人間の尊厳

雨月夜

人間の尊厳



 生命とは、尊厳と自由に満ち溢れた、素晴らしいものだと思う。



 少なくとも俺は、ずっとそう思って生きてきた。


 幼い頃から、優しい両親も、尊敬する先生も、みんなそう言った。

 多様性を主張する現代のメディアでさえ、常に「命の大切さ」を訴えている。


 だからそれは、疑いようのない真理だと思っていた。



 確かに、今までの人生、沢山の「辛いこと」「悲しいこと」があった。挫折もあった。順風満帆な人生、とは、とても言えないのかもしれない。


 3流と言われる大学を出て、冴えない会社に入り、上司に必死に頭を下げるだけの日々。


 でも、そんな俺にも、家族がいる。

 少し情緒不安定だが、誰よりも愛しい妻と、小学生になったばかりの可愛い可愛い双子の兄妹。彼らの存在に巡り合えただけでも、俺は十分すぎるほどに幸せな人間だと思う。




 だから俺は、生きることが大好きなのだ。


 この自由は、決して誰も侵害できない、美しい尊厳に満ちている。





 そんな俺にとって、重要な会議の前に鳴った電話口から告げられた言葉は、咄嗟に意味を解することが出来るものではなかった。




 「あなたの奥様が、アパートの屋上から飛び降りて救急搬送されました」




 俺は周囲に必死に頭を下げて会議をキャンセルし、慌てて妻の搬送された病院に向かう。取るものもとりあえず、財布とスマホ、スーツのジャケットだけひっつかんで会社の廊下を爆走した。

会社では常に「朗らかで礼儀正しく、部下思い」で通っている俺が上司も部下も押し退けて走るその姿は、非常に目立っていた。



 会社を出て、適当にタクシーを捕まえて、運転手に行き先を告げる。


 憔悴しきった俺の姿を見た運転手は、事情を察したらしく何も言わずに車を走らせた。今は、何も話しかけないでいてくれるその年配の男性の配慮がありがたかった。



 右手に握ったままのスマホの画面をチェックするが、病院からの連絡はない。

 小学校に入ったばかりの娘と息子の顔が思い浮かび、連絡すべきか一瞬考えたが、電話に出るであろう教員に何と言っていいかわからず、そのままスマホを閉じた。




 彼女は、出会った頃からずっと、情緒不安定な人だった。


 みんなが振り返るような美貌とスタイルを持つ彼女は、それでも何故かずっと「影」があった。


 その美しい瞳は常に憂いを孕み、長い睫毛が作る影がそれに艶を添える。形の良い桜色の唇は常に嘆きを呟き、小鳥のさえずりのような声が「死にたい」という音を作るのを、何度でも聞いた。

 でも、その「影」は、彼女の美しさに艶を添える役割を果たしこそすれ、損なうことはなかった。



 俺は、そんな彼女に惹かれて、求婚した。



 その美しい瞳が、明るい色に輝くのが見たかった。

 桜色の唇が笑みを浮かべたら、愛らしい声が「幸せだ」と囀ったら。それはどんなに美しいだろう。


 

 彼女は、家庭の事情に、少々恵まれない経歴を持っていた。

 でも、それもよくある「人生の試練」というヤツなのだろう。


 だから、それを一緒に乗り越えて、当たり前の「幸せ」を与えてやれば、きっと笑ってくれる。

 


 俺は、彼女に「生きる素晴らしさ」を、感じて欲しかった。

 それこそが、何よりの幸せだと思うから。




 しかし、彼女は変わらなかった。



 どんなに愛を囁いても、彼女が持ち得なかった「家庭」を築いても、その憂いが晴れることはない。

 「不安定になりがち」と言われる20代を過ぎ、愛おしい子宝に恵まれても尚、何も変わらない。



 正直俺は、そんな彼女に疲弊していた。

 どう接していいのか、わからなくなってしまったのだ。


 もしかしたら、彼女を嫌いになってしまえれば、その方が良かったのかもしれない。

 「メンヘラ」「かまってちゃん」と罵れれば、きっと楽だった。


 「変わらない奴なのだ」と諦め、突き放してしまえれば、きっとお互いに楽だったのだろう。




 でも、俺は彼女を愛していた。


 彼女自身も苦しむ、その「病気」の症状があるからと言って、どうしたら彼女を嫌いになることが出来ようか?

 それ位、俺の彼女への愛は、深いものだったのだのだ。




 俺は、彼女と一緒に生きて、笑って。しわくちゃのおじいちゃんおばあちゃんになって、沢山の孫に囲まれて死にたいという夢がある。




 「死にたい」と呟く彼女に、俺は何度でも愛を囁き、希望を説き続けた。

 時には何時間でも思いとどまるように説得し、時には気分転換に奮発してホテルのディナーに連れ出した。


 辛い病気には、一緒に立ち向かえばいい。

 病気のせいで笑えないなら、それはそれで仕方がない。

 生きる素晴らしさも、きっと病気さえ治れば感じることが出来る。




 そのためには、絶対に死んでしまったらいけないのだ。





 その甲斐あってか、今まで実際に「自殺」という行為を起こすことはなかった。


 だから今回、あまりに突然すぎる行動に、本当に心臓が止まるかと思った。


 心のどこかで「彼女は『死にたい』というだけで、きっと行動には起こさないのだろう」という安直な予測と油断があったのだと思う。

 彼女の不安定さという病を、甘く見過ぎていたのかもしれない。




 でも、彼女は「死」を選んだという事実が、目の前に突き付けられた。


 何がいけなかったのだろう、という思いがグルグル駆け巡り、行き場を失って吐き気になる。

 そういえば今日は昼飯を食べていないな、なんてことを思っていたら、病院に到着した。



 代金を告げる運転手の声がイマイチ頭に入らず、財布から万札を出して起き、そのまま無言でタクシーを降りる。いつもなら「ありがとうございました」と笑顔で挨拶すると決めている俺にとって、その行動は気持ちの良いものではなかった。




 外に出ると、空がまぶしい程に青い。キラキラとした日差しと、吹き抜けるさわやかな風が、初夏の陽気を感じさせる。


 ああ、これこそが「生命の素晴らしさ」だ。



 彼女はどうして、こんな美しい日に「死」なんて選ぼうとしたのだろうか。






 病院に入り、受付で事情を説明すると、妙齢の女性スタッフが対応してくれた。


 話によると、どうやら彼女は、一命を取り留めているらしい。


 それがわかっただけでも、涙が溢れそうになる。

 そんな俺の様子に気がついたその女性スタッフは、優しく、でもどこか義務的な笑顔と「大変でしたね」という言葉を表出する。そしてそのまま、手慣れた様子で、ICUへの道順を説明してくれた。



 その様子を見ながら、ふと「ここでは、人の死なんて日常でしかないのだろうな」と感じる。

 

 なんて寂しく、悲しい場所なのだろう。そんな場所に来ざるを得なくなってしまった彼女を、その原因となった「病気」を、改めて悲しく思った。







 辿り着いたICUは、まるで異世界だった。



 窓1つない狭い場所に、カーテンで仕切られただけのベッドが所狭しと並び、全てのベッドに人が横たわっている。その全員に夥しい数の機械が繋がれ、四方八方から無数の音が鳴り響いていた。




 圧倒的な、死の臭いに満ちている。


 ここは良くない場所だ、と、本能が告げる声を聞いた気がした。





 マンションの屋上から飛び降りた彼女は、偶然下にあった木がクッションになったらしく、思いの外軽傷だったらしい。それを説明した若い救命医は、話の途中に鳴り響いたポケベルを見て「じゃあ、そういうことで。あとは看護師に!」とだけ言って去って行った。


 俺自身も、早く彼女に会いたい一心だったので、都合が良かった。


 入れ替わりでやって来た看護師の持つ書類に適当にサインをし、彼女のベッドへと案内してもらう。正直、その書類の内容にきちんと目を通す余裕はなかった。




 早く、早く、彼女のもとへ。

 会って、「もう大丈夫だよ」と、笑ってやらなければ。



 案内してくれた看護師が「ココです」といったカーテンを、逸る気持ちのまま勢いよく開ける。

 その時の看護師の微妙な表情の意味も、今はどうでも良かった。







 ベッドに横たわる彼女は、虚ろな目をして天井を見上げていた。



 様々な機械が繋がれ、至る所に包帯を巻かれた彼女だが、思ったよりも重傷感はなかった。

 憂いを帯びた暗い表情は「いつも通り」と言えるので、むしろ、思ったよりも「元気そう」とも考えられるのかもしれない。


 そんな彼女の様子に、俺は、心の底から安堵した。


 いくら「無事だ」「軽傷だ」と言われても、この目で見るまでは信じられなかったのだと思う。その証拠に、全身の力が抜けて、傍に用意してあった粗末なラウンドスツールにへたり込むように座った。




 よかった、よかった。



 これでまた、元の4人家族に戻ることが出来る。


 彼女がいて、可愛い子供たちがいて。夕飯は彼女の手料理で温かい食卓を囲み、休日には4人で公園に出かける。時々遠出をしたり、外食を楽しんだり。子供たちの長期休暇には、また家族で旅行にも行けるのだ。今年は思い切って、海外に行くのも良いかもしれない。


 そして、時折「お父さんお母さん」の役割から離れて、2人でデートすることだって出来る。

 次のデートには、珍しく彼女が気に入った中華のディナーを、また予約しよう。





 彼女の無事な姿を見た今、自然と言葉が溢れ出してきた。



 「もう、大丈夫だからな」



 俺の言葉に彼女は、ピクリ、と少しだけ反応した。

 彼女が、返事が少ないのも無口なのも「いつものこと」なので、気にせずに言葉を続ける。



 「お前がいなくなったら、俺は生きていけないんだ。それくらい、愛するお前がいなくなるなんて、俺には耐えられない。だから、本当に良かった」


 「あいつらも、大好きなママがいなくなったら、すっごく悲しむぞ。あいつらが泣き始めると手に負えないのは、お前も知っているだろう?慰めるのだって、一苦労じゃないか。それを、俺一人にやらせようとするなよ。な?」



 彼女は、相変わらず天井を見たまま、コチラを見ようとはしない。きっと、病のせいとは言え「命」を粗末に扱おうとしたことが、少し気まずいのだ。




 だから、なるべく明るく話すように心がけた。

 無理にコチラを向かせる必要はない。聞いていてくれるのは、わかっている。



 そんな彼女が、少しでも希望が持てるように。明るい気持ちになれるように。

 俺は、言葉を選んで語りかけ続けた。正確には、溢れ出して止められなかった。



 「きっと、色々辛いことが重なったんだよな。お前はいつも、1人で抱え込んじゃうから。でも、それを気づいてやれなくて、本当にすまなかった」


 「家のことは、しばらく大丈夫だから。あいつらも、もう幼稚園児じゃないんだし」


 「俺だって、家事全般出来るんだぜ。実はチャーハンとか得意だから、今度お前にも食べさせてやるよ!だから、何も心配せず、しばらくゆっくり休んでくれよな」


 「そうだ!退院したら、みんなで旅行にでも行こうか!いつも子供の希望ばかりだから、たまにはお前の行きたいところに行こう。きっと楽しいぞ」




 俺はとにかく、陽気に語った。


 この語り口調はいつものことで、そんな俺に彼女が「あなたはいつも明るいわね」と言い、それに「お前と俺でバランスが取れるだろう?」と答えるのがお約束。そのやり取りをすると、彼女が少しだけクスリと笑うのが、俺にとっての幸せだった。



 今日は流石に、彼女は何も言ってくれない。


 状況が状況なので仕方のないことだろう。だからこそ、俺だけでもいつも通りでいなくては。




 「お前も、今回のことで、ちょっと懲りたんじゃないか?痛かっただろう?怖かっただろう?…本当に、大変だったな。辛かったな」


 「死んだら、何も出来なくなっちゃうぞ。1人ぼっちになっちゃうし。そんなの、寂しいじゃないか」



 そんなことを語りながら、1人で死を決意したり、苦痛に耐えたりしている彼女が思い浮かび、目の前の細い体を抱きしめたくなった。

 どうして俺は、肝心な時に傍にいてやれなかったのだろう。一緒に病気と戦うのだと決心したはずなのに。




 しかし、だからこそ今、目一杯の愛情を伝えたかった。

 それ以外に、今、俺が出来ることはないと思った。




 「お前のことを愛している人間は、俺以外にも沢山いるんだ。あいつらも、お義父さんやお義母さんだって。俺の両親も、お前が大好きなんだ」


 「もちろん、一番お前を愛しているのは、俺だけどな!本当に、心の底から、お前だけを愛しているんだ」




 彼女は、何も答えなかった。


 これもある意味ではいつものことなので、俺は気にしない。何も答えなくても、後からちゃんと笑ってくれるのを知っている。これが俺たち夫婦の形だ。


 だから、これで良い。きっと彼女には、ちゃんと伝わっている。





 でも、今日の彼女は、いつもと違っていた。

 その彼女の反応に、俺は冷や水を浴びせられたような気持ちになることになる。


 彼女は、少し首を動かして真っ直ぐにコチラを見て、口を開いた。

 その目があまりに綺麗で、俺は何かが突き刺さったような気さえした。



 「…どうしてあなたは、いつも、そうやって私を否定するの?」



 咄嗟に、意味がわからなかった。

 一体いつ、俺が彼女を否定したと言うのだ。


 呆気にとられた俺に対して、彼女は言葉を続ける。



 「私は、死にたいのよ。生きていること自体が、どうしても苦痛なの」



 生きていることが、苦痛?

 さっぱり意味がわからない。


 きっと、病気のせいでそう思ってしまうのだろう。なんてかわいそうな病気なのだ。




 だから俺は、彼女に「周囲からの愛」を伝えようとした。それが病気と戦う活力になると思ったから。


 でも、そんな俺を見透かしたかのように、彼女が言葉を続ける。



 「何故、愛されていれば幸せなの?私は愛されることが苦痛で仕方ない。その人達のために生きていかなきゃいけなくなるから」


 「生きるという事自体が苦痛で、息をする事に絶望する私の気持ち、あなたは考えたことがある?」



 いつも冷静で淡々と話す彼女にしては珍しく、感情が滲んだ言葉ばかりだった。

 それにまた、俺は戸惑ってしまう。



 ずっと、彼女の感情のこもった声が聞きたいとは思っていた。でも、淡々と話す彼女こそが彼女だと思い、その些細な願いは封印していた。


 でも、俺が聞きたかった「感情の籠った声」は、これではない。




 「私は、病気じゃないわ。暗い部分も含めて、それが私よ」


 「何故あなたは、私を『愛している』と言いながら、私の暗い部分は認めてくれないの?」




 俺は、どうしても、彼女の言葉の意味がわからなかった。


 だって、俺はずっと、彼女の一番の理解者として、彼女を支えてきた自負があったから。誰よりも彼女を愛し、その存在をまるごと認めてきたつもりだ。


 だから、もしかしたら「わかりたくなかった」が、正確なのかもしれない。




 でも俺は、それからは目を背けて、彼女に笑いかけた。




 「何を言っているんだ。俺はお前のことを、ぜーんぶ愛しているよ」


 「きっと今、お前にとって、本当に辛い時なんだと思う。でも、明けない夜はないさ!」


 「またすぐに、元気になれるよ。だから、絶対に大丈夫。心配するな」




 心からの言葉のハズなのに、何故か上滑りするように、空虚に響いていく。

 彼女はやはり何も答えずに、ただ静かに目を閉じてしまった。





 唐突に、周囲の音が五月蠅かった事に気がついた。


 ピーピーと鳴る機械の音が、隣のベッドの老人の呻き声が、走り回る看護師たちの足音が、痛いぐらいに耳に響く。

 鼻を突くような薬剤のにおいも、圧迫するような白過ぎる空間も、いつの間にか冷めていた全身の汗も。全てが、痛いくらいに五感に突き刺さってきた。


 足元が、世界が、歪んでいく。


 自分が座っている小さなラウンドスツールが、ひどく頼りないものに感じた。






 彼女が、再び目を開いて、空虚に天井を見つめる。


 そのまま、ただ独り言のように、呟いた。



 「生きる『自由』って、何なのかしらね?」



 無味無臭のような、乾ききったような、色のない声だった。

 問いかけのカタチこそ取っているが、俺に答えを期待していないことだけは、よくわかった。



 「人って、生きる自由が認められていると言うじゃない?」


 「他人を殺しちゃいけないのは、その人の『生きる自由』を奪うからでしょう。でもそれは、全員が『生きたい』と思っていることが前提なのよね」



 何を当たり前のことを、とは、言えなかった。


 この時初めて、彼女がまるでバケモノか何かに見えてしまった。

 何年も連れ添った、愛しい女性のハズなのに。



 「何故、死ぬ自由は認められないのかしら。…何故、私から自由を奪うの?」



 それだけ呟いて、彼女は再び目を閉じる。

 その整った眦から、一粒の涙が、真珠のように滑り落ちていった。





 彼女の涙を見たのは、これが初めてだったと思う。


 情緒不安定な人であるが、どこか感情が欠落したような人でもあったから。


 でも俺は、その涙を拭うことは出来なかった。

 気の利いた言葉も、1つも出ては来なかった。


 身体は鉛のように重たく、喉は何かが絡みついたかのように息が出来ない。




 俺はただただ「どうして彼女は『生きたい』と思ってくれないのだろう?」と、馬鹿の一つ覚えのようにグルグルと考えていた。







 人間の尊厳

 (片側しか認められない自由なんて)

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