05 小さな魔法
清浄たる空気に包まれ、様々な木々と草花に溢れた生命力溢れる大森林。木々の合間から見える空を見やれば土と岩を抱えた樹木が宙に浮いている。
まさしく御伽噺の中の世界と言える光景に、アリスはしばし目を奪われた。小川のせせらぎの音と、どこからか聞こえる鳥達のさえずりの声。風が吹く度に揺れる枝葉が波の音をたてる。
「樹が浮いてる」
アリスは小川の傍で空を仰ぎながら全天を見渡していた。
「やっぱり珍しいですか……ん、珍しい?」
ユーナが言葉を崩し直しながらアリスの元へと飛び、共に空を見上げた。
「わたしの世界には無かった」
「やっぱりそうなんだ。長くは見られなかったけど、アリスの世界の空は広かった」
「広い? そう? 都会の方だとビルとかの高い建物が一杯であんまり空見えないよ」
「えっ、あの高い建物がまだ一杯あるの」
「うん」
二人は互いに少々呆けた顔で、それぞれの見た世界への驚きで胸中を満たしていた。
アリスは小川の淵にあった大きめの岩に座り、素足を川の流れにさらしていた。冷えた水の流れが、森の中を歩いた疲労を流していく。水の流れは柔らかい。アリスの足に触れると二手に分かれて、また合流し、絶えず流れている。
水が足に当たる様子も、その感触も全く普段と変わらない。本当にアリスは魂だけの存在となっているのか、疑問が沸く。どちらかと言うと実感が伴わない事から来る疑問であった。少なくとも物理的なものとしてアリスの身体は確実に存在している事は確かで、川の水の流れがそれを実証している。
「どんな仕組みなんだろ」
アリスがふと思った呟きを、同じく岩の上で休憩していたユーナが拾う。
「うん?」
「私の身体と言うか、魂と言うか。どういう状態なのかなって。物とかにも触れるし」
ここまでの道中でも詳しい話は出ていない疑問である。今の所解っている事は、アリスは死んでいる事は確実で、今は魂だけの状態であるという事のみだ。
取り合えずは移動をして安全を確保する事を優先していた為に、いずれの疑問もまだ表層しか判明していない。
「えーと、落ち着ける所に行ったらまた説明するけど……」
ユーナは手で何事かのジェスチャーを繰り返しては首を傾げ、繰り返す。話を手の動きで纏めようとしているのだろう。
「今のアリスは何かと言うと、死霊になる……のかな……?」
「シリョウ、死霊? えっ、幽霊? わたしってお化けなの」
「私もあんまり詳しくないから、詳しい子に説明して貰おうと思ってて」
「じゃあ解る範囲で」
説明を乞われたユーナが、小首を傾げつつ、たどたどしく語っていく。
「うーんと、つまり魂だけの状態なんだけど、消えたり散らばったりしちゃったりしないで、元の形のままを維持している状態かな」
「なんで消えないでいられる?」
「一つは妖精の魔法。アリスの魂をこの世界に引き込む時に、連れてくる相手を守るって魔法を使ったの。私の魔法じゃ無いんだけど、妖精はそういう魔法が得意で――」
「魔法!」
アリスが両手をぱんと叩いて、ユーナへと身を屈め近付いた。ユーナは一瞬驚いたようだが、すぐにアリスに対して言葉を続ける。
「魔法も無かった? アリスの世界って魔法の力がほとんど感じられなくて、そうかなって思ってたけど」
「無かった! 魔法があるのかぁ。あ、でも妖精が居るからそう言えばそうかなって気もする。凄い凄い、ファンタジーだね」
アリスがはしゃいで足を二度三度とばたつかせる。川の水が蹴られて跳ね上がり、陽光を浴びて輝く。
そんな様子を見てユーナは両手を後ろに伸ばし、身体をリラックスさせた状態で微笑んだ。ぴんと張っていた翅も岩に付く程に垂れ下がっている。
「魔法でそんなにはしゃぐ人って初めて見るかも」
「だって魔法だよ。驚くもん。あっと、それで続きは?」
「うん。もう一つはこの森のお陰。この森は魔法の力、魔力が他と比べてとても多い場所で、私達みたいな妖精や精霊、そしてアリスみたいな死霊は身体がとてもしっかりした存在になるの」
「ふうん? 補強している感じなのかな。魂があって、身体の形を作って、魔法の力でそれを補強する。その魔力が沢山あるから補強がしっかりしている、みたいな?」
「うん。そんな感じだと思う」
「何となく納得出来たけど、やっぱり不思議だなぁ。ファンタジーだ」
アリスが再び足を動かし、小川の水を軽く蹴る。水滴を脚につけながら言葉を続けた。
「これ、どこまで身体を作ってるんだろう。水も触れられるし、汗も流れるし」
「それはアリスの意識に大きく左右されると思う。死霊って普通は苦しんだり悲しんだり、そういう強い力で形を保っているんだけど、そっちに魂が引っ張られすぎて人間の形から崩れやすいの。凄く極端な姿になったりするみたい」
「つまり自分は自分だーってしっかり思っていれば良くて、逆だとおかしくなる?」
「うん、たぶん。どうしよう、これも詳しい子に聞かないと。女王様は詳しいかな」
アリスは、ふむと頷いて、小川の流れを覗き込む。揺らいではいるが綺麗な水だからであろう、はっきりとアリスの顔が映り込む。
サンディブロンドとも言える茶髪に近い金髪を肩口で揃え、くすんだ青灰色の虹彩。黒いセーラー服の上下に、胸元の紺色のリボンだけが川の水の中に溶けている様にも見える。
周囲の人達とは違う身体特徴に悩んだ時期もあった。今でこそその差異を飲み込み、自分自身の特徴の一つとして認められるだけにはなったが、全く意識をしていないと言えば嘘になるだろう。初めて会った人がアリスの髪や目、顔立ちを一瞬なりとも気にするのは確実で、その様子を見て全く気にしないと言う方が無理だった。
慣れては居るし、認めても居る。何とも思っては居ないが、しかし意識は必ずしてしまう。他の人が身長や体格を意識するのと同じ様に。
それが今は良い方向に働いているのかもしれない。
アリスは再び足を揺らめかせ、水面をかき乱した。映っていた自分の姿もかき乱される。それでも自分の身体がそこにあるのは変わらない。その意識がアリスの魂を形作っているのだ。
アリスがぼんやりと川の水の冷たさを感じていると、そうだ、とユーナが立ち上がりワンピースドレスの裾を両手で叩いていた。アリスは揺らめいていた意識を目の前にまで引き上げて、ユーナへと視線を向ける。
「丁度いいから魔法を使ってみる」
「おお、どういう魔法?」
ユーナが両手を広げて前にかざす。ふぅ、と一息ついて、白い翅をぴんと伸ばした。
「磁石みたいな魔法。目的の場所がどっちにあるかが判るよ」
そう言って目を閉じるユーナ。白い翅が薄く輝き、その光がユーナの全身に周る。光が全身に満ちると、ユーナの両手の先に小さな光の球が揺らめきながら浮かび上がった。
光の球の大きさは人間の小指の爪程度、明かりは蝋燭よりも小さいだろう。しかし昼間の中においても、はっきりと見る事が出来る揺らめく光の球だ。
光の球はしばらく中空で揺らめくと、ふらふらと形を変えて紡錘形になる。その尖った先端をすっと動かし、小川を挟んだ森の方、その少し右側を指し示した。すると役目を終えたからなのか、燃え尽きる様に消えた。
指し示された方向をユーナが向く。
「南西の方かな。あんまりずれないで真っ直ぐ来てるみたい」
「今の方位磁針みたいな魔法って距離は判るの?」
「距離は判んない……けど、そんなに遠くないと思う。今日中には着けるかな」
アリスは頷くと、思っていたより地味だった魔法を見て、しかしその様なものかと思い直しつつユーナと同じ方角に向いた。川を渡る必要がある。
幸い、足が簡単に底に付いてしまう程の小川であるので渡る事それ自体は問題にならないだろう。ハンカチ等の拭く物が無いので、濡れた足を乾かさずに靴下を履く必要がありそうなのが障害と言える障害だった。
「あれ、ハンカチは無いのに服や靴はある。脱げる。ふむん?」
自分の身体は魂だけの存在で、魔法の力よってそれが補強されている。ならばポケットに入っていたはずのハンカチが無いのは解るが、服はどういう事なのだろうか。これも魂が形作っているものなのか。新たな疑問がアリスの頭の中に沸き立った。
「うーん?」
「どうしたのアリス」
「んー、えっと、細かい謎があったりするんだけど……それより、わたし達が向かっている落ち着ける場所ってどこ?」
「あ! そっか、それも言ってなかったや」
ユーナがふわっと浮き上がり、アリスの顔辺りの高さにまで浮上する。その姿を見て休憩は終わりと判断したアリスは、岩の傍に置いていた靴と靴下を掴み、慎重に川の中へと足を入れる。川底の石を両足がしっかりと掴んだ所で、先程魔法の光が指し示した方向へと水を切りながら歩いた。
少し先を飛びながら、ユーナが説明を続けた。
「私達が向かっているのは守護の樹。簡単に言うと結界とかの色々な魔法で護られている樹で、呪猖(じゅしょう)が現れた時とか、嵐や大雨の時、あと私は経験してないけど火事があった時に逃げ遅れたりとか、そういう時に逃げて隠れる場所なの」
「避難所かな」
「うん。この森の色々な所に沢山あって、全部は知らない。私が住んでいる西の森だけでも一杯あるんだ」
「さっきの魔法はその守護の樹のある方向を教えてくれる魔法なんだ」
「ううん、あれは導いて欲しい場所に事前に目印の魔法をかけて、それがどっちの方角にあるか教えてくれる魔法。私は守護の樹に魔法をかけていたから、その方角を向いたんだよ」
「それはそれで便利だね」
「魔法が上手な子は目印の魔法をたくさん作って、色々な場所への方角を知る事が出来るんだよ。森の中で知らない所に行く時は、そういう子に大体の場所の方角を教えてもらうの」
「へぇ」
説明を受けている間に小川は渡り切ってしまった。アリスは出来るだけ足に付いた水を払ってから靴下を履いたが、やはり湿気を吸って纏わりつく。その感触はどう考えても衣類のそれであり、果たしてこの衣類は自分の魂が形作るものなのか疑問に思う。解らない事はまだまだ多い。
「ねぇねぇユーナ、魔法ってわたしも使えるかな」
「練習すれば使えると思う。でもどのくらい使えるかは体質とかもあるんだって」
「そっか。頑張ってみよう」
靴を履き、とんっと爪先で地面を蹴る。問題無く歩ける事をユーナに伝えると、二人は再び森の中へと歩き進んでいった。
小川を渡ってから、森の様相は僅かにだが変化した。今までは巨大な樹木の根が土から這い出て、隆起した土を草や苔が覆い隠し、一歩一歩を確実に踏み締めながら歩いていた。しかし二人が今歩く森は、木々の密度こそさほど変わらないものの、地面は平坦な部分が多く歩きやすい。明るさも十分で、射し込む陽光は少し傾き始めているが森の中を鮮やかに照らす。
とは言え、歩き詰めのアリスには少々疲労の色が見える。所々に生えている色彩豊かな花をちらりと見ながら、ふと呟く。
「お腹空いた」
先頭を飛ぶユーナが静止し、ふわりと振り向いて手を合わせた。ぺちりと小さな音が鳴る。
「そうだ! 朝から何も食べてない。アリスは?」
「朝ご飯は食べたけど。もうこれお昼過ぎてるよね」
「お昼は過ぎてるね。お昼にも食べるの?」
「え? 朝と昼と夜に三回食べるよね」
「そう? 朝と夜の二回が普通じゃない?」
「地域の違いだ……」
などと話している内に、アリスの腹が小さく鳴って空腹を訴える。その様子を見てユーナがくすりと笑って自身の腹に手を当てた。
「お腹が鳴るのは同じみたい」
「そうだね。もう、恥ずかしい……。と言うか幽霊でもお腹鳴るんだね」
「死霊も餓えるんだって。それで苦しんでおかしくなっちゃう」
「あー……もしかしてお腹が空いたとしても、死んでるから死ねなくてずっと苦しんで、それで発狂して人を襲ったりするとか、そういう理屈だったりする?」
「それで合ってると思う。アリスがそうなったら困っちゃう、何か食べ物を探そう」
「賛成ー」
「この辺りなら、多分――」
ユーナが近くに生えていた花や草へと移動する。一瞥して何の植物かを見た後、再び移動する。時折ふと樹を見上げ、何か生っていないかを確認する。その仕草は非常に手早く、慣れている様子が見て取れる。妖精の姿形と体格故に、蝶や蜂、あるいは小鳥がせわしなく食べ物を探す様子にも似ていて、改めてユーナは翅を持つ人間とは異なる存在である事を印象付けた。
アリスも手伝おうとしたが、ユーナが花から花へと飛び回る速度は思いの外に速く、目当ての場所に移動しようとする前にはユーナが探し終えてしまう。結果、ひらひらと飛び回るユーナの後を歩いて付いて行き、既に探索済みの花や草を観察するだけとなっている。
その様な事を十分程続けた頃だった。ユーナが何かを見つけ、アリスの方に振り向く。
「アリスー、こっちに食べられるものあるよー」
「なーにー」
「花ー」
ユーナが少し離れた場所に生える花を指差す。大木の根元に寄り添う様にあるその花は蕾を閉じた百合の花か、あるいは花が下に向いたチューリップの様な形状をしている。ふっくらと閉じている花弁の色は赤、橙、黄と鮮やかに、複数が群生していた。
近付こうとアリスが一歩進んだ所で、声がした。
「ユーナ?」
二人の声では無い。
驚いた二人が声のする方に振り向くと背の小さな草花の茂みがあった。それが揺れ動き、声の主が姿を現す。
赤、橙、黄の眩しい程に鮮やかな蝶の翅を広げた妖精である。
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