03 妖精との出会い II
「えっ、ええ?」
遅れてやってきた驚きによって、思わず小さく驚愕の声を漏らし、アリスは空いていた右手で窓ガラスに触れ、より顔を近づけていた。
何かの見間違いなのか、何かの悪戯の類なのか、何かの幻覚の類なのか、全く判別がつかない。それが現実であると飲み下すには未だアリスの脳は静かに混乱し、状況を正確には理解できないで居た。
そうしてアリスが硬直している間に、先に妖精が動く。元よりアリスと目が合っていたのだ。それまでぼうっとしていた妖精は驚いた様な顔へと表情を変え、きょろきょろと周囲を見渡し、再びアリスへと向いた。そして手を胸元で合わせ、しかしまた広げ、胸元で合わせる。慌てた様子でその動作を繰り返した後、何かを決心したのかその身体を前のめりに倒した。
ついっと妖精の身体が動く。いや、飛ぶ。空中で静止していた状態からアリスの方へと飛んだのだ。前のめりにした身体の姿勢が崩れる事無く、紙飛行機の様に無音でふわりと前へと飛ぶ。
アリスにしてみれば驚愕の連続で、まるで時間が止まったかとでも思える程の体感時間だったが、時間にすればものの数秒だろう。気付けば妖精は窓ガラス越しにアリスの眼前にまで到達していた。
「妖精……?」
アリスは無意識に呟く。やはり眼前に居るそれは妖精としか言いようがない。近付いた事でより細やかに全身を見てみれば、ワンピースドレスから覗く細い手足も、美しい黒紫色の長い髪も、物体としての確かな現実感を伴っていた。非現実な一対の白い翅ですらも現実感を持つ。妖精の顔も、少し釣り目がちな瞳のラインを、長くしなやかな睫毛が並ぶ。目鼻立ちも整っていて、どこか儚げでミステリアスな雰囲気を纏っている。人形がそのまま浮いて動いているとしか思えないものであった。
自然と窓の鍵を外して開けていた。アリスは恐る恐る右手を窓の外へと出し、妖精に触れるか否かの所で動きを止めた。再び妖精と目が合う。
やはり数秒の事であったであろう。しかしアリスには長い時間を見つめ合っていたように感じた。
妖精は一瞬戸惑った素振りを見せたが、すっと息を吸って胸を張り、ゆっくりとアリスの指へと僅かに進んだ。妖精にしてみれば自分の胴体と同じ程の太さの指に、そっとその細い両手を触れさせた。
アリスの指先は確実に妖精の小さな両手の感触を捉えていた。妖精もそうなのであろう、驚きながらもアリスの指先を両手で柔らかく包んでいた。
「妖精、なの?」
アリスが訪ねた。ようやく脳の混乱よりも思考が順応する。妖精に尋ねる。
しかし妖精は軽く首を捻る。小さな小さな眉毛が困ったかの様に垂れていた。
「言葉、解る?」
再び尋ねる。妖精は再び首を捻る。
「どうしよう」
このままでは何も進展しない予感がアリスの中にはあった。しかしこの、まさに未知との邂逅とも言える状況を気軽に捨て去る程の思い切りの良さはアリスには無く、また当然の様に好奇心が勝っていた。
何か、何か意思疎通をする方法は無いか。いやまずは落ち着いて意思疎通をする方法を考える状況を作った方がいいのではないだろうか。
アリスの脳内は、とにかく状況を整理する為には時間が必要だと判断した。しかし妖精が見た目通りの存在ならば、気軽に触れてしまえば傷付ける恐れがあった。
何が正しい判断で、何をしてはいけないのか、その基準は無い。ならば最初の判断を信じる事にした。
「あっち」
アリスは荷物を抱えたままの左腕を少し上げて、左手で廊下の奥を指差した。妖精がその動作を見て、廊下の奥の方を見る。廊下をこのまま進むとアリスの教室へと辿り着くのだが、より先に進むと中庭に出る事が出来る。そうして中庭で合流しようという考えだ。このまま廊下や、あるいは教室まで移動すると生徒や教師が来るかもしれない。
その場合、何が起きるか判らない。一番アリスが恐れた事は、この小さな妖精が何らかのきっかけによって害される事だった。
妖精が再びアリスの方を向くと、右手の指先から離れた。アリスは空いた右手で廊下の奥を指差し、そのまま腕を大きく回して中庭へと至る道筋を指し示した。
「向こうに行って」
アリスが再び廊下を指差し、中庭へ戻る動作を繰り返す。
「戻ってくる。解るかな……」
アリスの指の挙動を見ていた妖精は、指し示された方向を見て、建物の形状を見たのであろう。何回か視線を往復させた後にぱっと笑顔になってアリスの顔を見た。
「通じたっ、かな?」
アリスがそっと廊下の先へと歩み出すと、妖精も中庭側からそれに合わせて前へと飛ぶ。アリスはもう一度廊下の先を指差し、妖精へと戻る道筋を指し示した。
妖精が頷いた。
それを確認してアリスは少し早足で廊下を進む。振り返って妖精を見ると、不安であるからなのか少し前へと進みながらであったが、アリスへと視線を合わせたままである。どうやら通じたようだ。
足早に廊下を進む。自分の教室を通り過ぎ、さらに二つほど教室を通り過ぎる。別の校舎へと繋がる十字路の部分を、中庭に接続している方へと曲がる。ここには別の学年が使う二か所目の下駄箱がある。避難の際には生徒を複数の箇所から校外へ出す為の避難経路の一つでもある。そして下駄箱の先には学校の裏門へと続くスペースがある。
見慣れないワンボックスの車と、作業をしているらしきツナギ服を着た男性二人が居た。車の側面には文字が書かれており、何と無しに見ただけであったので全ては読めなかったが、衛生保全センターといった文字が書かれていた。
何かの設備の点検だろうか。もし中庭に用事があるのならばこの後に更に場所を移した方がいいかもしれない、と頭の片隅に留めて、アリスはさらに歩みを進めた。
教員によってだろう、既に施錠が外れていた中庭への通用口を通り、中庭へと出る。上履きでも歩ける装飾タイルの上を飛ぶ様に歩む。やはり廊下と比べて陽の光がよく入る。慣れたつもりであった瞳孔が窄まり、視界の明るさを調整しようとする。
それも気にせずアリスは中庭を進んだ。先程の妖精が居る辺りまで僅かな距離を歩く間に視界は明るさに慣れ、中庭の全景を写し取る。妖精は……居た。先程と大きくは変わらない位置で浮遊している。アリスの動きを常に目で追っていたのだろう、既に喜びを湛えた表情で今にも前へと進み出そうとしていた。アリスもまた妖精の元へと駆け寄る。駆け寄ろうとした。
アリスの両足が地面を離れ中空へと浮かび上がった。
一瞬遅れて、街一つに轟く余りにも暴力的な爆発音が、音速を超えた衝撃を伴って校舎を呑み込み、空間の全てを切り刻む。
圧倒的な破壊力の前では脆弱な窓ガラスなど鳥の羽毛を吹き飛ばす様なものであろう。至る箇所にある窓ガラスと言う窓ガラスは微細で繊細な刃物となってあらゆるものに降り注いだ。
何が起きたかを理解出来ていた人間は誰も居ない。空中で衝撃波に襲われ、地面に叩きつけられたアリスに至ってはそもそも何かを考えるだけの思考力が奪われていた。地面に仰向けに倒れ、身体が無意識の防御反応すら出来ないが故に開いてしまった瞳が、校舎越しに空高く跳ね上がる車の屋根らしきものを見た。視界の端には黒い噴煙が一瞬にして空にまで巻き上げられた様子も見える。
叩きつけられた衝撃で無理な姿勢になっていた身体から力が抜け、視線が下を向く。キラキラと輝くガラスの破片が胸に幾つも突き刺さっている。アリスには認識出来なかったが、ガラスの破片の幾つかは肋骨の隙間を縫い胸郭を貫通し肺を傷つけていた。腹部に刺さったものは言うまでもない。むしろ致命的なのは衝撃波を真正面から受けてしまった背中で、脊椎に大きな損傷が出来ていた。
アリスは自身に起きている出来事も、怪我も、それが致命的である事も理解出来ない。ただ、機能を失った聴覚の所為で心臓の音がよく聞こえていた。とても激しく、弱々しく高鳴る心臓の音。全身から力が抜けていく感触。窄まる視界。何か、何か致命的な何事かが起きて、そして――。
死ぬ。
そこまで意識が回ったのは奇跡だった。だが何も出来ない。身体が動かないのみならず、五感も薄まりつつある。身体が死に至る恐怖すら考える余裕がなかった。ただ、死ぬという判断のみが一つの巨大な泡となって浮かび上がり、弾けて、それすらも消えた。もはや目を閉じる以外に残された力は無い。
アリスのくすんだ青い目は既に光を失い、ただ死んでしまうと言うぼんやりとした意識が実感を伴わないまま身体の隅々まで行き渡った所で、妖精が視界に入った。
妖精。妖精がアリスの顔の前で、必死に何事かを叫んでいる。黒紫色の髪を振り乱し、今にも泣きだしそうな必死の形相で何かを叫んでいる。しかしアリスには聞こえない。聞く事が出来ない。
アリスは妖精に手を伸ばそうとした。廊下で妖精が両手で触れてきた指先の感触が意識の底で小さな泡となって浮かび、弾ける。身体は動かせなかった。指先ですら。
妖精が叫ぶ。聞こえない。叫ぶ。聞く事が出来ない。
妖精の目に映るアリスの姿は今正に死にゆく者以外の何物でもないだろう。
妖精が肩で大きく息をする。叫んで、叫んで、アリスにはその叫びを聞く事が出来なかった。それを妖精も理解したのだろう。妖精の喉がくっと動いた。
アリスの視界一杯に妖精の胸元が広がる。わずかに残っていた額の神経が、何かが触れたとアリスの意識を叩く。妖精がアリスと額を合わせていた。
瞬間、世界は停止した。
爆風で揺れ囁いでいた木々も、草花も、上空に跳ね上げられまだ落ちてこない様々な小さい物体も、昇る噴煙も、何もかもが停止した。その様にアリスの感覚は捉えていた。
死にゆく薄い意識の中に、丸く穴を開けたように、あるいは抉じ開けられたのか、はっきりとした意識が浮かぶ。アリスの本能はその意識に手をかけた。朦朧とする意識の中でこじ開けられた場所の意識だけがはっきりとしている。アリス自信を認識出来る。それに縋るように。
意識の先には妖精が居た。目で見ているわけではない。視界には未だに妖精の胸元が、停止した世界と共に映し出されている。意識の中でアリスがそう感じているだけだが、しかし確実にそこには妖精があった。声を出そうと思ったが、声が出せない。身体が動かないからそうなのではなく、意識の中で声を出す方法を知らないといった感触であった。
「お願い!」
妖精が叫ぶ。なんと小さく軽やかな声であろうか。鈴の音の様な声とは、きっとこういう声の事を言うのだろう。アリスの朦朧とした意識と意識の境目がそのような泡をふつふつと立てて消える。
「私はこの世界の事を知らない! 魂をどう扱っていいのかも知らない!」
妖精が叫びながら続ける。必死の形相で、こちらに両手を掲げながら。
「でもようやく私を視る事が出来る人を見つけたの! 貴女の魂をこのまま死なせたくない!」
叫ぶ。叫ぶ。しかしアリスには解らない。聞こえているが、解らない。
「貴女が望むなら、許してくれるなら、せめて魂だけでも私と一緒に来て欲しいの! 貴女の魂を死なせたくない! 私達の世界に来て欲しい!」
叫ぶ。叫ぶ。アリスには解らない。解らないが、ふと思い至る。妖精は困っている。
「ああ、駄目、消えちゃう……、お願い、応えて。私と……」
アリスの意識がゆっくりと、ゆっくりとしか動かないが、手を伸ばした。困っているのならば、何か助けられないだろうか。
「後で私をたくさん恨んでくれてもいいから……! 呪いの魔法も教えるから……!」
何か出来ないだろうか。この小さな愛くるしい存在が、こうしてまで必死に何かを訴えかけている。こんなにも精一杯の姿を見て何も出来ないのだろうか。
廊下で見た時の様に、妖精の前に指をそっと置く。
「どうかお願い、私と……」
叫び泣きじゃくっていた妖精がアリスの指に気付いた。反射的にその指を小さな両手で掴んだ。アリスの意識の手は既に半分以上が透明になり、崩れかけていた。掴まなければ消えてしまう程に。
妖精はアリスの指を見た後、顔を上げた。振り払われた涙が意識の空間のどこかへと零れていく。
アリスの意識はもはや消えかけていた。波打ち朧げなその顔は微笑みの形になっていたのかもしれないが、アリス自身ですらも最早それは判らない。それ程までに消滅の淵で揺らめいていた。
だが、アリスの意識がそうさせる。父と母にそうあれ、そうあってくれと育てられたアリスの心が応えた。
自身が死の淵に立っていると言う事を朧気ながらも意識しても尚、死にたくないと言う衝動が泡立ち膨れつつある中でも尚、アリスは目の前にある小さな存在の為に応えた。
「今のわたしに何か出来る事があるなら」
肯定の意思だった。
妖精は大きな涙を零しながら、二枚の白い翅を広げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……。ありがとう……。きっと、絶対、私は貴女に報いるから……絶対に!」
妖精の白い翅が白く輝く。周囲にあったはずの明瞭としない意識は既に消え果て、残っていたのは死だった。その中で立つ微かなアリスの意識あるいは魂を照らす、白い光。アリスの心は白い光の中にいくつもの星の巡りを見た。指先が温かい。妖精の小さな両手から体温が流れてくる。その温かさを拠り所にアリスの意識の形が指先から戻る。自分の形を取り戻す。
そうして、妖精の放つ白い光がアリスの意識を呑み込み一つの小さな輝きになると、二羽の蝶となり飛び立ち、虚空へと流れ星の様にふっと消え、意識の世界は閉じられた。
月の破片が『攻性突入天体』と呼称され、惑星規模の空から降る災害に対して世界各国が手を取り合う時代。それに併せた急速な国際化、文化や移民の流入、そういった変化を良しとして思わない人々も、少なからず存在した。
爆発はそういった思惑を持つ集団が無辜の民を標的とした犯罪行為で、学校が狙われた理由など有って無いに等しいものだった。そんな不条理があった事など、誰も知る由は無かった。
校舎の中庭で女子生徒が仰向けに倒れている。胸に幾つものガラス片を受け、しかし黒い制服の生地が血を隠す。
校舎の至る所から悲鳴が上がっていた。何が起きたのかを理解出来るものはいない。裏門近くに停められていた、大爆発を起こした車も跡形も無く周囲の有象無象ごと吹き飛び、衝撃そのものと飛び散ったガラス片で校舎に居たあらゆる人間が大小の怪我を負って呻いていた。
地獄絵図の様相を呈するその様な状況において、中庭で誰かが倒れている等と気付く人間も居るはずはない。
こんな事が起きているなど露知らず、初夏を思わせる重くも爽やかな風が中庭に吹いた。妖精でも通り過ぎたかの様に木々が囁き、草花が揺れる。
草花と土の上で、眩い陽光と空の青さに看取られ――。
藤宮マリークラリッサ アリスは死んだ。
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