12 生き方 II
夜の森は二つの月に照らされて思いの外に明るい。しかしそれだけで足元を精確に把握出来るほどでは無く、何かしらの光源は必須の状況ではあったが、ユーナの持つ息吹灯(いぶきとう)が青い燐光を四方に放ち足元を照らしていた。闇夜に隠れていた樹の根が浮かび上がり、アリスはそれに足を引っかけない様に進んだ。
明かりを持つユーナが先頭を飛び、その後ろにフィヤ、アリスと続く。風は凪いでいて木々のざわめきは無く、代わりに夜の虫達の鳴き声、動物と思しき鳴き声が時折遠くで響き渡る。
他にはアリスが草木を踏む音だけの、森閑とした雰囲気で満たされている。昼間の陽の熱を失った大気は涼しく、歩く度にアリスの肌を撫でていた。
その状態が時間にすれば十分程度は続いただろう。黙々と歩き続ける状態を破ったのは、フィヤだった。
「よろしければ、ですけれども。アリス様はどの様な生活をなされていたのですか?」
フィヤの疑問に、ユーナも同調して話に乗る。
「あっ、それ私も気になる。向こうの世界は数日飛び回ったけど、人間がどんな生活をしているのかよく解んなかった」
二人の妖精は飛びながらも器用に身体を傾け、前方に注意を向けつつもアリスの方を振り向いていた。
一方、突然に話を振られたアリスは戸惑う。
「えっと……普通の学生、なんだけど」
それ以外に何と言えばいいのか。返答に窮する。
この世界の標準が判らないと言うのもある。特に、森の周囲にあると言う人族の国がどういったものなのか見当が付かない。この場に妖精が居る事からの連想で、アリスの中のイメージとしてはファンタジーものに分類される創作物の世界観だ。だが、もしかしたら近未来的な国かもしれない。あるいは、もっと奇想天外な生活様式なのかもしれない。
しかし、それならばユーナが何かしらの大きな違いを喋っているのではないだろうか。そう思い直して、取り敢えず身の回りの生活と呼べるであろう事柄についてぽつりぽつりと語り始める。
「そうだなぁ。平日は学校に行って、休みの日は友達と遊んだり買い物したり、家で適当に過ごして。夜は家に帰って」
「アリスの世界の建物、凄く大きいんだよ。砦やお城みたいな建物が一杯あった」
「まぁ!」
「学校とかは大きい建物だけど、わたしの家は普通の小さい建物だよ。子供の頃は引っ越しも多かったから、住んでいた家も中古のもので」
「引っ越し……集落や国で何かあったのですか? それとも採取場が変わったとか」
フィヤの言葉に少々頭を抱えそうになる。認識の違いが大きい。妖精には集まる者、飛び回る者に大別出来るそうだが、その差も大きいのかもしれない。
「いや、えっと、お父さんのお仕事の都合だったかな。お父さんの配置……働く場所が何回か変わったから、それに合わせて引っ越しをしてたんだ。わたしが大きくなったら引っ越しはしなくなったけど」
アリスの父はジェット戦闘機のパイロットである。月や、地球を取り巻く月の破片が形成する『地球の環』から飛来する、攻性突入天体と呼ばれる隕石の一種を迎撃する事を専門とする部隊に所属している。その部隊の特殊性もあるが、様々な理由で日本各地を転々とする事になった。
かつてはいわゆる転勤族と呼ばれる生活であったが、アリスが中学生になってからは今朝まで住んでいた家で暮らし続ける事になった。父は単身赴任で各地へと赴いている。各地の時季折々の手紙を通して家族は繋がっていた。
「そっか。もう手紙、来ないんだ」
「手紙ですか?」
「ううん、なんでもない」
再び身体の奥底から感情が漏れ出そうになったのを抑える。
「それで、お父さんは色々な所に行って働いてて、わたしは学校、お母さんは家庭の事をしていて。そういう生活だった」
「アリス様は学問の道を探求していらっしゃるのですね」
「へ? そんな大層なものじゃないよ。義務教育ってのがあって、その後にどうするかって時に、皆高校に行くから、わたしも地元の高校を受験しただけで。何か学問を修めようとか、そういうのじゃなくて。うーんと」
「まぁ……アリス様の世界は学校が豊富にあるのですね。素晴らしい事です」
「わたしの住んでいた国では、かな。そうじゃない国もあったし、もっと学校が一杯ある国もあったんだと思う。わたしは、えっと、そういう事をちゃんと勉強してなかった。だから上手く答えられないかな……ごめんね」
「謝る事はありません。私も森の外を知りませんから」
アリスの中でモヤモヤとしたものが膨れ上がる。聞かれると解らない。答える事が出来ない。自分が受けていた教育を、自分は学んでいたか。
下唇をわずかに噛む。今となっては知る事も、戻る事も出来ないのだ。
「あ、そう言えばアリスって」
自問自答で考えが纏まらないでいた所を、ユーナが思い出したかのように問う。アリスは顔を上げた。いつまにか俯いていたらしい。
「もう成人してるの? あの学校、コウコウって所にはアリスと同じ位の人間が沢山居たと思うんだけど、全員学生なの?」
「ん、えっとね、高校に居た人達は殆ど学生と先生達だよ。近い歳の人は皆、学生。あとまだ成人じゃないよ。お酒とかも飲めない」
「え? お酒と成人って何かあるの?」
「え?」
「あら?」
「これは……。あのね、わたしの国だと十八歳になると成人で、お酒とかは旧成人年齢の二十歳からなんだよ」
ユーナとフィヤが顔を見合わせた。ユーナが不思議そうな顔でアリスに問う。
「お酒を飲む年齢が決められてるんだ?」
続いてフィヤが、思い出したかのように呟く。
「まぁ。そう言えば東のズリヴスン王国もそうだったかしら」
文化や習慣の違いがこんな所にもあるのかと、アリスは自分がこの世界にとって異邦人である事を改めて認識した。
と同時に、目前の二人の小さな存在がお酒を飲み酩酊する姿を想像してみようとしたのだが、全く思い浮かばず困惑の表情を浮かべる事になった。
「ユーナとフィヤってお酒飲むの? って言うか妖精ってお酒飲むの?」
「私は酔うと飛べなくなるから全然飲まないけど、妖精は飲めると思ったら飲むよ。あと成人とかもあんまりちゃんと決まってない。フィヤは結構お酒飲むよね」
「私は宴の席に呼ばれた時や、相手が飲む時にお付き合いします。ああ、今向かっている家にはお酒があるはずですよ。オエゴーエブ様はよくお酒を楽しまれている方でしたから」
「それは、どうしたらいいんだろ……」
元の国の法律が及ばぬ場所ではあるが、アリスには酒に対する興味は無かった。料理などが得意であれば活用方法も見出せたのかもしれないが、手に余る品である。
悩んだ様子のアリスを見て、フィヤが思い付いた事を口にした。
「でしたら、近くに住む他の妖精に振舞いましょう。そうすれば当面の生活を皆で喜んで手助けしてくれる事でしょうから」
それだ、とユーナが呟きつつ、小さく手を叩く。
「フィヤが来てくれて正解だったね。そうだそうだ、宴とかを開こう。皆すぐに仲良くしてくれるよ」
「宴会かぁ……」
父と母、それぞれの祖父母が集まった時の賑やかな様子がアリスの記憶の奥底にはあった。まだ幼少の頃の話であり、はっきりとした記憶はなく朧気ではある。それでも、宴会という言葉から生み出されるイメージを膨らませるには十分だった。
これからの生活の事を何も考える事が出来ず、ただ漠然とした意識のままに歩いていたアリスであったが、少なくとも今は、ユーナとフィヤと、そして周囲の妖精達と共に楽しく席を囲む様子が淡く描かれていた。
靴を脱いで休んだ後の、当面の目標はそれにしようか、そんな事を考えながらアリスは歩んでいた。
◆
「……ん?」
更に二十分程、歩いていたアリスが急にふと立ち止まる。先頭を飛んでいたユーナとフィヤもその場に静止し、ユーナの持つ息吹灯の光がふらふらと揺らめき周囲を照らす。
「どうしたのアリス?」
ユーナの問い掛けに、アリスは小首を傾げつつ片手を少し上げて無言の返答をする。目線だけを左右に動かし、耳を澄ませる。
その様子を見て疑問に思ったユーナとフィヤが周囲を見渡すが、特に異常は見当たらなかった。数秒の無音の静寂が続く。
「……気のせい、かな」
「アリス?」
「アリス様?」
「ごめん、何か今、揺れた様な気がして」
二人の妖精はきょとんとした表情のまま再び周囲の様子を探った。
当然ながら、翅で宙に浮いている二人には地面の揺れは感じ取れない。しかし音ならば聞ける。揺れた木々の葉の音や、動物の声などを聞き取れるはずだった。
それでも異常は感じられなかった。虫の音は囁き、涼しい空気が木々の間に揺蕩っている。
「気のせいだったかな」
地震大国とまで言われた国に住んでいたアリスである。地震に関しては鋭敏だが、過剰な所があるのも事実だ。実際に地面が揺れていなくても、足元の感触を誤認して身体の揺れを周囲の揺れと勘違いしてしまう事も十分に在り得る事であった。
左手で耳元と髪を触る。疑問に思った時のアリスの癖だった。その手を戻して、二人の妖精の方へと向きを正した。
「えっと、ごめん。何の話だっけ。勉強の事?」
はい、とフィヤが答える。
「アリス様がどんな事を学んでいたのか、興味があるのです。この世界の学び舎とは違う事を学んでいらっしゃるのではないかと思いまして」
「うーん、そうだなぁ……。勉強の内容は違うと思うけど、やってる事はあんまり変わらないんじゃないかな」
アリスは右手で指折り、日常の中にあった教科を思い描く。
「言葉の勉強で国語と、英語って言う外国の言葉、数学、科学、社会の事とか。運動もするし、音楽の授業もあるよ」
次々と上がる勉学の種類の多さに、フィヤが感嘆の声を上げた。
「まぁ……。素敵です、一つの学び舎でそんなにも沢山の事を学べるなんて」
「そう言われると心苦しい所があるかな……。わたしはあんまり成績良くない方だったから」
がっくりと肩を下ろしているアリスの様子を見て、ユーナが面白そうに笑って話を拾う。
「フィヤは器用だから勉強するとすぐ覚えちゃうんだよ。学生だからって勉強が上手な訳じゃないって事だよね」
「上手では無かったと思うかなー。サボってた訳ではないんだけど」
「サボ? まぁいいや、それで、アリスは何が得意だった?」
「国語は人並みに出来たと思うけど、外国語が全然駄目で、からかわれる事もあったよ。そうだなぁ、得意な事。得意な事か」
国語、英語と科目を再び指折り数えていく。不得手なのが英語なのは間違いない。アリスは生まれも育ちも日本で、海外への渡航経験も全く無い。
だが、アリスの容姿や、藤宮マリークラリッサと言う苗字から、どうしても他人からは英語が堪能だと思われてしまう。そんな事は一切無いのだ。
父は仕事上英語を使うが、少ない休日の時間を可能な限りアリスと共に過ごそうとしていたからであろう、勉強に関して殆ど口を出してこなかった。母もまた同様で、勉強を見てくれた事はあるものの、積極的に学業以上の勉学を教えようとはしていなかった、とアリスは感じている。
それは決して教養に関しての意識が低かった訳では無いだろう。両親は共に、アリスがアリスとして選択してきたものを尊重してくれたのだろう、と今になっては思う。
だから、一時期どうしても父の仕事が気になって、航空機に関する本の類を購入し始めた頃も、目指すかもしれないその将来の可能性について何か口出しされる事は無かった。
航空機。
父の仕事から連想された、得意な事。それかもしれない。
決して仕事にするプロレベルでも無く、それどころかマニアと呼ばれる程度の知識量も無い。が、何も知らない人よりは知っている。
もし他人よりも何らかの知識で優れているものは何かと問われたら、アリスにとっては航空機に関する知識なのかもしれない。
「得意な事。学校で学ぶ事じゃなくて趣味の範囲なんだけど、飛行機とか」
「ヒコーキ?」
「ヒコウキ、ですか?」
耳慣れない言葉なのであろう。妖精二人がアリスの顔をじっと見る。それは何かと興味の視線を注いで、アリスの次の言葉を待つ。
「空を飛ぶ機械や乗り物だね。本当は航空機って言う分類……そこはいいか。例えば風船や浮袋を凄く大きくした物に、人が乗れる所と舵を付けた飛行船とか。あとグライダーって乗り物もあってね、鳥みたいな大きな翼を目一杯横に広げて、真ん中に人を乗せて、飛ぶ事が出来るんだよ。他にも翼が回転して飛ぶものもあるかな」
「え、凄い! 見たかったな」
「まぁ、空を飛ぶ乗り物ですか……」
「向こうの世界の物だから、実物は見せられないけどね。でもそうだ、下手だけど後で絵を描いてみるね。それで基本的な事なら説明出来る――」
アリスが立ち止まる。
目の前の森が開けていた。三人の前には僅かに木々が開けた楕円形の空間が広がる。見渡す限りで、学校のグラウンドに引かれた二〇〇メートルのトラック程度の空間だ。地面には背の低い草が覆っており、運動場として使うには良さそうな場所であった。
開けているが故に、月が良く見える。大小二つの青白い光を放つ月が広場を照らす。空の端には宙に浮いた岩と樹木の影が見えた。
ユーナとフィヤも、アリスが立ち止まった事に合わせてその場に静止した。二人の妖精は前を見ていたものの特に広場に対して思う所は無い様子で、ただ立ち止まったアリスを気にかけていた。
アリスは立ち止まっている。目は左右の様子を窺っている。細い眉を寄せて、眉間に小さく皺を作っていた。
右に振り向く。左に振り向く。見渡したのではない。音を聞こうとした。虫の音が無い。
それよりも先に両足が捉えた。
「――揺れてる」
「えっ」
二人の妖精のどちらが言葉に反応したのかは判らなかった。
広場になっている眼前の地面が高く跳ね上がり、噴火の如く舞い上がった。轟音を立てて吹き上がる地面の音はアリスと二人の妖精の声などいとも容易く遮り、静寂をその大音量で一気に塗り潰してしまう。
アリスは咄嗟に目の前に居た二人の妖精を両腕で抱え込み、直近の樹の幹にぶつかる勢いで地面を蹴って跳んだ。脇腹に痛みが走る。次の瞬間には額を地面に打ち付けた。
片目を開けて、ユーナとフィヤを確実に腕の中に抱え込んだ事を目視で確認したアリスは、身体を曲げて二人の妖精を身体全体で覆い隠す。そのまま強く目を瞑って、脇腹をぶつけた樹の幹の感触を頼りにその根元へと蹲り、両手で頭部を覆った。
どう、と重低音を響かせながら地面が吹き飛ぶ。もはやそれは爆発と言って差し支えない程の大噴出であり、跳ね上げられた土や石が木々を軽く飛び越えていた。そして、落下する。
妖精を抱えたアリスの頭上で、木々の葉や枝にぶつかり、破砕し自壊していく土塊や岩塊。そして地面に落着したそれらが巻き起こす断続的な轟音に、アリスの心が恐怖に染まる。
それでも、瞬時に妖精二人を抱え込み何かの陰に隠れたのは、日々隕石に脅かされる世界で育った故かもしれない。転校先の様々な学校で、教育施設で、時には公共施設で行われた、沁みついた避難訓練の経験が今こうしてアリス達の身を護った。
人の頭部とほぼ同じ大きさの岩が、枝にぶつかりわずかにずれて、アリスの真横の地面にめり込む。土砂が葉に勢いを殺されアリスの体躯に降り注ぐ。
それでも、その中においてアリスは怯え震えながらも、ひたすらに妖精と自身の身体を護り、身を縮こませていた。
それが十数秒は続いただろう。ぱらぱらと砂が葉や枝から落ちる音でアリスは肩を震わせたが、しかし轟音の類は既に無い。
一つの事しか考えられないでいた頭が、揺れが収まっている事を気付かせた。頭を覆っていた両手を少しずつ開き、目を薄っすらと開く。アリスの腕と身体が作る空間の中で、何事が起きたのか理解出来ずに硬直したのであろう、目を見開き驚愕の表情のまま固まるユーナと、両耳を塞ぎ強く目を瞑っているフィヤの姿があった。ユーナの横に放られた息吹灯の青い光が、二人の妖精が無事である様子をアリスの目に映す。
アリスは顔を上げようとして、頭から被った土が髪を伝い零れたので目を開けられなかった。はっと息を吐いて、手で一度頭の土を払う。
息を止めていた為に、意識が呼吸という行為を必要としたので、鼻から空気を吸い込んだ。冷涼としていた森の空気が身体の中に入るが、混ぜ返した土の匂いも強烈だった。思わず眉をひそめつつも顔を上げ、目を開く。
視界に飛び込んできた光景。アリスは思わず目の前にあったものを見上げる。
黒い竜が座していた。
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