02 妖精との出会い I

 藤宮マリークラリッサ アリスは日本人の高校生である。

 大戦後より急速に国際化の道を歩んだこの国において国際結婚はさほど珍しいものではなかったが、しかしアリスのように四種類の国の血が体に流れる人間は珍しかった。

 とは言え、アリスは生まれも育ちも日本人であり、身体的な特徴が一般的な大多数のそれでは無いという部分を除けば平凡な学生の一人であった。

 カーペット敷の床に座り、姿見に映る自分の姿を見ながら首元のリボンの位置を正した。高校の制服であるセーラー服は、撫でる程度に紺色を載せた黒い上下の生地。同じく黒い襟に白いラインが入る。リボンは深い海の様な濃紺で全体的に地味な印象を受け、制服で高校を選びたい者には少々不評であり、また校内でもその様な認識が持たれている。

 アリスは春からこの制服に袖を通す事となったが、それも随分と慣れたもので手早く着替えを済ませていた。最後に生地色と同じ黒いソックスを穿き全体をもう一度見やる。

 金髪碧眼、とは言い難い。黒髪と比べてしまえば随分と明るい髪色ではあるが、金髪と言うよりは茶髪に近いそれを肩口で揃えている。髪質が細く柔らかい為に、空気を含み軽やかな印象があった。目の虹彩の色は青。しかし随分と濃く、見ようによってはくすんでいるようにも見え、さながら大理石等の石材を削り出した様にも見えよう。肌の色も黄色人種よりは薄いが目を見張るほどでもない。ふっ、と息を吐き肩が下がると胸を張った骨格がより顕著に表れる。コーカソイド的な特徴の骨格である。

 両親共に二つの国のミックス、さらには祖父母の特徴まで出てしまった故か、なんともちぐはぐな身体的特徴を持つに至ったアリスであるが、自身の体を嘆く事も今は無く、両親祖父母全ての特徴を併せ持ったと考えていた。

「よし」

 もう一度襟元を正し確認する。まだ幼さの残る声である。傍らに置いていた革製の鞄を手にして立ち上がるが、その背も一五〇センチ有るか無いか、といった所である。クラスメイトからは身体や声、顔の雰囲気などが見せる幼さの印象故に中学生か、あるいは服装によっては少し背の高い小学生かと揶揄される事もしばしばあり、本人も自覚している所であった。

 鏡に映る背景は年齢相応の類の物が並ぶ一般的な部屋であるが、しかしベッドの脇に設けられた本棚には少々特徴的な物が並んでいた。航空機に関する書籍や雑誌である。民間機に関係する物から軍事兵器に関係する物までジャンルは様々であり、明確な目的があると言うよりかは取り敢えず手にして所蔵している、そんな様相を呈していた。

 部屋を見渡し忘れ物が無い事を確認し、部屋を出て階段を軽やかに降りていく。朝食は既に済ませているので、ダイニングで片付けをしている母親に一言かけるに留め、黒のローファーを手早く履いて玄関扉を開けた。

「いってきまーす」


 外は快晴。初夏の前に空が雨を蓄える頃ではあったが、幸いにも本日は天球に広がる雲一つない一面の青空が街全体を覆っていた。青空の深く深くその先に『欠けた月の破片で出来た輪』が見えるかと思ったが、どうやら見える状態では無いらしい。

 アリスは目元に手を翳し、延々と続くかの様にも思える空を見て、ふと思いを馳せた。

 ――父は飛んでいるだろうか。

 アリスの父親はジェット戦闘機のパイロットである。今は配置の都合によりハワイの洋上に浮かぶ空母に乗船しており、長らく家を空けている。時折メールや現地で購入したであろう洒落た手紙等を送ってくるものの、家族として過ごす時間は多いとは言えなかった。

 多感な思春期の頃はそれが丁度良かったのかもしれない。適度な距離感があり、会わない訳でもなく、しかしその年頃特有の不条理な嫌悪感を持つ事も無かった。上手く思春期と付き合う事が出来たであろう。

 しかしそれも過ぎて心身が落ち着いてくると少々不安が勝る。自分がどう成長しても父の仕事が危険な仕事である事は変わらないであろう。そしてその仕事は誰かを護る誇り有る仕事でもあり、それに異を唱えるのは我儘であろうとも思う。

 今こうしてぼうっと空を見上げ、月の破片である『攻性突入天体』に襲われる事の無い空の下を歩けるのは、父やそういった仕事をしている人達あってこそのものであるとアリスは認識していた。

 父と同じパイロットになりたいかと言われると答えに窮するが、父の様に在りたいとは思っていた。隕石と言っても差し支えの無い月の破片から人々や街を護る為に、鋼鉄の翼を操り力強く空の高みへと飛ぶ姿は自慢であり憧れである事は間違いない。

 視線を通学路に戻して少し早足気味に歩き出した。

 最も、行動に不安があると言えば母親も該当する。普段はふわふわとした大人しい母だが、母の何が駆り立てるのか、時折ふらりと山間部へ赴き登山に興ずるのだ。時季によっては装備一式を持って泊まり込み、数日帰ってこない時もある。アリスにしてみれば危なっかしい事この上ない。

 母もまた、そうなりたいかと言われると難しい所だ。だが一人で力強く歩いて行ける行動力と生き方は自慢であり憧れるのは変わらない。

 どうにも、アリスの両親は独特で行動が特徴的だ。さらに海外に暮らす祖父母もまた個性的な人物達であるのだが、その様な環境もあろう、アリスは自身をまだ一般的な人間であろうと意識させ、そしてその意識がアリスの所作をそうたらしめていた。

 結局の所、様々な要素をまだらに詰め込んだ環境と身体を持ってはいても、ただの高校生であり、まだ大人と言うには頼りない一人の子供である以上の何者でもない。それが藤宮マリークラリッサ アリスと言う人物の、本人が思う人物観と実際の人物像であった。


 通学路を足早に駆け、早朝故にまだ穏やかな雰囲気の商店街を抜ける。横断歩道で見かける車の量はまばらであった。太陽は燦々と輝きアスファルトを焦がしているが、まだうだるような熱を吐き出す時間でも無い。

 アリスは普段より一時間早めに家を出ていた。日直の役回りが今日なのである。アリスの通う高校は公立の県内ではそこそこの規模の学校である。総合学科の門を掲げ、進学校を謳っているが、どちらかと言えば周辺の他の学校や専門学校が卒業後に専門的な道への就職が多い故に、相対的にそう呼ばれていると言うのが正しい評価である。

 言い換えれば普通の高校だ。取り立てて特別なものは何も無い。アリスのような国際化社会の子とも言うべき複数の国や民族の血が流れる生徒も学年に数人居る、この時代この国において標準的な学校だった。

 いくつかの道を右に左に歩けば、その高校の正門である。綺麗に整えられた地面を踏みしめつつ校舎に入り、靴を履き替え職員室へと向かう。

「おはようございます」

 ノックをした後、職員室へと入り軽く見渡したが、何人かの教師が机に向かっているのみで、アリスのクラスの担任は居なかった。まだ来ていないか部活動の朝練だろう。それだけ確認すると、職員室の入口脇にある書類棚の中からクラスの日誌ファイルを取り出す。中身を確認して必要なものが全て揃っているのを確認した。そのまま隣の棚に移動する。

 ステンレス製の棚は中身が見えないようになっている。取っ手の横に設けられた読取機に生徒手帳をかざすと短い電子音が鳴りロックが外れる。取っ手を掴みスライドさせると棚の中には各種の鍵が保管されていた。アリスの教室の鍵が残っている。まだ誰も教室には入っていないのが解る。鍵を取って日誌ファイルと共に胸に抱き、挨拶をして職員室を出た。

 職員室は校舎の二階にあるが、アリスの一年次生の教室は一階にあった。再び下駄箱の方向へと向かい、校舎の大きな導線である東階段を降りる。所々に設けられた採光用の小窓から早朝の凛とした陽光が射し込み階段の踊り場を照らす。

「ん」

 陽光が目に入りアリスは手を額に掲げる。窓の外に蝶の影が見えた気がした。

 視線を階下へと戻し、かつかつと響く靴音を聞きながら自教室へと歩む。教室の窓は全て南側に向いている為、出入り口のある廊下は自然と北側になる。しかし陽が当たらず暗いかと言えばその様な事も無い。

 廊下の窓側から見える広大な中庭、そこに植えられた木々や芝生が陽光を受けて輝き、風に撫でられ生命の力強さを静かに囁いている。その中庭からの光を受けて廊下は明るく、むしろ教室側から見れば逆光で人の姿が影になる程に明るい。豊かな陽光と、輝く草木の緑に照らされ、普段より早起きしたアリスの意識はまどろみを覚えていた。

 いくつかの教室を過ぎ、手に抱えた日誌ファイルと鍵の感触を改めて感じながら――中庭に蝶の影を見た様な気がした。

 時季を考えれば珍しくも無い事であろう。既に芽吹きの季節は過ぎようとしている。大小様々な動植物が活動を始めている。蝶の影くらいはあるだろう。

 しかし、階段の踊り場で感じた蝶の影がアリスの脳内にふっと浮かぶ。

 特に大きな理由はない。何の蝶だろうか。そもそも蝶だろうか。何が視界の端に映ったのだろうか。深い理由でもない。だから軽く首を傾げ視線を中庭に向けただけであった。

 目が合う。

 瞬間、アリスは息を呑んだ。喉がくっと動くのを自覚した。

 目が合ったのだ。窓ガラスに映った自分の姿ではない。無論、蝶である訳がない。

 中庭に降り注ぐ日差しの中に、一羽の妖精が居た。


 それは全く妖精としか形容の出来ない存在である。アリスは自分が何かを見間違えているのではないかと思い、身体を窓へと寄せて、窓ガラスに額が付きそうな程にして中庭へと視線を向けた。

 確かに妖精は居る。妖精としか形容の出来ない何かが、アリスの顔と同じ位の高さの空中に静止し、きょとんとした顔でアリスを見ていた。

 距離感が正確には把握出来ず大まかにであるが、全長は手の平より少し大きい程度であろう。紫色の宝石であるアメジストを、黒いレースで幾重にも包んだかの様な、限りなく黒に近い黒紫色の髪を腰より長く伸ばし、小さな小さな相貌には髪の色と同じ黒紫色の瞳が輝いている。雲の如く僅かに青を含んだ白いシンプルなワンピースドレスを纏い、裾からは細い脚が伸びていた。

 何よりも、その背にある一対の白い翅であろう。昆虫の翅の様な薄く透明なものでは無く、不透明でつるりとしたアーモンド形で、表面に青緑色の模様が描かれている。そのような二枚の翅が背中から、妖精の頭よりも上に広がる様子からして身長の半分近くの大きさを持つであろう事が見て取れた。

 手の平程度の大きさの、翅を持った少女――少なくともアリスには少女に見えたその存在が、果たして妖精以外に何と形容し呼称すべきなのか。ともかくそれは妖精の姿をしていた。

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