幕間 AEO・08、迎撃 I
七年前。二〇一四年の夏の頃だった。
当時まだ九歳だったアリスは、蒸し暑く寝苦しい夜の空気に眠りを妨げられ、浅い意識のままベッドの中でぼんやりとしながら身体を横たえていた。
そんな状態だったからか、ベッド脇のサイドテーブルから騒がしい警告音が鳴り響いても、どこか落ち着いた様子でシーツから這い出て大きく欠伸を一つしてから、けたたましく声を上げ続ける携帯端末を手に取った。ロック画面には大きな文字が表示されている。
天体落着特別警報。
気象庁から発令されたその警報は、『攻勢突入天体』と呼ばれる月の破片が地表へと降下し、かつ陸地に落ちる場合に発令される最上位の警報だった。
それだけでも一大事であるのだが、更なる情報が未だ寝ぼけ眼であったアリスを驚かせる。
携帯端末のディスプレイに描かれた警報の文字の下には、落着予想地点としてアリスの住む都市の名前があったのだ。
アリスの母が必死の形相で部屋に入ってきたのは直後だった。すぐさま着替えを終わらせると、常日頃から用意されている防災リュックを台所から持ち出し、母が登山の時に愛用しているLEDカンテラを片手にアリスの手を引いて家を飛び出した。
目的地はアリスの通う小学校だ。簡素なものではあるが体育館の地下に避難用のシェルターが備わっている。近隣の住人はそこへ避難する様に指示されていた。
アリスの母は、普段ならば決してしない強い力で手を握り、アリスを引っ張る様に早足で進んでいた。夜道を照らすLEDカンテラは母の真剣な表情を照らしている。普段とは違う雰囲気の母の様子を見て、ようやくアリスは今が非常時なのだと実感していた。
そして、同じくそれに気付いたかの様に、あるいは次第に避難所へ近付いたからなのか、次第に街中は騒がしくなっていた。泣き喚く子供を抱えた親子や、誰かと連絡を取りながら避難所へ向かう者。大通りの方には街から逃げ出そうと車を走らせる者も居た。
喧騒の夜の街を歩きながらアリスと母は小学校へと辿り着いた。その間、二人は一言も喋らなかった。
アリスの目が体育館の方へと向く。灯りが付けられ、それぞれの窓からは眩い光が溢れていた。体育館の入口には避難してきた人達が短い列を成している。アリスもその列に並び、母は教員に挨拶をし、入口に設置された読取機に携帯端末で個人番号を読み取らせ避難登録を済ませていた。
列が出来ている理由は危険物や爆発物の検査の為だ。教員が直方体の形状をした爆発物検知器の取手を掴みながら、一人ずつポケットや手荷物等を検査している。急速な国際化が進んだこの国が抱える問題の一つが、様々な人種や宗教が入り混じる事による不和や、通商摩擦に起因するテロ行為への対処だった。
しかしそれも見慣れた光景で、列を形成する者達も慣れた様子で検査を受け、体育館の中へ入っていく。アリスも簡単な検査を受けた後に、続いて中へと入って行った。
体育館の内部は明るかったが、それはあくまでも足元を照らす為の物だった。他の教員に誘導され、用具入れの隣に併設されている地下への階段を下りていく。体育館のどこか暖かい雰囲気とは打って変わって、コンクリートと白い蛍光灯の無機質な階段を下りる。
物々しい防火扉を潜り、地下シェルターの内部へと入った。内部の光景を簡単に表すのならば、地下の駐車場と言った様相だろう。四方をコンクリートに囲まれ、低い天井には蛍光灯が等間隔で並び、頑強な構造を成す為の太い柱が並んでいた。その構造が、体育館の地下全体に続いている。
アリスは初めて見た光景にきょろきょろと周囲を見渡しつつ、クラスメイトや知っている顔が居ないかを探していたが、多くの避難者の中から探すのは困難だった。
壁際で教員が呼びかけを行い、床に敷く為のシートを配布していた。折り畳まれたシートの横には水や食料も置いてある。教員の後ろにある扉の中にはそれらの物資が備えられているのだろう。
母がシートを受け取ろうとして、アリスが前に出て両手を出した。自分も何かをしなくては、という気持ちが強かった。それを酌んでだろう、教員は身を屈め、折り畳まれたシートをアリスの両手にしっかりと手渡した。アリスが母の方に振り向く。母は笑顔で小さく頷き、そしてようやく母の歩く速度は普段のものになった。
落ち着ける場所を探した結果、アリスと母が座ったのは壁に設置されたテレビが見られる柱の傍らだった。僅かに弾力のあるシートの上に座り、柱に背を預けて一息をつく。それまで点けっぱなしにしていたLEDカンテラを消灯させ、ようやく両手が空いた母はアリスを抱きとめた。
「大丈夫だよアリス。きっと、お父さんがなんとかしてくれる」
そう言いながら、アリスの髪をくしゃりと撫でる。アリスはくすぐったそうにしていたが、しかし情報を発信し続けるテレビから目を離す事が出来なかった。
――お父さんがなんとかしてくれる。
アリスの父は戦闘機のパイロットだ。隕石と言っても差し支えの無い月の破片から人々や街を護る為に、鋼鉄の翼を操り力強く空の高みへと飛ぶ。
それは、地球に落着する月の破片『攻勢突入天体』を迎撃する専門の部隊に所属する事を意味していた。
◆
攻勢突入天体。正式にはAggressive Entry Objectと表記され、その頭文字を取って『AEO』と略される。
先の大戦時に原因不明の爆発を起こした月。それから月は美しい円形を損ない、地球から見て左上側に、まるで猛獣にでも噛み千切られたかのような大きく哀れな欠けを残してしまっている。
爆発によって吹き飛んだ破片は未だに軌道上に残り続け、太陽の角度や気象状況によっては、地球をぐるりと取り巻く光の粒で構成された輪が地表からも見える程である。
こうなってしまった原因は半世紀が経ってなお、未だに解らないままだった。
ただ、確実な事実として、軌道上に月の破片が残った事。そして、その破片が地球に向けて軌道を変え、落着する場合があると言う事だ。軌道上にあった破片がお互いにぶつかり合い、軌道を変え、地球への落着コースを取る物がその大半で、これらは全世界の様々な観測機器によって監視されている。
しかし、そうでないものがある。予測されえない軌道変更により、突如として地球への落着コースを取り始め、本来予測されていた軌道を離れる破片が存在する事が知られている。それに止まらず、軌道を離れた後もより地球に近付く為の不可解な軌道変更すら行う、まるで地球に対して攻勢を示すかの様な天体。これを攻勢突入天体(AEO)と呼ぶ。
異常な軌道を取る天体の原理としては、月の爆発の原因と考えられているガスが内部に生成されて噴出しているか、あるいはガスの圧力や地球の引力により天体そのものが破裂する事で軌道を変えているのではと考えられている。もしくは、天体に含まれる磁性体と地磁気が影響しているとも。
どちらにしても、破片の軌道はこれまで知られていた月の推定内部構造からは考え難いものであるのは確かで、世界中で研究がされているが大きな発見には至っていない。それが、一般的に多くの者が知り得る現状だった。
そして、その現実的な問題として現状に対応しなくてはいけない。攻勢突入天体がもし地上に、都市部に落着すれば、天体の大きさにもよるが甚大な被害を生み出すのは確実だった。
空から降る星、そんな途方もない災害に対して、国際的な防衛システムが作り上げられた。
防衛システムに参入している各国からの観測情報により、地上に落着する軌道を取り始めた天体に対しては番号が付けられ、迎撃目標として各国で情報を共有される。
目標決定後、攻勢突入天体迎撃第一フェイズが発動する。地上からの星間対隕石ミサイル(ISAMM)による宇宙空間での破壊である。地球の自転や月の公転が関わってくる為、迎撃に最適な状況にある国は限られるが、その中から迎撃が可能な国がミサイルを発射し、目標が低軌道に到達するまでにこれを破壊する。
第二フェイズは、主に第一フェイズで破壊した天体の破片の中から、なお危険であると判断された小型の天体を迎撃する。あるいは、何らかの要因によって第一フェイズで迎撃出来なかった場合もこのフェイズに移行し、低軌道を周回している宇宙ステーション及びミサイル攻撃衛星からのミサイル攻撃によって、目標となる天体を破壊する。
基本的には、この第二フェイズまでにほぼ全ての目標は迎撃される。とは言え、ミサイル攻撃衛星や宇宙ステーションも、未だに網の目と言えるほどの防衛網を形成してはいない。これだけの迎撃能力を用意してなお、稀にだが防衛網を突破する天体が存在する。
その迎撃の為にあるのが第三フェイズである。最終的に大気圏に突入する事が判明した天体を、落着予想範囲内までに展開している対空ミサイル及び航空機による対隕石ミサイル(AMM)によって破壊する。
この第三フェイズが実質的な最終手段であり、アリスの父が所属する戦闘機部隊が組み込まれている部分であった。
地下シェルターの壁にかけられたテレビが、攻勢突入天体に関する情報を映し出している。テロップには「AEO迎撃第一フェイズ失敗」の文字が映し出されていた。
その情報を理解した者達の顔が青褪めている。この様な光景は、この街のあらゆる所で起きているのだろう。
アリスの母はと言えば、気丈にも迷いの無い目でテレビを見つめていた。アリスを左手で抱きとめつつ、右手はアリスの小さな手を包んでいた。
ニュースキャスターの横で、専門家と称する人物が解説を続けている。
「――この様に、月軌道から離脱した攻勢突入天体八号、AEO・08ですが、月の破片が密集している地帯で他の破片にぶつかりながら地球へと接近してきました」
急ぎ用意されたのであろう模式図が描かれたフリップを指差しながら、専門家が続ける。
「これにより何度も軌道変更が行われ、最終的な落着予想地点を絞り込むのに非常に時間がかかったのです」
それに対し、ニュースキャスターが質問を投げかける。画面下部のテロップが切り替わり、落着予想地点と周辺被害が予想される区域が表示され、避難を呼びかける文言が並ぶ。
「では、先程の迎撃第一フェイズ失敗は何が要因となったのでしょうか」
「はい。迎撃目標のAEO・08ですが、何度も他の天体と衝突した為に脆くなっていた可能性が非常に高いと思われます。そこに地球の引力によって引っ張られる、もしくは他の天体との衝突時に強い回転が加わり、ミサイルが当たる前に割れて、分裂した小さな破片の方にミサイルが命中し迎撃は失敗したと考えられます。過去にも同様の例があり――」
番組内で解説が続けられる様子を、周囲の人物達は釘付けになったように見ている。あるいは、それしか出来る事が無いのだ。いつのまにかテレビの周囲には多くの避難者達が集まっていた。
無論、全員がそうではない。壁際で不安そうに天井を眺める者、周囲の状況に困惑して泣き出す子供をあやす親。未だに増える避難者を受け入れ、シートや飲み物を渡す教員。それぞれが、それぞれに過ごしている。
アリスにはテレビからもたらされる情報が上手く理解出来ない。ただ漠然と、落ちてくる星を止められなかったのだと認識していた。だとすれば、父はどうしているのか。落ちてくる星をやっつけるのが、父の仕事なのではないか。
アリスは困惑を胸に、母の顔を見た。
母は腕時計を見ていた。周囲の様子から切り離された様に、ただ腕時計を睨む。十秒、三十秒……二分程が経って、母が呟いた。
「迎撃第二フェイズ、ここまでのはず」
そしてテレビへと顔を向けた。アリスも真似て、テレビを見る。
解説が続く。だが、キャスターの横に突然、別紙が送られた。緊急速報の耳に残る音がテレビから発せられる。キャスターが息を呑んだ様な表情を見せた、気がした。そのまま言葉を続ける。
「ただ今入りました情報です、迎撃第二フェイズは失敗。繰り返します。迎撃第二フェイズは失敗――」
どよめきが巻き起こる。起こり得る災害がより確かなものになった瞬間、場の空気は乱れ、膨れ上がった不安が頂点に達していく。
それでも、瀬戸際の所で不安が破裂してしまう事は無かった。
迎撃はあと一段階が残っているのだ。
「ねぇ、アリス」
母が、テレビの画面を見ながら囁いた。
「お父さんが飛んだよ。もう、大丈夫」
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