13 鏗戈(うか)

 地中から飛び出で、吹き飛ばした土や石の雨をその身に受けながら出現したそれは黒い竜であった。

 頭は古木が絡み合ったかの様に歪で、口から生えた牙は不揃い。赤い眼は何処を見据えているのか判らず表情を読み取れない。鱗が見られない長い胴の途中からは一対の翼が生え、歪で襤褸布めいてはいるが酷く鋭利な爪が生えている。

 その漆黒の身体は周囲の木々を超える程の巨躯、それ故に歪な牙と爪は相応の恐怖感をもたらすには十分なものであった。更には身体の周囲に纏う黒い霧、牙の隙間から零れ落ちる腐汁が地面の草を焼いている。

 醜悪にして奇怪。見た目から感じ取れる全てが、これは善なるものでは有り得ないと感じさせるに十分な、竜だった。

 アリスの喉がごくりと鳴る。頭を上げてはいるが身体は臥せたままだ。目の前の巨大な黒い竜が到底無害なものとは思えなかった。黒い霧を纏っている。漆黒の身体。そこから連想させるものがあった。

 これは呪猖(じゅしょう)だ。竜の形をした呪猖。この判断はきっと間違っていないのだろう。

 だとすれば、昼頃に出会った小さな花の呪猖でさえも殺傷力の有る針を誰彼構わずに飛ばし攻撃をしてきたのだ、眼前の竜が何もしないはずがない。

 逃げなければ。

 アリスが足に力を込めて立ち上がろうとする前に、竜が動いた。

 右の翼を大きく振り上げる。先端に付いた爪が月光に煌めいている。アリスは反射的に再び頭を手で覆って身を縮こまらせ、何かに祈った。

 薙ぎ払われる音が鼓膜をつんざく。爪が風を切る音、近くの木々の数本が飴細工の様に容易く折れて弾き飛ばされる音。遅れてアリスの背に爪が通り抜けた風が当たり、破砕された木々の破片が散らばってぶつかった。

 片目を開けて様子を見れば、木々が薙ぎ払われた先で振り抜かれた翼がまだそこにあった。空に弾き飛ばされ回転している木の幹があった事を、非常識なその光景をすぐに信じる事は出来なかった。

 ずるりと翼が元の位置へ戻ろうとして、陰になっていた竜の歪な顔が覗き、目が合った。目蓋の無い赤い瞳が確かにアリスを捉えている。

 胸元に匿ったままのユーナとフィヤを両腕で掻き抱く。二人が何か叫んだがアリスに聞く余裕は無かった。頭を向けていた広場の方とは反対の方向に飛び出す。一歩、二歩、走る、三歩、足先が石に触れて身体のバランスが崩れた。

「う」

 言葉にならない呻きを言い切る事も出来ずに、アリスは地面に顔を叩きつけながら転ぶ。腕の中の小さな妖精だけは離さずに。

 直後、頭のあった位置を黒く巨大な鞭が過ぎ去り、扇状に周囲の木々を薙ぎ払った。竜の尾だ。叩き折られた木が吹き飛び、空を舞い、地面を転がった。

 アリスが顔を上げる。何かで額を切ったらしく、流れた血と泥が左目の周囲を汚している。無論、全身が土に塗れているのは言うまでも無い。

 それでもなお、アリスは上半身を起こし、不格好にも尻を上げる体勢から足に力を入れて立ち上がろうとして、出来なかった。上手く力が入らずバランスを崩して、横向きに倒れる。身体は竜の方を向いた。

 目を開ける。長い尾をくねらせている黒い竜が顔をこちらに向け――大きく顎を開いていた。不揃いな牙の中央で黒い何かが渦を巻いている。ごう、と漆黒の炎が燃え滾っている。本能的に、身体の反射現象として手を掲げて頭を守ろうとした。

 腕の中からフィヤが飛び出したのを見て、アリスは閉じようとしていた目を見開いた。

 フィヤが空中へ飛び出すと同時に両手を前に突き出す。何かを叫んだが、しかしその声が誰かに届く事は無かった。

 濁流の如く猛烈な勢いで竜の口から吐き出された黒い炎がアリスの居た周囲を呑み込み、木々を、草花を、岩土を、全てを焼いて渦を巻き、暴れ回り、最後には内に込めた熱を全て解き放って爆散した。


「――ひ、あッ!」

 アリスは大きく息を吸い込んで顔を上げる。肌を焼く熱波を防御しようと気付けば身体を丸めていたが、息が続かなくなったのだ。

 肩で息をしながら周囲を見渡す。視界を遮っていたはずの木々が悉く焼き払われ、視界が広くなっている。辛うじて幹が残る木は、黒い炎で飲み込まれた面を炭に変えていて、しゅうしゅうと焼ける音を立てて今にも崩れ去ろうとしていた。

 なぜ無事だったのか。

 アリスの腕の中で護られていたユーナが顔を出して叫んだ。

「フィヤ!」

 そうだ、そうだった、と思い出してフィヤの飛び出した方向を向き、小さな妖精の姿を探す。

 両腕を前に突き出したまま、大きく息をしているフィヤの姿が空中にあった。次の瞬間、フィヤの両手の先から輝く波紋が揺らめき、アリス達を球状に一周した後に弱々しく消える。

 昼間に黒い花が放った針を防いだ魔法の障壁。それがアリス達を守ったのは間違い無い。

 だが、それを行使したフィヤの様子は息も絶え絶えで、翅の羽ばたきは余りにも弱く、崩れ落ちる様に地面へと落着した。

「ああ! フィヤ!」

 アリスの腕の中からユーナが飛び出て、焼けた地面に座り込むフィヤの元へと飛ぶ。アリスもそれに引っ張られる様に這って歩き、フィヤを両手で包み込んだ。

 フィヤは全身から汗を流している。肩で大きく息を吸っては吐いて、頭を数度振った。そのまま左手を上げた。ユーナとアリスにはその手が何を意味するのか解らず、一瞬の間があった。フィヤは地面に顔を向けたまま強く、一言。

「灯りを」

「フィヤ!?」

 ユーナが叫ぶ。息吹灯はアリスの足元にあった。フィヤの視線がそれを探り出す。

 アリスが咳き込みつつ、声を絞り出した。

「ちょっと待ってフィヤ、何を」

 それを聞かず、フィヤは立ち上がるとふらふらとした足取りで、落ちている息吹灯を手にした。青い光はまだ健在で、フィヤの顔を照らす。強張った、しかし何かを決心したかの様な、それでも口元が震えている表情だった。

「アリス様、ユーナ、逃げて下さい」

 嫌な想像がよぎる。そして、それは恐らく合っているとアリスの中に確信が生まれる。アリスの口から静止の言葉が自然と出た。

「フィヤ、駄目」

 その言葉に応えは無かった。息吹灯を持ったフィヤは振り返り、竜の方向を見た。当然の様に竜は未だに健在で、開けた空間の淵であった場所に巨体を置いている。

 しかし、その頭は横を向き、獣が獲物を見つける時の様に、首を伸ばして森の何処かを見つめていた。

 そこで初めて、アリスは周囲に小さな音が響いている事に気付く。

 りん、とした音が何重にも響き、虫の鳴き声にも似て周囲に響いている。遅れて音に気付いたユーナが呟く。

「虫鐘だ……誰かが呪猖に気付いて鳴らしてくれた」

 虫鐘と呼ばれる小さな鐘の輪唱にアリスが耳を傾けようとした所で、フィヤが静かに、はっきりと喋る。

「早く。呪猖は虫鐘の音に意識を逸らしていますが、それも僅かです。あの炎を防ぐだけの障壁はもう張れません。アリス様、早く! ユーナも!」

「そんな、わたしが二人を抱えて走った方が」

「嫌だ、フィヤも!」

 アリスとユーナの引き留める声に、フィヤが吼えた。

「竜から!! ……竜から逃げられた妖精が、居ましたか」

 吐き出す様に放たれた言葉にユーナが呻き、強張る。

 アリスはその様子を見て察する。すぐ傍で佇む黒い竜は、つまりそれだけ強大な存在なのだ。

 戸惑っている時間は短かったが、しかし余りにも長過ぎた。ずるり、と地面を何かが擦る音に三人が振り向く。黒い竜の赤い瞳が、よくよく見れば顔だけではなく体中にまばらに開いた赤い眼の数々が、三人を見据えていた。

 アリスの足は奇跡的に竦む事は無かった。逃げ出そうと腰を浮かした。ユーナとフィヤに手を伸ばす。次は皆で逃げようと約束をしたからだ。

 それよりもフィヤが飛び立つ方が早かった。アリスの顔を息吹灯が青く照らしたが、それも一瞬だった。

「これが私の護り方です。どうか、ご無事で」

 ユーナが絶叫にも近い声を上げた。

「フィヤ!」

「ユーナッ、駄目! 戻って!」

 アリスは咄嗟に両手を伸ばした。フィヤを追って飛び立とうとするユーナを掴む。ユーナにしか手は届かなかった。姿勢を崩し足がよろめくのを、無理矢理に正して倒れるのは回避した。

 黒い竜は既に口を開いていた。牙の合間に黒い炎が渦巻いている。その光景が視界の端に映った瞬間にアリスは駆け出していた。次は転ばない。一歩、二歩、走る。

「そんな、アリス! フィヤが!!」

 手の中でもがくユーナが叫ぶ。

「解ってる! わかってる!!」

 三歩、四歩、走る。走れている。フィヤが望んでいる事は解っているつもりだった。この一瞬を絶対に無駄には出来ない。三人で逃げるという約束を破ったのはフィヤだ。だから自分が約束を破るのも許される。許されてくれ。懇願する。

「許して……!」

 許すものかとでも言いたげに、炎が吐き出される轟音が響いた。身体の向きはそのままに後ろを振り返る。

 黒い竜が空に向かって黒い炎を吐いていた。その炎の流れが途中で奇妙にずれているのは、そこに小さな障壁が張られ炎を逸らしているからだ。

 蛍の様な青い光が炎のすぐ傍を飛翔している。

 小さな青い光が見えている。見えている程に、まだ離れていない。こんなにも人間は遅い。たった数歩、たかだか数歩を走っただけで、巨体の竜から遠ざかる事が出来るはずもない。

 それでも、今まさに空中で渦を巻く黒い炎の一撃は、アリス達の元には来なかったのだ。フィヤが身を挺して囮になったからだ。それだけは確実に理解出来ている。何が在ろうとそれだけは無駄にする事は出来ない。だから走る事を止めはしない。しかし、まだ、引き返せば……。

 何が出来る?

 容易く森の木々を吹き飛ばし、薙ぎ払い、炎を吐いて焼き尽くす巨躯を相手に、人間が何を出来ると言うのだ。正しい言い訳と後悔がぶわりと湧き上がるのを必死に抑える。

 炎が巻き上がる音が収まった。黒い竜はすぐに何度も炎を吐けないのではないか、そんな希望に縋って走る速度を上げつつ、それでもやはり、恐怖が見ない勇気を崩してしまう。フィヤと黒い竜が気になり再び後ろを振り向いてしまう。

「え」

 竜の翼が振り下ろされる瞬間だった。何かが吹き飛んだのが見えた。見えてしまった。それ程までに、全く離れていない。走っているつもりだったが、まだほんの僅かも進んでいない。何もかもが遅い。何もかもが追い付かない。

 だから、もしかしたら約束を破ったから、理由は判らない、理由など無いのかもしれない。竜の爪が弾いたそれが、走り逃げるアリスの方向に吹き飛ぶ事など些細な偶然で、何か理由があった訳ではないのだろう。

 フィヤが――打ち下ろされた竜の爪の絶対的な暴力で、両脚と下側の一対の翅を容易く切り飛ばされたフィヤが――アリスの頭上を簡単に飛び越えて、焼けた地面にゴミ屑の様に落ちた。

 アリスの腕の中から顔を出していたユーナにもそれが見えていた。

「フィヤ!!」

 二人が叫ぶ。

 しっかりと地面を掴み走っていたはずのアリスの両脚は、糸が切れたが如く簡単に姿勢を崩した。膝から地面に滑り転げて、不様にも何度も地面を転がった。両手でしっかりと包み込んで、あんなにも護ろうとしていたユーナは転んだ勢いで放り投げられ、辛うじて火の手から逃れた草の上に転がり落ちる。

 アリスは頬で地面を拭い滑った末に停止した。目を開ける力は無かったが、横顔から地面を擦ったので強制的に目が開かれていた。まるで目の前のものを焼き付けろと言わんばかりに。

 フィヤが横たわっていた。眩しく長い黄色の髪が顔を隠していて表情は見えない。鮮やかで美しかった赤い二対の翅は、下側の一対が根元を残して消失していた。そして腰に巻いたスカートの布地ごと、両脚もまた根元から消失している。よく見れば左腕も見当たらない。

 血は出ないのか、などと些細な事がまず頭に浮かんだ。フィヤの生死がどうなっているかなど、現実感が無さ過ぎる状況に頭が働かなかった。

 そう、頭が働かない。何をすればいいのか。

 アリスはフィヤに右手を伸ばした。辛うじて指先が届いた。

「フィ、ヤ」

 そっとフィヤの身体に指を乗せる。

 ――。

 指先に鼓動を感じた。

 驚きと共にアリスは目を見開いた。

「はっ、ぐッ!」

 息を吸う。身体中に激痛が走る。

 妖精という生き物についてアリスは何も知らない。腕の一本と両脚と翅の半分が無い。血が出ていない。判らない。だが確かに鼓動を感じた。心臓の様なものがあるのだとしたら、その鼓動を確かに指先が捉えた。

 頭を地面にぶつけながら無理矢理に胴体を捻って身体を起こした。両手で、しっかりと、そっと、フィヤを包み込む。耳を近づける。指先に鼓動が伝わっている。呼吸の音が聞こえる。

「アリス!」

 ユーナの叫び声が届く。落下した草の中から既に飛び出し、地面に立ってアリスとフィヤの様子を見られる位置に居た。アリスと同様に顔半分が泥で汚れていた。ワンピースドレスもいつの間にか真っ黒になっている。

 ユーナは大きく早く二回、深呼吸した。その背後には黒い竜。僅か数歩先に居る黒い竜は、確かに三人を捉えている。

「アリス!!」

 ユーナが大粒の涙を零しながら再び叫んだ。

「アリス!! お願い、力を貸して。私は、私は戦う!! だからお願い、アリス」

 黒い竜の顎が開いた。見る見る内に黒い霧が炎となって渦を巻く。

 何をすればいいのか。手の中の弱々しく鼓動を打つ生命を見守る以外に何が出来るのか。

「アリスも戦って。私は絶対、絶対にアリスの力になるから」

 朝にもこんな会話をしたような気がする。朦朧とする意識の中で、何かを答えた気がする。

 その時と違う事は一杯ある。それでも何が違うのかと言えば、アリスの手の中に生命がある事だ。そして、その全てが殺されようとしている。余りにも強大な黒い竜の姿をした不条理に。

「後で私をたくさん恨んでくれてもいいから……お願い、アリス……」

 黒い竜の口の中にある渦は猛烈な勢いで膨らんでいる。時間が無い事は、なんとなく、解る。朝に何と応えたのだったか。言おうとして、口が動かなくて、身体全部が痛くて、喋るだけでも凄く難しい状態にあるのだと認識して、それでも今はそれを跳ね除けないといけないのだ、という事は確かに解った。

 アリスは目の前にある小さな存在達の為に応えた。

「今のわたしに、何か、出来る事があるなら」

 ユーナは毅然とした表情で、両手を伸ばしてアリスへと飛ぶ、叫ぶ。

「武器ッ! アリス、武器だよ!! アリスの知る強い力を教えて!!」

 アリスは左手でフィヤを包み、力無く右手を差し出した。ユーナが飛び込んでくる。黒い竜が炎を吐き出すのが見えた。間に合わないかもしれない。視界の全てが炎に包まれる。

 それでもまだ、飛び立ったユーナは炎に包まれていない。炎が届いていない。あれだけ人間の動きは遅い遅いと思っていたが、なんだ、炎も遅いではないか。ユーナが飛翔する速さにすら追い付けないではないか。

 ――それよりももっと。

 それよりももっと速い存在をアリスは知っている。

 こんな炎よりも強い炎を吐き出す存在を知っている。

 眼前の妖精の様に飛び立つ、力強い、力強い存在だ。

 炎も夜も全てを超えて、朝焼けに、青空に飛べるものを。

 星すらも撃ち落とす翼をアリスは知っている。

「ユーナ、飛んで」

 二人の指先が届いた。アリスの声にユーナが頷く。

 妖精の姿は大小様々な光の球体に分解された。炎が届く。周囲全てが炎に飲み込まれ消失していく中、妖精であった光は急速に膨張し、炎に対抗して渦を巻き、竜巻となって破壊の力を切り裂いていく。

 炎の渦と光の渦とがぶつかり、アリスは熱と風と衝撃に強く揺さぶられる。それでも光の渦を見続ける事が出来た。きっとこの光の渦は炎に打ち勝つだろう。

 黒い竜の吐いた炎が森の一画を焼き切って、爆裂して弾けた。本来ならば何も残らないはずであったその場所に、巨大なものが立っていた。


 白い蝶である。

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