天空のフェアリーロード

捨野いるか

01 初陣

 夜も深く漆黒の帳を下す空に、煌々と青白く輝く満月が静かにあった。傍には半分程の大きさの同じく青白い輝きを放つ小さな月を従えていた。大小の二つの月の柔らかな光は夜空と大地を照らし出す。

 そこは地平線の先まで黒く埋め尽くされた木々が広がる大森林である。静かなこの夜において在るものは夜空と二つの月、どこまでも続く木々だけであった。

 そこに一点の光が生まれる。わずかに木々が開けた場所にゆらりと光る赤黒い光だった。よくよく見ればその光は眼である。しかも、くねらせた身体の各所に赤黒き目は揺らめき、顔であろう部分の双眸が一際強く輝いていた。


 竜である。


 周囲の木々よりも長い胴をくねらせ、鎌首をもたげ座する様は、それだけで木々よりも高く、巨体を月光の元に曝していた。

 体表は夜の闇より尚暗い漆黒。表面は歪で、手足や鱗の様なものは見当たらなく、蛇と言うよりは蛭(ヒル)か蚯蚓(ミミズ)であろう。その長き胴をぐねりと蠢かせる様もまた、その様な印象を強くする。

 そして目。歪な漆黒の体表に、ぽつりぽつりと思い出したかのように赤黒い目がぎょろりと浮かび、剥き出しの眼球で周囲を睨め付けている。醜悪にて奇怪。おおよそ既存の生命とは形を異にしているであろうその姿であろうと、しかしそれが竜たらんと思わせるものが胴の中程から生えた一対の翼である。

 蝙蝠(コウモリ)の如く皮膜のある翼は大きく、木々を飛び越えた体躯のさらに高みへと張り、翼に付いた鋭利な爪が暴力性を象徴していた。

 しかし――竜を見た者は口々に言うであろう。あれは化物だと。

 翼の先の胴の先端、顔たる部分を見てみれば、古木が絡み合ったかの様な歪な頭に、どこを見ているかすら判らない巨大な赤黒い目玉が見開かれ、不揃いな牙と爛れた顎がボロ布の裾の様に並んでいる。それは生物が捕食の為に用いるものというよりは、刃の欠けた鋸、ただ対象を惨たらしく傷つける為にあるであろう事は想像に難くない。事実、それはそういうものであった。

 木々を超える歪な体躯を持ち、多くの赤黒い目玉と巨大な翼、禍々しい牙に漆黒の体表。黒い竜。それは暴力と破壊の象徴たる存在であり、月夜の大森林の頂点に座するものであり、故に生きとし生けるものはそれを恐れ、森は静まり返っていた。何よりも、つい先程まで竜はその暴力を撒き散らし、蛮行でもって静寂をもたらしたのだ。打ち下ろす翼、切り裂く爪、噛み砕く顎、燃やし尽くす炎。全ての暴力の前に声を上げる者は無かった。

 その竜が、醜悪な顎を開き、端から腐汁を零す。草花が茂る地面に到達した腐汁は触れるもの全てを侵食し地面を穿って消失した。

 竜の赤黒い相貌が不揃いにぎょろりと蠢き、正面に向く。すると竜の体の節々から漆黒の霧が滲み出て竜の周囲に纏わりついた。哀れにも霧が触れた草花は火に焼かれる様に黒く爛れて灰となる。

 何者であろうとその生命を蝕み枯らす死の竜。ただ闊歩し尾を振るだけで全ての草木と生物を死に至らしめる災禍の竜は、しかし霧を纏った。それは戦う時の竜の動作の一つである。


 竜の前に対峙するものがあった。

 それは、また奇妙な存在である。死の竜に対してその姿は白亜に染まっている。月光を受けて煌めく姿は蝶の様にも見える。

 中央に矢尻の様な嘴状の部位があり、それを死の竜へと向けている。嘴からは下方に二対、細長い剣に似た脚が伸び、地面に刺さり体躯を支えていた。上方には二対の巨大な翼が伸びる。アーモンドを二つに割り、曲面を正面へと向けた形である。細い脚先から翼の先端までは木々をゆうに飛び越え、死の竜とほぼ同じ高さを持つ。

 肉厚な一対の翼、剣の様な一対の脚を四方に広げ、少しでも自身を大きく見せる白い蝶が勇敢にも死の竜の前に立ちはだかっている。

 この奇妙な白い蝶を、死の竜は知らなかった。再び目をぎょろぎょろと動かし、白い蝶の全身を眺めるが、しかしそれが何であるかを死の竜が知る事は無かった。

 それもそのはずで、この白亜の奇妙な蝶はつい先程にこの大森林で形を成した存在である。まだ、いかほどの経験も歴史も何も無く、ただこの形を成して最初の行いが死の竜の前に立つ事であった。故に死の竜はこの白い蝶の存在を知るはずも無く、更に言えばこの夜空の下にその白い蝶を知るものは誰一人として居なかった。

 しかし――『ウカ』を終えたばかりの白い蝶は己が成すべき事を理解していた。

 戦う事。護る事。

 白い蝶が翅を広げる。翅の後方に並んだ積層の板がばらばらと展開し、隙間から青白い炎を噴き出した。光の翅を広げている。地面に刺さる脚が土を抉りながら前へ進む。嘴が下がり、炎が生み出す力を抑えているが、それも直ぐに限界を迎えた。脚が浮いた。

 翅の炎から生み出される力をそのままに、蝶は放たれた矢の如き速さで竜へと飛んだ。嘴と翅の根元の部分を竜の喉元へと叩き込む。

 竜が呻いた。黒い霧が口から溢れ大きく仰け反り、首が天を向く。蝶の翅から出る炎は止まらず、その滑らかな表面を竜へと押し込み続けるが、竜も対抗する。黒く爛れた翼を救い上げる様に振り回し蝶を弾き飛ばす。

 竜の翼の膂力は凄まじいものがあった。蝶は吹き飛ばされ地面を滑りながら木々に激突して静止した。翅から出ていた力強い光の炎も止まる。土煙が竜と蝶の間に立ち込める。

 竜は前に出ず、翼を大きく広げた。突然現れた白い蝶を脅威として認識したのだ。ならば確実に相手を殺し切る為の戦い方。

 飛翔する。

 竜は多くの破壊の力を備えていながら、更には天空を舞う力も携えている。地上を睥睨し一方的に殲滅する為の身体と力。翼を二度三度と羽ばたかせるとその巨体は宙へと浮いた。体中から溢れる黒い腐汁が地面を焼く。喉を鳴らして牙の隙間から霧と黒い炎が爆ぜる。

 空から一方的に浴びせかける瘴気の炎は眼下の全てを焼き払うだろう。立ち込める霧を纏って月を背負った竜は、再び地面に降り立つまでに絶望的なまでの破壊を齎すものとなる――はずであった。

 土煙が晴れる。再び白い蝶が立っていた。翅を広げ、光の炎を吐き出し、地面に脚先を擦りながら前へ前へと突き進んだ。

 蝶の足が再び地面から離れる。翅の姿勢を正した。積層の板が一枚一枚並び立ち噴炎の方向を整えた。脚を閉じる。嘴を前へ。飛ぶ為の姿勢へ。先の竜への体当たりではない、力の方向を正しく揃え、遺憾無く発揮した飛び方。

 飛翔する。

 竜よりも速く飛び、高く飛び、竜が蝶を目で追うよりも速く上昇し、一瞬にして竜の上を取った。見下ろす側であったはずの竜が、二つの月を背にした蝶を見上げた。それが憎くて堪らないのか、牙の隙間から多くの霧を零しながら。

 白い異形の蝶が光の尾を引きながら飛び、空中で姿勢を変えて竜を見下ろした。開いた翅の先端、脚先に月光が煌めき縁取る。

 大森林を見下ろす大小二つの月の下、静かな光に照らされた空。白い異形の蝶と、黒い異形の竜が対峙した。


 それが一人の少女と、妖精の初陣だった。

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