09 西の森の女王
森の木々が茜色に染められている。陰りを纏った雲は紫色に。赤い太陽の反対側の空は夜の装いを見せていた。木々の隙間から見える空に浮く樹木も茜色に照らされ、陰を纏い、空模様として溶けていく。
アリスとユーナがこの森に着いてから六時間以上は経っただろう。途中で休憩を多く挟んではいたが、森の中を歩くには向かないローファーは確実にアリスの足へダメージを蓄積しており、足取りを重いものとしていた。二人の妖精にも疲れが見え始めている。
アリスが立ち止まり前屈みになる。両手を膝の上に置いて、大きく息を吐いて呼吸を整える。道中で飲んだ水飴草の蜜は腹持ちが良く空腹感は余り無いものの、喉の渇きが深刻になり始めている。額の汗を袖で拭って大きく深呼吸をした。
「見えたよ! 女王様の守護の樹!」
ユーナが森の奥を指差しながら振り向く。
示された方角を見てみれば、確かに木々の葉の隙間から巨木が見える。アリスが目を細めて巨木を眺める。
「あれが……え、大きくない?」
遠目なので詳しくは解らないが、巨木の高さは十五メートル程はある様に見える。ちょっとしたデパートと同じ位の高さだと、アリスは記憶の中にある物と比較した。
「森の中心にある霊樹はもっと大きいと聞きます。月にまで届いている、なんて噂もあるくらいですから」
フィヤが冗談めかして言った。流石に月まで届く事は無いだろうが、しかしそれ程までに巨大な樹がまだあるのだと言う。
「ほんとファンタジーだなぁ……」
「さあアリス、もうちょっとだよ、頑張って!」
「はぁい」
張った足首を軽く揉んで、再び深呼吸をしてアリスは歩き出した。
それからは今までと随分違う光景を目にする事となる。
守護の樹に近づく度に視界の端に妖精を捉える事が多くなった。木々の合間に羽ばたく者もあれば、足元の草花の隙間から顔を覗かせる者。何処に居るかは様々であり、目が合うと逃げる様に隠れる者、興味深そうにじっと見つめる者、その行動も様々であった。
更に近付くと、今度は囁き声が聞こえる。
――あれは誰だろう。
――ユーナが戻ってきたよ。
――新しい騎士様かな。
声を潜めて囁いている訳では無さそうであったが、しかしその声達は不思議と木々のざわめきにも似た微かなものとして聞こえる。逆に言えば、ユーナとフィヤの声がなぜかアリスには明瞭に聞こえている、という事になる。
それもまた、何らかの魔法が関わっているのだろうか、と疑問を膨らませつつ、アリスは周囲の妖精を物珍しく観察しながら歩む。
とにかく色々な種類の妖精が居る。髪の色、肌の色、体格、正しく十人十色である。地球では見かけないような髪色の者も多く、それが地毛なのか、何らかの染料で染めているのかは判らないが多種多様であるのは事実だ。
翅の形状もまた様々だが、昆虫のものに近い形態を持つ者が大多数である。ユーナの厚みのある翅を持つ者は少なくともアリスには見つけられなかった。
ちろちろと視界に入る妖精達を見て、アリスがはっとした顔で言った。
「あ、そっか、集まる者か。守護の樹が近いから集落が多いのかな?」
「そうだよー。この辺りに居るのは大体が集まる子達」
なるほど、とアリスが呟く。前方にある木の枝の上に居た妖精が手を振っていたので、小さく手を振り返した。
視線を戻すと、三人の前に濃い藍色の長い髪を持つ妖精が飛んで入った。トンボの翅に似た透明な翅を忙しなく羽ばたかせている。
「ユーナー、おかえりー。フィヤもおかえりー。この人が新しい騎士様ー?」
藍色の髪の妖精が尋ねる。ユーナとアリスの顔をきょろきょろと交互に見比べている。
それに対して、ユーナは少し困った様な笑顔で答えた。
「んー、騎士様じゃないかも。女王様と話し合ってからかなぁ」
「そっかー。後で星渡りの話聞かせてねー」
「いいよー」
どうしても妖精の身体が小さいだけに、子供同士が話し合っている様で微笑ましい。フィヤの方はと見てみれば、更に違う妖精が傍に付いて何やら談笑している。
ユーナもフィヤも気質は飛び回る者であり、色々な所に行こうとする性質であるそうだが、二人とも拠点はこの周辺なのであろう。顔馴染みである様子の妖精達が代わる代わるやってきては、ユーナかフィヤに何やら話しかけ、そして大半がアリスを興味深く見つめていく。
アリスに直接話しかける妖精もあったが、大半が挨拶程度で、まだ様子を窺っている状態なのだろう。
妖精にとって人間は「危険なだけの存在ではないと知っている」というものとフィヤが言っていた。となれば、アリス個人はまだ危険な存在かどうかは判別が付かないのだろう。警戒心と好奇心がどちらに寄るか、と言った所なのかもしれない。
そうして妖精達に観察されつつ、またアリスも妖精達を観察しつつ、気付けば守護の樹の前にまで辿り着いた。
その一帯だけ他の樹が避ける様に空間が開いており、その中央には幹の直径が五メートル以上はありそうな巨木が鎮座する。夕日の赤に照らされた巨木はまるで壁の様だが、不思議と圧迫感や威圧感は無い。
「神社の御神木みたい」
ふと呟いた感想をユーナが拾う。
「ジンジャ? ゴシンボク?」
「う。説明が難しい……。綺麗な樹だなぁって意味だと思って」
妖精達の文化に無い言葉は通じないようだ。言葉に関しての疑問もまだまだ多い。
さて、と言いつつフィヤが地面に降りる。気付けば三人は巨木の根元に立っていた。
その先には巨木の根が分けられ、屈めば大人も入れそうな隙間があった。中からは仄かに明かりが漏れており、ただの洞(うろ)では無い事を示している。
「ユーナは星渡りの結果とアリス様の事を報告するのですよね?」
「うん。っと。ふう、疲れた」
続いてユーナも地面に降りる。翅を一度震わせると小さな青白い光が舞った。振り返ってアリスを見上げる。
「じゃあ女王様に報告してくるね。アリスも呼ばれると思うからちょっと待ってて。フィヤは付いてきてくれる? 呪猖(じゅしょう)と遭った時とかの説明をしてくれると助かるかも」
「勿論。構いませんよ」
「ねぇ、ユーナ、フィヤ、わたしってこの樹の中に入れる?」
「大丈夫ですよ。守護の樹の中は体格の良い人間の方も入れますから、アリス様ならばさほど窮屈な思いはしないかと」
「じゃあアリス、ちょっと待っててね」
ユーナは手を振りながら、フィヤは服の裾を軽く正しアリスに一礼してから樹の中に入って行く。アリスは二人に手を振って見送ると、ふうと息をついて座り込んだ。根の周りは苔と背の低い草が生えており、直接地面が見えている場所は少ない。座る場所には困らなかった。
夕日の赤が増している。じきに沈み切って、夜になるのだろう。
――まだ一日も経っていない。
朝に家を出て、学校でユーナを見かけ、何かの爆発に巻き込まれて……恐らく死んだ。そしてユーナによってこの大森林に魂だけ連れてこられて、今こうして妖精の女王の元にまで来た。
死の実感は未だ無い。実感と言うものは物事を振り返って初めて得られるものだ。様々な事が一遍に起きた為に、まだ何も振り返れていない。
だからこうして座って休んでいると、ふつふつと今日の出来事を振り返ってしまう。自分は死んだ。魂だけがここにある。ならば、元の世界での自分はどうなったのか。
考えるまでも無い。死んだのだ。
実感が伴わない。だが、それを父と母はどう思うだろうか。そう考えた瞬間に心臓が締め付けられる思いがした。息を吸って、身体の中を空気で張り巡らせる。そうしないと隙間から、目から、何かが零れそうになってしまう。実感に自分が圧し潰されそうになる。
いつの間にか俯いていた顔を、上げた。
アリスの足元に小さな妖精が二人居た。まだ幼さの残るユーナよりも更に幼く見える。妖精の子供と言うと妙な気もするが、恐らく子供なのだろう。
「こ、こんにちは」
妖精の片方が恐る恐るといった様子で挨拶をした。
わざわざ怖がらせたり悲しませたりする必要も無いだろう。アリスは服の袖で顔を拭うと、笑顔を作って応えた。
「こんにちは。わたしはアリス。あなた達の名前を教えてくれる?」
◆
「アリスー、女王様が呼んで……うわっ?」
樹の根の出入り口から歩いて出てきたユーナは、アリスを呼ぶなり驚いた。
座っているアリスの頭、肩、両手の上、膝の上、至る所に幼い妖精達が思い思いの格好で座っていたのだ。ざっと見ても十数人が居るだろう。
「その子達どうしたの」
「何でだろうね……。話をしてたら懐いてきたみたいで」
「ほら退いた退いたー。女王様に呼ばれてるんだってばー」
ユーナが翅を広げ飛び立つと、せっせと幼い妖精達を引き摺り下ろしていく。その度にわーきゃーと声が上がり、それぞれがどこかへと飛び立っていった。母親か、あるいは姉代わりか、成熟した雰囲気を持つ妖精の元へ戻る者も居た。
アリスから妖精達が離れた後、念の為に身体や足回りを確認して、誰も居ない事を確かめ、膝立ちになる。
巨木の根元へと近づいて根の隙間の空間を覗き込んだ。横幅も縦幅も、大人一人が難なく通れるほどの穴が続いている。奥からは淡い光が漏れているが、途中で右に曲がっているらしく全てを窺う事は出来なかった。
途中の根の壁に小さな照明が点々と灯り、天井と足元を照らしている。暗闇に慣れてきた目がようやく見つけたもので、明るい時に入口を覗き込んでも判らない程度の照明だった。
天井に頭をぶつけない様に注意して立ち上がってみれば、アリスの背丈ならば問題無く通れる通路だと判る。
「この先に行けばいいの?」
「うん。女王様が待ってる。付いてきて」
ユーナが飛び立ちアリスの顔の高さまで飛ぶ。そのまま、すっと穴の中に入ってしまったので、アリスも穴の中へ進む。壁の根に手を当ててみると想像とは違って温かい。そのまま手を壁に付きながら通路を歩き、右へと湾曲している道を進んだ。
丁度、顔の位置に小さな照明があったので目を凝らして見てみれば、それは鉱石の様な物が光を放っているものだった。明るさ自体は豆電球よりも少し明るい程度だったが、鉱石による光の屈折の所為なのか、天井と床の方向を綺麗に照らしている。
照明から視線を外し、先導するユーナの後に続く。右に弧を描いていた通路は樹の外周のおおよそ四分の一、と言った程度の位置で終わっている。アリスの眼前には通路の天井から床までを覆う、蔓草と細長い薄布が垂れ下がっている。隙間や布を通して内部の光が漏れ、通路まで照らしていた。
蔓草と薄布をどのような仕草で除ければ良いのか、妖精の女王への礼儀とは何かとアリスが躊躇った所で、ユーナが眼前の布を両手で無造作に退かした。
「この先だよ。入ってきてー」
ユーナの姿が薄布で見えなくなると、アリスは思い切って布に手をかけて潜った。内部の明るさに少し目を細める。
内部は広い空間になっていた。巨木の幹の一部分が空間になっているのだろう。アリスが手を伸ばしても少々届かない位置に天井があり、照明の鉱石が空間全体を照らしていた。
壁は樹の材質そのままで、削り取ったのではなくこの形に成長したかの様にしか思えない自然さだった。
壁からはいくつもの半円状の板が伸びており、妖精が一人か二人程、様々な格好で立っていた。板には細やかな建付けの手すりまであり、身体を預けている妖精も居る。中でもアリスの胸元の位置にある板は、最も精緻な装飾細工で飾られ、天蓋まで備わっていた。
そして、そこに立つ妖精が西の森の女王なのだろう。その身に纏う象牙色の薄布には、金糸の刺繍で草花が描かれ、それを重ねてドレスにしている。薄い金色の髪も刺繍糸の様なきめ細かなもので、腰まで伸びているが重さを感じさせない。美しい睫毛に、切れ長の目、琥珀色の瞳。透明な二対の翅が垂れ下がり、服飾の一部であるかの様に優美なシルエットを形作る。
ユーナやフィヤとは違った、高貴さを感じさせる妖精だった。
その姿にしばし目を奪われたアリスであったが、ユーナが横にあった板に降り立って座ったのを見て、釣られる形で座ろうとし、一度姿勢を整えて正座した。顔より少しばかり高い位置に女王が立ち、アリスを見下ろす形になった。
静まり返った所で、女王が口を開いた。流麗な声は竪琴を爪弾いたようだった。
「私は霊樹の森、西の森の女王ピブル・ヴァンユ・アスジブファーユ。ようこそ星渡りの旅人アリス様」
女王ピブルが薄布のドレスの裾を広げ、腰を落として礼をする。
所作をまじまじと見ていたアリスは、顔を上げた女王ピブルと目が合って慌てて頭を下げた。
「はっ。初めまして! 藤宮マリークラリッサ アリスです……じゃなくて、申します。名前がアリスで、藤宮マリークラリッサが家名です」
「まぁ、顔をお上げになって。そんなに畏まらないで下さいまし」
アリスが言われるままに顔を上げると、女王ピブルは口元に手を当て、柔和な笑顔を浮かべていた。
「えっと、それじゃ、はい……。初めまして。アリスです」
アリスは肩の力を抜いた。背筋を正して正座しているのは崩さないが、女王という言葉の印象から抱いていた厳かな雰囲気は余り感じられず、多少気が楽になったのだ。
最も、妖精の女王なるものがどれ程の立ち位置にあるものなのかは未だ明瞭にはなっていない。失礼が無い様にと、しっかりと向き合った。
「ある程度の事は先程ユーナから聞きました。アリス様、まずはユーナとフィヤを呪猖(じゅしょう)から護って頂き感謝致します。異界の方々のお力は恥ずかしながら詳しく存じませぬが、しかし勇敢な行動であった事でしょう」
「そんな、あれは、そういうものじゃ……」
ただ我武者羅になって後先を考えずに前へ出たのは、勇敢では無く蛮勇であろうと今のアリスは考えている。黒い花との戦いは、本当にたまたま上手くいっただけなのだ。
それを褒められるのは、素直に喜べずもどかしいものがあった。
「何か思う所があるのだろう事はお察しします。しかしユーナとフィヤが呪猖に遭いながらも生きて帰ってきたのは事実です。ですから、西の森の女王として礼を言うのです。どうか受け取って下さいませ」
「はっ、はい」
素直に受け止め切れないアリスは、頭を掻く素振りで首元に手を当てつつ頭を下げた。
ちらりと横を見ると、壁から伸びる板の上にユーナが座っている。姿勢こそ正してはいるものの、笑顔を崩さずリラックスしているように見える。目が合うとユーナは頷いた。それが何を意味するのかはよく解らない所だったが、しかし今の所問題は無いのだろう、と思えた。
顔を上げて周囲を軽く見渡す。天井まで様々な大きさの板が備え付けられているが、大半に妖精が座ってアリスと女王ピブルの様子を窺っている。中には皮鎧と思われる装備で身を固めている妖精も居る。女王の護衛なのかもしれない。
地面の近くの板にはフィヤが座っており、アリスの方を向きつつ目を伏せ小さく頭を下げていた。
再び女王ピブルと目を合わせるが、言葉に詰まった。それを察してなのか女王ピブルが右手を差し出し、アリスに語り掛ける。
「さて、アリス様。星渡りによる長旅、誠にお疲れの事でございましょう。只今お休み出来る場所を用意させておりますので今しばらくお待ち頂ければ幸いに御座いますが……」
女王ピブルはそこで一度言葉を切り、伸ばしていた手を胸元に置いた。
「星渡りの旅人、異界の住人ともなれば、恐らくお聞きになりたい事が多くある事でしょう。妖精の時間は緩やかに過ぎるもの。どうか我々の時間を気になさる事無く、我々が答えられる事を答えましょう」
何か聞く事は無いか、女王ピブルはそう言っているのだとアリスは理解した。
「えっ、と」
聞きたい事は多くあった。妖精の事、この森の事、呪猖の事、あるいはこの世界の事。もっと細々とした疑問ならば道中に幾つも沸いた。時間はあると言う。実際そうなのだろう。だから順番に聞けばいいはずだった。
守護の樹の中に入る前に押し留めた、身体の内側から色々なものが溢れてしまいそうな感覚が戻る。一瞬息が詰まりそうになる。
脳裏に父と母の顔が浮かんだ。
順番通りには聞けない。アリスは女王ピブルの目を見据えた。
「わたしは――元の世界に戻れますか」
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