうなる様に出来ているのだろう、主翼の姿勢が整い噴出孔が全て裏側に揃う。積層の板、『推力偏向パドル』が一枚一枚並び立ち噴炎の方向を整えた。スタビライザーの先端を後方に向ける。機首を前へ。飛ぶ為の姿勢へ。
それらがいっぺんに淀みなく行われ、爆発的な加速をもって前方へと突き進んだ。
「ぐぅっ」
アリスが座席に強く押し付けられる。耐えられないと思ったが、不思議な事に目を開いていられる。座席から弾き飛ばされそうになっても、腰と肩の辺りに見えない抵抗感があり、それが身体を抑えてくれていた。まるで空気がシートベルトの形に固まっているかの様だった。
手は操縦桿とスロットルレバー。足元もペダルを踏める。歯を食いしばり腹に力を込めて荷重に耐える。
立体映像のユーナが、はっとしたように背を伸ばした。
「ぶつかる!」
「解ってる!」
機体が進む先には木々の壁が猛烈な勢いで迫る。竜と対峙していた広間は、今や余りにも狭い。
アリスは操縦桿を目一杯に手元に引いた。腹の底を打つ様な浮遊感。主翼が根元から上を向く様に回転し、スタビライザーが僅かに下がり、その裏側から細長い炎を噴き出した。機首がくんっと上を向くと、目の前に迫った木々は一瞬で下方に。正面の全てが夜空になる。
飛翔した。
「はぁっ」
強烈な浮遊感にアリスの身体の中の空気が押し出される。正面に二つの青白く輝く月が見えた。
ユーナが月を見上げ、その小さな瞳の中に月を宿らせている。
「飛べた……」
思わずと言った様子で囁いたユーナの言葉は、アリスの心情と同じものだった。座席に座ってこの瞬間まで、全てが憶測からくる確信のみで動いていた。根拠となるものは何も無かった。それでも、確かにアリスとユーナは飛翔したのだ。
竜を。アリスは振り向いたが、座席の後部を形作る構造体が目の前にあるだけだった。外の光景は操縦席の前半部までしか映せていない。
映像や本、ゲームの中でイメージしていた動きを、身体は上手く実現してくれた。操縦桿を奥へ倒し、左手のスロットルレバーを一気に手前まで引く。右のフットペダルを強く踏み、一瞬遅れて左のペダルを軽く踏んで戻す。
機体は空中で横に反転し、主翼を広げて自重を支える程度に炎を噴射する。慣性でふらついた機体をスタビライザーが細かく動いて制動させた。月を背にして静止する。
「はぁ、はぁっ」
アリスが浅い呼吸を繰り返す。ここから先の事は考えていない。正面に捉えた黒い竜が恨めしそうにこちらを見上げていた。額に汗が流れる。
立体映像のユーナがアリスの方に振り返り呟いた。
「アリス」
「うん?」
「大丈夫。私は飛べるよ」
「うん」
アリスは大きく息を吐いた。竜が首をすぼめて、何度か翼を羽ばたかせている。顎を閉じているので炎は吐かないだろう。しかし何をしてくるかは判らない。
もう一度自分の身体の感触を確かめる。右手を操縦桿に。左手をスロットルレバーに。両足はフットペダルの位置。大丈夫。全ての機能は手足と繋がっている。左胸には自分の鼓動と、小さな鼓動がある。
二つの月が見守る夜の森の空。
飛ぶものだけに許された戦場に白い蝶と黒い竜が佇む。
静寂の中、戦いの火蓋は切られた。
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