10 死霊の少女

 元の世界に戻れるのか。

 それはこの森の中で目が覚めてからと言うもの、心の奥底から次々に沸いて出てきては見ない振りをしてきたものだ。

 あの時、ユーナに請われて自ら手を取り、自らの意思でユーナの願いに応えた。そこに強い覚悟や信念があったのかと言われれば解らない。視界が失われる直前に見た、胸に幾つものガラス片が突き刺さっている光景。朦朧とする意識。正常な状態では無かったのは確かだったが、それでもアリスはユーナに応えたのだ。

 だから、戻れるのか、そう聞いた事を後悔した。

 自分の意思でこの世界に来たと言うのに、こんなにも直ぐに怖気付いてしまうのか。唇を強く結ぶ。父と母の顔が何度も浮かぶ。普段の生活、日常の風景。胸に突き刺さるガラス片の光景も同じ様に。

 死の実感を強く得なかった事はアリスにとって救いであっただろう。それ故に、郷愁の想いは強く心を揺さぶる。

「それは」

 西の森の女王ピブルが言い淀む。

 その顔を見てみれば、眉尻を下げ、アリスから視線を逸らしている。胸元に置かれた小さな手が薄布のドレスを掴んでいた。

 その表情と仕草を見てアリスはおおよその事を理解してしまった。ユーナが言った、妖精には国が無いと言う言葉も思い起こされる。西の森の女王とは言うが、それは施政者の意味合いとしてではなく便宜上のものなのだろう。もし女王ならば、ここで全てを見透かされてしまう顔は出来ないのではないか。

「出来ません」

 言い終わるのを待ってからアリスは静かに息を吐いた。身体を張り詰めさせていた何かが一緒に抜けていくかの様な感覚。

 ピブルが逸らしていた視線を戻し、先を続けた。

「本来の星渡りならば、条件が揃えば元の世界へ戻る事も出来たのですが……」

「わたしが死霊だから、ですか?」

「はい。ユーナから話は聞き及んでいます。アリス様の世界にて何が起きたのかは我々には量り兼ねますが、少なくともアリス様が生者では無い以上、再びの星渡りには大きな危険を伴います」

「詳しく教えて下さい。わたしはどういう状態なのか、死霊とは何なのか。星渡りの事も。なぜ今の状態では危険なのか」

 アリスは少し身体を浮かせた。死霊とはどの様な状態なのかユーナから簡単な説明は受けている。曰く、妖精の魔法により魂の身体を形作り、この森の魔力によって維持しているものだと。

 ピブルはアリスの視線を今度は外す事無く説明を続けた。小さく艶やかな唇が動く。

「ではまず星渡りの術について説明致しましょう」

 星渡りの術。それは霊樹の森の妖精達に古くから伝わる大規模な魔術。魔法の源である魔力を大量に必要とし、かつ月と星の巡りが揃って初めて行使が出来るものであると言う。魔力が豊富に溢れた霊樹の森と言う特殊な立地においてすら行使に必要な魔力は足りず、月と星の巡りによって高まる魔力をして更に足りず、数十年と魔力を蓄積した様々な物品や魔法使いが力を注ぎ、それでも成功するのは稀なものだった。

 多大な労力をして成した星渡りの術は、対象をこの世界とその瞬間に最も縁の有る『近い』別の世界へと結んで渡る事を可能とする。そうして世界を渡った対象は、星渡りの術の効力が切れるか、あるいは渡った先の世界で星渡りの術と対になる帰還の魔法を使う事で引き戻される。その際に渡った者の力量等に応じて別の対象を持ち帰る、あるいは連れ帰る魔術。

「ですから、本来ならば時が経ち、機が熟せば星渡りを再び執り行う事が出来るのです」

 説明を続けていたピブルは一度言葉を切った。

 理解を確認していると気づき、アリスは小さく頷いた。

「しかし渡ってきたアリス様は魂だけの存在。異なるとは言え近い世界の人間であるのならば、残された肉体が朽ちるのはこちらの世界と同じで御座いましょう。帰るべき肉体が無ければ魂は彷徨う事になります。加えて、ユーナによればアリス様の世界は魔力が満ちていないのだとか。何らかの手段を講じなければ魂は形を保てず消えてしまいます」

 魂の形が保てず消えれば、それは今ここに在る自意識の消滅を意味する。再びの星渡りの危険性とは、言わば魂の死に繋がる事にあった。

「もし……何十年も身体を綺麗な状態で、内臓も腐らせずに残していたとしたらどうなりますか」

「それが可能であるのならば、戻れる可能性は否定出来ません。ただ、私が伝え聞いた限りではその様な前例はありませんし、魂の変質の有無なども関わるかと」

「いえ、ごめんなさい。わたしの世界にそこまでの……何より、わたしは」

 アリスは軽く首を横に振って、俯いた。肩口で切り揃えた淡い金髪が力無く揺れ、俯いた拍子に表情を隠す。

「わたしは……」

 校舎のどこかで大きな爆発があった。衝撃波に吹き飛ばされ、ガラス片が深々と身体に刺さり、意識が薄れていく事を経験した。そしてそれを自覚した。

 朝の出来事だ。まだ一日も経っていない。

 今まで実感していないが故に自覚していなかった事実をアリスはようやく認め、自覚し、認識した。

「死に、ました」

 藤宮マリークラリッサ アリスは死んだ。

 身体の内側から色々な感情が溢れた。それは死に瀕した恐怖であったり、納得がいかない事態への困惑であったり、どうにもならない理不尽さに対する怒りであったり、何よりも父と母にもう会えないと言う悲しみであった。

「わたしは――」

 言葉を続けようとしても色々な感情に呑み込まれてしまい、言葉を紡ぐ事は出来なかった。アリスの胸中に短くも長くも無い、しかし誰のものでもない、アリスには確実にあったはずの日々が思い出として泡の様に浮いては喉の奥に溜まり、浮いては目頭に溜まり、いつしかそれは涙と嗚咽となって零れていった。

 少女が泣く。

 妖精達は静かに、何も出来ずに、その嗚咽を聞き続けた。


   ◆


「ごめんなさい」

 泣き腫らした顔のアリスが肩を縮こませ、ばつの悪そうな顔で周囲を見渡す。

 時間にすれば十五分程であったが、しかしアリスにとっては何時間にも感じられる時間であった。一度泣いてしまうとタガが外れたのか、涙が堰を切って溢れ出したのだ。

 まだ完全に涙が止まった訳ではない。しかしアリスは袖で涙を拭うと、再び姿勢を正しピブルに顔を向けた。

「死とは悲しく、恐ろしいもの。親しい間柄の者の死に涙するのですから、それが自身の事となれば尚の事でしょう。誰にも咎められるものではありません」

「はい……」

 ピブルの言葉は正しいのだろう。死の危険に曝され泣く事を責められる事は無いであろうし、ましてや自身が死に至り、その死を悲しむなと言うのは無理がある。

 それでも、アリス本人の気質や、あるいは育った環境や文化がそうさせるのだろう、人前で泣くと言う行為に対する羞恥心が次第に色濃くなっていくのだ。

 それが話題の転換の切っ掛けを探させる。とにかく場の雰囲気を変えたかった。周囲の妖精達は、ユーナも、フィヤも、沈痛な面持ちでアリスを見守っている。

 ふと、引っ掛かりを感じて袖を見る。拭った涙が乾き切っておらず、薄っすらとではあるが、黒い生地の色合いをさらに深めている。ユーナと共にここまで歩いてきた時間を思い返す。例えば汗。疲れで息が上がる。ユーナが目的の方角を知る魔法を使った小川での、足先に感じた水の冷たさ。その水が足で跳ねて分かれ流れゆく様子。そして衣類。

「その、ごめんなさい、話を戻しますけど」

 アリスは両手を開いてじっと見つめた後、右手で制服の肩の辺りを触り軽く摘まんだ。生地が引っ張られ、指を離すとぴんと戻る。

「わたしは死霊で、幽霊みたいなものだ、って言うのは何となく理解してます。ユーナからある程度は説明も受けて……でも、本当に身体がそのままあるみたいですし、汗も涙も出ます。制服、服もそのままです。靴を脱ぐ事も出来たので、魂だけと言う割にはやけにリアルって言うのか、えーと」

 言葉を詰まらせた。これも疑問に思っていた事である。また、星渡りの説明と共にピブルへと問いかけたものでもある。

 しかし、どうにも話を戻そうと意識が先走った感が強く、上手く言葉として紡ぐ事は適わなかった。

 ピブルはその様子を感じ取ったのか、軽く頷いてアリスの言葉に続けた。

「我々が死霊と呼ぶものについては何をもって死霊と区別するか曖昧な部分が多いのです。ですから、アリス様の現在の状態について判る全てをお話致します」

 死霊とは、本来ならば死亡し肉体と共に消滅するはずであった魂が、何らかの作用により魂のまま維持されているものを指すとピブルは説明した。

 アリスの場合は何が作用しているのかと言えば、それはユーナが星渡りから帰還する際に、死の淵にあったアリスの魂を保護し、存在を維持する魔法をかけた事に起因する。この保護と維持の魔法は星渡りの術に組み込まれているもので、持ち帰る対象を無事に連れ帰る為に用意されている。ユーナはそれを行使した。

 結果としてアリスの魂は人の形に維持され、物質に作用する事が出来る者として物理的に存在している。

 続いて、霊樹の森の魔力が関わる。

 ほとんどの死霊はそのままでは魂を維持出来ず、死による絶望や執念等の強い意識によって辛うじて存在を保つ。それ故に生前の形から大きく離れ、歪み、他を害する存在となるものが多い。

 だがアリスの場合は、霊樹の森の豊富な魔力がその魂に力を与え、形の維持を助ける役割を担った。それは妖精の肉体も同様であり、他の地域に比べてこの森に棲まう妖精は存在が強くあるのだと言う。

 アリスはしっかりと頷いた。これは小川でユーナから受けた説明をより詳細にしたものだったので混乱する事は無かった。アリスの魂は妖精の魔法により形を保たれ維持し、霊樹の森の魔力によって補強される。その認識で間違っていないと考え、なるほど、と小さく呟いた。

「最も重要なのはアリス様の意識です。例え同じ状況にある人間の死霊がこの場に居たとしても、アリス様と同等の身体を形作る事は出来ないでしょう」

「それは自分を自分だと強く意識しているから?」

「意識の拠り所は人それぞれですから一概には言えませんが、アリス様はご自身の身体について強く意識する部分があるご様子」

 アリスは指を唇に当てて、少し顎を引いた。思い当たる事は多い。

「わたしの居た世界の……わたしの住んでいた国は、髪の色や目の色が皆、大体同じなんです」

 黒山の人だかり、と言う表現がある。人々が多く集まっている様子を表現する言葉だが、黒山とは頭髪の黒さを示しているとされる。その様な表現がされる程に、アリスの国では黒い髪を持つ人が多い。

 人種、地理、歴史、様々な要因と背景があり、決して一言一括りには出来ないものではあったが、一定の身体的特徴を持つ人が大多数を占める環境であったのは間違いない。

「その中で、わたしの髪の色や、目の色、肌の色、あと背格好とか。他の人とは違っていて……お父さんもお母さんも色々な国の人の特徴があって」

 藤宮マリークラリッサ アリス。

 この名前をもう少し正確に表記する場合、藤宮・マリー=クラリッサ・アリスとなる。父と母と祖父母の持つ四種類の国の血は、アリスが『アリス』という名前を持ち、ミドルネームがある家名を齎した。しかし、戸籍の都合でミドルネームは登録されない為に、アリスの家族は『藤宮マリークラリッサ』姓となる。

 この姓名が珍しくなかったと言えば嘘になる。身体の特徴も併せて不愉快な思いをした事もあった。

「自分の身体も名前も、常に……意識していたと思います」

 口元にあった手を膝の上に戻し、青鈍(あおにび)の瞳で答える。

「今はそれを誇らしく思っています」

「アリス様がその誇りを失わない限り、魂はアリス様のままである事でしょう。多くの死霊が歪み狂いゆくのは自我の喪失に他なりませんから」

 確実な事は言えないが、しばらくの間はアリスが突如として消滅する心配はしなくてもよいのかもしれない。アリスの自意識がアリスの身体を意識していれば、死霊として魂の形は保たれる。十数年も付き合った自身の肉体の感覚を忘れる事は早々に無いであろう。

 アリスは納得して小さく頷く。

 目線を服の袖に向けた。涙を拭いた痕は既に乾いている。両手で服の肩辺りを摘まみ、軽く引っ張って、ピブルに対して問う。

「あの、では、服はどうなっているんですか? 靴も脱げるし、お腹も空きます。これも魂の一部なんでしょうか」

「その通りです。我々妖精も同様に、人族は皆、何かの服飾を身に纏いますでしょう? 衣服を身に纏わない文化や風習を持つ国もありますが、しかし飾らない人々は居ない」

 なるほど、とアリスは小さく手を合わせた。個人の趣味趣向となればともかく、確かに衣服を纏わない文化圏の人々は居ても、服飾品の類を全く何も身に付けない文化は稀だろう。

「獣が牙と毛皮を持つ様に、人族は服飾を纏います。魂もまた裸のままではありません。虚飾や虚栄、見栄、心をそのまま曝す事が無い様に、言葉も飾る様に、余程の事が無ければ人の魂の形は何かを纏った姿になるのです」

「魂の衣服……」

「そう捉えて頂ければ解り易いでしょう。魂は衣服を纏う。生まれたままの姿の死霊とは、私の知識の中にはありません」

 死の瞬間に着ていた衣服。毎日の様に着る学校の制服だからと言うのもあるだろう。あるいは、朝に身支度の為に姿見で衣服を纏った自分の姿を見たのもあるのかもしれない。

 となれば、ポケットの中にティッシュが入っていなかったのは、それは魂が纏っている衣服の一部では無いと言う事になる。思えば手にしていたはずの日直の仕事で手にしていた日誌ファイルの類も手にしてはいない。

 アリス自身が明確に意識している訳では無かったが、今の黒い生地のセーラー服を纏った姿が普段の生活におけるアリスの自意識、魂の衣服なのだ。

 きょろきょろと自らの纏う服の様子を見ているアリスに、ピブルが微笑む。

「少々慣れが必要だとは思いますが、魂が纏う衣服ですから望んだ服に変える事も出来るはずですよ。あるいは死霊の身体の上に普通の衣類を纏う事も出来ましょう」

「えっ」

 服を変えられる。思わずアリスは目を見開いた。

 この守護の樹に辿り着く道中、山の中をローファーで歩き続けた。決して向いている靴ではない。アリスの脳裏に母の登山道具の一つである登山靴が過る。

 アリスはユーナの方に振り向いた。そのまま正座している自身の足元を指で示す。

「えっ、ねぇユーナ、もしかしてわたしって途中で靴変えたり出来たの……? もっと歩き易い靴に……」

 突然に話を振られたユーナがたじろぐ。両手を振りつつ首を横に振り、必死に弁明する。

「へっ!? 知らなかった! 私、死霊の事あんまり知らないから! アリスの靴も歩き易さとか解らなくて、それにほら、私達飛ぶし!」

 言われてみればそうだ。ユーナはアリスの衣類について詳しく知る訳も無いし、靴を履かずに翅で飛ぶ妖精が他人の靴の歩き易さに気を留めろと言うのも無茶であろう。

 アリスはユーナの方を向きつつ、ぐったりと頭を傾けた。

 色々な事が起きた事もあり気にしない様にしていたものの、今の今までずっと足が痛かったのだ。

 その痛みが、とても大きな疲弊となってアリスの口から漏れた。

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