07 小さな戦い
「呪猖(じゅしょう)だよ。あんな近く、気付かなかった……」
ユーナが呪猖の方を窺いながら応える。その声は緊張で張っている。木の幹に触れる小さな手が僅かばかり震えている様に見えるのは錯覚では無い。
「あれがジュショウ? その、なんだっけ、妖精とかこの森の生き物の敵だって言う……呪い、だっけ」
「その通りです。この森に根付く呪い。何かの形を模し、時には私達の想像も及ばない姿形を取る万化の呪い……。この森の全ての生命を絶やそうとする恐ろしきものです」
アリスの手の中で息を整えていたフィヤが説明を続ける。
「あの呪猖はとても小さなものです。ですが、あれ一体が自然に消滅するまでに妖精の集落一つを滅ぼす事が出来ると言われています」
「そんなに強いの……」
「アリス、アリス。さっきの奴は針みたいなのを飛ばしてきたでしょ? あれに当たったらアリスでも大怪我をすると思うけど、私達妖精だとどうなると思う?」
言われて、アリスはユーナとフィヤを交互に見比べた。二人とも手の平の中に納まってしまう程の小さな存在である。
そして、呪猖が飛ばしてきたであろう漆黒の針は同じく手の平ほどの長さを持つ。人間に換算すると、単純に考えても身長と同じ長さの鉄パイプが飛んでくるようなものだ。一発目は偶然避けたが、アリスの頭の位置を狙っていた。二発目と三発目はフィヤの胴体を射抜く位置であっただろう。狙いは正確。弾数は不明だが、もし限りが無いのだとしたら。
アリスが息を呑む。
「アリス、フィヤ、駄目だ、アイツずっとこっちを向いてるよ」
「どうしましょう。この辺りには虫鐘が無いみたい……。助けを呼べない」
「ど、どうすれば。わたし何か……」
がすん、と木に何かが刺さる音がした。
三人が硬直する。様子を見ていたユーナも既に木の幹に全身を隠している。額には汗をかいていた。
「撃ってきた」
「逃げましょう」
フィヤが意を決した表情で続ける。
「何にせよ私達には戦う力はありません。障壁を張れるのは私だけ、それも先程の攻撃を防いだ際に消耗してしまったので次は耐えられるかどうか。ユーナは速いけれど、相手の狙いを付けるのがもっと上だったら射抜かれてしまいます」
アリスは歯噛みした。フィヤの言葉に悪意は何も無いが、しかし意味合いを考えれば一番の足手まといはアリスだ。何か特技や能力に秀でているわけでもないし、狙われやすさで言えば一番身体が大きい。逃げる際にもアリスの体格が基準になってしまうだろう。
がすん、と更に木に撃ち込まれる音がした。威嚇しているのか、それとも単純に障害物を考慮していないのかは判らない。
アリスは両手に掴んだままだったフィヤを離す。すっとフィヤが飛び立ち、全員が自由に動ける状態になった。アリスが小声で言う。
「わたしが木の幹に隠れながら進んで、他の木に隠れるって感じで逃げればいいよね?」
「その様に。私が障壁を張りながら相手の様子を見ます。ユーナは先導して下さい」
「解った。二人が木の陰から出そうになったら言うね」
三人が目を合わせ小さく頷く。アリスは出来得るだけ身を屈めて音を立てない様にゆっくりと歩き出す。その横にフィヤが追随する。
ユーナは数歩先の位置を飛び、時折後ろを振り返り、わずかに木の陰から呪猖の様子を探っては元の位置へ引っ込む事を繰り返した。
アリスの心臓の鼓動が高まる。ゆっくりと歩んでいるものの、一歩を踏み締める毎に鳴る足音が大きく感じられる。自分の呼吸ですらも大音量に感じる程だった。
全く、魂だけの身体とは思えない程にそのままの身体である。緊張で目の奥が張っている様な感覚もあれば、耳の先に当たる空気の感覚も鋭敏に感じられてしまう。緊張状態でありながら、あるいはそれ故にか、どこか冷静なアリスの意識の一部が自分自身の身体を客観的に見ていた。幸いにもアリスの意識が及ばない部分は無い。精神的に取り乱す事が無ければこの身体は思った通りに動いてくれるだろう、とアリスは実感する。
額に汗が伝う。わずかな距離しか歩いていない。数分どころか一分すらも経過していないが、高まった心臓の鼓動は時間の感覚を麻痺させる。あとどの位の距離で隠れられる木に辿り着くのか、アリスは顔を上げた。身体を隠せそうな木は、まだ五メートルは先にある。非常に遠く感じられて仕方がない。
先導するユーナが何度目かの様子見の為に空中で振り返った。少しだけ横に動く。
「そんな」
思わず、と言った様子で漏れた声が気になりアリスは再び顔を上げた。ユーナの表情が目に入る。驚きと困惑が一緒くたになった表情に、それが異常事態であると直感したアリスは反射的に振り向いた。
先まで隠れていた木から更に十メートル程の位置にある木の根元。黒い霧が漂い、黒い花がそこにあった。良く見ればその花はバラの形に似ているだろうか。しかし葉は無く、異様に太い蔓のみがヘビを思わせる。その蔓が螺旋状になっていた。先程見た時はその様な特異な形状では無かったように思える。だとすればその様な形状に変化したのだろう。
瞬きをする間も無く螺旋状の蔓が縮む。あれはバネだ、そう気付いた時には黒い花は跳躍していた。
緩い放物線を描き、黒い霧を航跡として残しながら、黒い花は三人の位置を容易く飛び越え、隠れようとしていた木の前に着地した。
「ウソ、でしょ」
アリスが小さく驚愕の声をあげた。黒い花はその見かけ通りに根を張っているものだと思い込んでいたのはアリスだけでは無かった。ユーナもフィヤも、目を見開いて驚きの表情を隠していない。
黒い花はバネになった蔓を解くと、花弁を三人の方に向ける。そして花弁が急速に閉じ蕾になったかと思うと、細長く変形した。
撃ってくる。
誰もが花の変形の意図を悟った。その次に起きる事も。
誰が狙われる?
黒い花の細長い蕾が上を、一番近いユーナの方に向いた。
「ユーナ飛んでッ!」
フィヤが絶叫するのと、ユーナの翅が青白く光るのは同時だった。
一瞬の出来事だった。ユーナの翅、アーモンドを半分に割った独特な形状の一対の翅が輝き、その底面から青白い炎が噴射される。その噴射によってもたらされる推進力でユーナの身体は弾かれる様に上方へと飛ぶ。その先は木々の梢。ユーナは両手で頭を守るとそのまま茂る葉の中に突っ込んでいく。
その枝葉の中を黒い針が凶悪なまでの速度で貫いて行った。人間の目では残像すら捉えるのも難しい程の速さである。しかし、葉に隠れる事が出来たからであろう、針が何かを捕らえた様子は無く、直後には青白い噴炎をなびかせながらユーナが飛び出した。
ユーナの意外な飛行能力に驚こうとする自分を必死に抑え、アリスは黒い花を見た。花弁が開いている。針を撃つと花が開く。
黒い花がゆっくりとアリスの方に向く。そして花弁を閉じ始めた。針を撃つ前に細長い蕾になる。黒い花は針を一発撃つ毎に、花の開閉の予備動作を必要としていた。
恐怖で足が竦もうとしている。
――今のわたしに何か出来る事があるなら。
校舎の中庭で、死の淵にあった時を思い出す。意識が朦朧としていたので、はっきりとは覚えていない。だがアリスはあの時、ユーナによって意識を保たれている時に、確かにそう言ったはずだった。
――花弁が閉じ切って撃たれる前に時間がある。
地面を掴んでいた両手を振り抜いて、片足で地面を蹴る。腕を上げる。片足を突き出し、更に地面を蹴る。偶然だった。背を屈め、驚いて手を地面に付いていたが為に出来た素人ながらのクラウチングスタート。しかしそれは特に運動やスポーツに明るくないアリスが出せる、その瞬間の最高速度だった。
今のアリスに出来る事。三人の中で最も身体が大きいアリスだからこそ出来る事があった。走り出したその勢いならば、三歩で黒い花の目先にまで到達出来た。妖精よりも大きな人間の足はそれ自体が武器に出来た。突き出される様にがむしゃらに走った勢いをほぼ失う事無く、振り子の軌道を描く蹴り。
「ッアああ!!」
吠えて、蹴り抜いた。
アリスの黒いスカートが翻る。ローファーを通して爪先に黒い花を射止めた感触が伝わっている。スポンジを蹴ったと勘違いしそうな異様に軽い感触だが、それでも確かにそこに在る事を確信して蹴り抜いた。
花弁を潰された黒い花は蹴られたままに宙を飛び、背後にあった木の幹へと衝突した。軽い感触であったはずのそれは、しかし大量の中身があり血反吐を吐くかの如く黒い霧を漏れ溢れさせた。
それでも尚、黒い花は再び花弁を閉じ針の射出準備をしようとして、出来なかった。
「このッ!」
偶然だった。蹴った後に速度を殺し切れずに、前へ躓きかけたアリスは、片足だけで跳ねてそのまま靴底で花を潰したのだ。
「くッ、のッ!!」
更に片足で潰す。黒い花から霧が漏れる。もう一度片足を上げ、今度は確実に狙いを定めて潰した。黒い花から微かに霧が漏れる。
もう一度片足を上げて潰す。更に片足を上げて潰す。三度繰り返した。
「ッハァ! はァ! アアッ!」
息が切れたアリスは足を下すと同時に座り込んだ。この身体に酸素が必要なのかは判らないが、しかしすぐに動く事は出来そうになかった。
幹に磔にされた黒い花は小さく震え、黒い霧をふっと漏らすと、そのまま動かなくなった。太い蔓の部分がぼとりと落ちる。そして落ちた蔓と張り付いたままの花弁が霧散し始め、わずかな間を置いて黒い花は消滅した。
「はぁっ! はぁっ……はぁっ」
大きく肩で息を吸うアリスであったが、黒い花の消滅を見て緊張の糸が途切れたのだろう。座った姿勢のまま倒れ込んでしまった。
「アリス!」
「アリス様!」
二人の妖精がアリスの名を叫びながら飛来する。アリスはそれに応えようとしたのだが、息が上がってしまって声が出せない。代わりに無事である事を示す為に片手を少しだけ挙げて、手をひらひらと動かした。それが今のアリスに出来る精一杯であった。
◆
アリスは地面に座り、草の籠に入った水飴草の蜜をゆっくりと飲んでいた。
黒い花の形をした奇妙な存在、呪猖(じゅしょう)を撃退して、三人は再びの休憩を取っている。フィヤの話によれば呪猖が連続して出現する事は非常に稀であり、しばらく付近は安全であろうとの事で、念の為に警戒はしつつも妖精の二人は水飴草の蜜を集めてはアリスに渡し、また自分達も蜜を飲み空腹を満たしていた。
蜜の甘さが次第に三人の緊張を解き、疲れをほぐす。
アリスが蜜を飲み干し一息をついた所で、フィヤが眼前へと飛来し少々困った様な、あるいは怒った様な顔をしつつ口を尖らせた。
「アリス様、先程の戦いは勇敢でございました。ですが大変に危険な行動です」
フィヤが鮮やかな赤と橙の翅を強く羽ばたかせる。
「先程の呪猖は小さいものとは言え、あの針がもしアリス様に当たっていれば大怪我は避けられません。それに呪猖の放つ霧に素手で触れれば肌が焼けてしまいます」
「はい……」
アリスは居住まいを正し、フィヤの言葉を聞く。咄嗟の事に無茶をした自覚はあった。
「呪猖は獣や虫、草花の姿を模しますが、あくまでもそれは姿形だけなのです。あの呪猖の様に飛び跳ねてくるなどと思いもよらない性質を持ち、そして攻撃をしてくる事もあります。戦う力を持たない私達が、ましてや十分な準備もせずに呪猖を退けられたのは幸運でした」
「飛んできたのはびっくりしたね……。蔓がオスジュヴィダンワクヴィみたいなバネになってた。花の形はダスンそっくりだったのに」
話に入り込んできたユーナが耳慣れない固有名詞で説明する。アリスはその言葉が気になりユーナの方に少し視線を動かし、恐らく植物の名前なのだろうと予想したものの、しかし視線をフィヤへと戻した。
いつのまにかフィヤは悲愴な面持ちでアリスを見つめている。
「何よりも、私達にはアリス様を治療する術がありません。もし本当にお怪我をなされては、私達は何も出来ないのです」
「それは――」
アリスは言い掛けて留まる。それはアリスにとっても同様、いやそれ以上だろう。
花の呪猖が吐き出した針の速度はほぼ肉眼では見えないものであった。当たり所が悪ければ人間でも致命傷となるのは確実だ。だが、妖精ならば掠めただけでも大怪我では済まない事態になるのは容易に想像が出来る。それは妖精達も解っているはずだ。
それでも尚、妖精はアリスを心配している。
ならばそれを受け止めるべきだとアリスは決めて、一度口を閉じた。
言葉を選び直し、フィヤへと向き直る。
「危ない事をしたのは解ったよ。心配してくれてありがとうね。もしまた危ない事があったら……次は皆で逃げよう」
フィヤは胸に手を置き表情を和らげた。そして空中で器用に礼をする。
「そういたしましょう。そしてアリス様、私達を守って下さった事に感謝いたします」
思わずつられてアリスも頭を下げる。身体を少し曲げたからであろう。圧迫された腹部からまだ空腹を訴える小さな音が鳴った。
「あっ」
「あら」
「水飴草ならまだ一杯あるよ。もうちょっと休憩していこう」
くすりと笑ったユーナが近くの水飴草へと飛ぶ。草の籠を持ったフィヤも、口元を手で隠しつつだったが、それに続いた。
アリスは眉間に皺を寄せて自分の腹を撫でた。制服の生地をしっかりと感じる事に不思議さを感じつつも、自分の意思では制御出来ない身体の不条理さを噛み締めていた。
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