【終章(フィーナ)】



君の横を寂しさが

通り過ぎるその前に

連れ去ろう

(松岡英明「AGAIN AGAIN AGAIN」)


 春のあるよく晴れた日の午後、あたし(フィーナ)は麒麟と会った。

前日の昼休み、突然、マージイの親類を名乗る電話が勤め先に入ったのである。呼び出されて電話に出ると、それは麒麟の声だった。すぐにわかった。たった一度でも言い争ったことがある相手の声を覚えてしまうのは、あたしの特技だ。


待ち合わせ場所は、会社の前の中央公園(セントラルパーク)。

陽だまりの中、楠の巨木の前のベンチで、眠るように目を伏せている姿をみつけた。

女ものの白いコートには見覚えがある。マージイの引越しを手伝った日、マージイが着ていたものだ。光を淡く反射してまるで天使のようだ。

一瞬、声をかけそびれた。

あたしは、見たのだ。彼を守るように肩に降り注ぐ陽射しの中に、マージイの姿を。

「ライルさん…!」

 思わず叫んでしまう。その声に麒麟が目を開いた。

 立ち上がって軽く会釈をする。

 やっぱり目立つ。

 髪を明るい金茶色に、目を緑に変えても、以前の彼をよく知る者なら、おや、と思わぬものはないだろう。ただ、かつて彼の体を満たしていた、あの白い炎のようにぎらぎらした緊張感は、驚くほど消え失せていた。

「呼び出して、ごめん。マージイの身内ってフィーナしか思い出せなくて」

そう言って、真っ白なスプリングコートのポケットから、白いハードカバーのノートを引っ張り出した。

「これ、マージイの形見に。あんたに読んで欲しいんだ」

「でも、あなたは?」

「俺、もう読んだ。俺には必要ないんだってわかったから、あんたにあげる」

 はにかむように笑う。無邪気な笑顔。

「あのとき…ライルさんが亡くなった朝、無言電話くれたのも、あなたなのね」

 こくん。彼は素直に頷く。

「ちゃんと、葬ってもらえたかが心配だった」

 あたしは、溜息をついて答えた。

「…回収…されたわ。あの人が生まれた病院…いいえ、あの人を産んだ病院にね」

「回収?」

「あのひとは、ね。国の財産だから。遺体は貴重な研究資料なの。発見者には、国に通報することが義務付けられていたのよ。悪く思わないでね」

「そうか…」

 麒麟も、静かに溜息をついた。

 あたしは、重くなった気持ちを振り落とすために顔を上げた。

「あーあ。まるで標本ね。あのひとも。あなたと同じ人形だわ」

 人間そっくりに作られた、人間代わりの人形。人形のように生きる為に人工的に生み出された人間。二人の恋はまるで笑い話だ。

「恥ずかしいわ。人間ってこんな打算的な生き物なのよ。技術革新だの、医学の発展だのって大義名分の為なら、こんな人体実験まがいのことも平気でやってしまうのよ」

 吐き捨てるように言葉にするあたし。涙が突然噴きだしてきて、慌てて手で顔を覆った。…情けない。機械人形の麒麟の方が余程ピュアだ。

「あんたの罪じゃない」

麒麟の温かな声がした。かがみこむあたしの頭上に降り落ちた。あたしの両手をしっかりと握ってくれる。

顔を上げると、涙越しに、麒麟の笑顔が有った。木漏れ日に溶けるような笑顔が、あたしの情けない悲しみを包み込む。

「…人間だとか、人形だとか、そういうことじゃなくて。マージイも俺もおんなじなんだよ。…いのち、なんだよ、多分。どんな形で生まれてきても、この世に生を受けた以上。俺も、マージイも、あんたも。…マージイはそれを知ってたみたいだけど」

 そして。少しかがんで、あたしの目を見つめる。

「だから、あんたの罪じゃない。それに、マージイに墓なんていらない。あんたは彼女をとても大切に胸にしまってくれてる。それでいいんだ」

 その瞬間。あたしは彼をとても美しいと思った。やはりマージイに、彼はとても必要不可欠な存在だったのだ。そう、はっきり悟った。

「これから、どうするの?」

 目をこすりながら、あたしは聞いた。

「さあ、ね。でも他の土地に行くよ。取り敢えず」

 彼は明るい笑顔でそう言う。

「俺の体も、永久なわけじゃないんだ。姉貴を裏切った以上、俺はもう故障しても部品の交換はできなくなるだろう。俺の部品が錆び始めたら、そのときやっと、俺、死ねるんだ。マージイの思い出は俺だけが抱き締めて死んでいく。誰にも、渡さない」

 美しい横顔に、悲しみを湛える彼。あたしはたまらなくなって言った。

「ねえ、麒麟。信じてもらえないだろうけど。あたし、さっき見たのよ。あなたの傍にいるマージイを。あなたを護るように見下ろしてた」

 彼は…きょとんとした顔をした。驚いた、と言うより力が抜けたような表情。

「ど…どんな顔してた? あいつ」

「微笑ってたわ。とても優しい…神様みたいな笑顔。見てるあたしまで幸せにしてくれるようないい笑顔」

「そうか」

 穏やかな笑顔で麒麟は呟いた。

「わかるような気がする。あいつ、いるんだ。いつも、ここに」

 麒麟は陶器のようなまぶたを伏せ、いとおしげに右の肩に手を置いた。そのとき、あたしは再び見た。マージイがその手にそっと右手を重ねるのを。


 あの日、早朝にかかってきた無言電話に、妙な胸騒ぎがして、マージイのコテージに駆け付けた。

 麒麟の姿は、建物のどこにも既に無かった。

 あたしの通報に、カイス病棟から派遣されてきた医師が先にマージイの死を確認していた。マージイの兄と名乗る青年医師の胸を、あたしは何度も拳で殴った。何故、もっと早く、自ら寂しく朽ちていく彼女を救ってくれなかったのだと。もっと温かな場所で充分な看護を受けながら、少しでも長く生きることを何故彼女にさせてやらなかったのだと。

彼は、あたしの肩をそっと抱くと、マージイの寝室へとあたしを導いた。

「見なさい」

 部屋いっぱいに差し込む朝の光の中、彼女はそこにいた。前に尋ねた時よりも更に、ひとまわり小さくなって。

 本当に、これが、マージョリー・ライルなのだろうか。どちらかといえば大柄な体で、人を寄せ付けない、毅然としたパワーを発しながら職場を闊歩していた知的な女性。あの、凛々とした強さにあたしは憧れていたのだ。

 彼女の直接の死因は、持病の心臓病だったけど、それを早めたのは栄養失調だったという。

 だけど。彼女を痩せさせてしまったことで、麒麟を責めることは、あたしには出来ない。彼は彼なりに一生懸命だったのをあたしは知っている。むしろ、彼女の方が生きる情熱を既に失っていたのだ。

 それに、そこに横たわっている彼女の亡骸は本当に切ないほど美しかった。

 細くなり、色も抜けて金茶になった髪が頬に散り、多分麒麟が施したのであろう、桜色のルージュをのせた唇は、この上ない幸せに微笑んでいるようで。

 かつて彼女の心を堅く包んでいた厚い殻から、彼女は完全に解き放たれたのだ。

 真っ白なまぶたに、朝の光が集まる。…部屋中に満ちている白い光は彼女を包むために天から惜しみなく降っていた。

 …その頃、彼はこのノートを抱えてどこにいたのだろう。

 マージイの臨終を看取り、自分の役目を終えた彼はたった独りで、彼女を失った跡の深い深い空虚と戦い、悲しみに耐えていたのだ。その為の時間に三か月半を費やして。


「聞いて欲しいことがあるの。あなたに。ライルさんの代わりに」

 彼女の共通の友人として聞いて。

「…あたし、結婚するの。レーンと」

 麒麟は、一瞬、何と言うか…泣きそうな表情を見せた。

「おめでとう。二人の幸せを祈る。心から」

 麒麟は胸を押さえて微笑んだ。マージイの分も、という意味の無言の言葉。

「来てくれてありがとう、フィーナ」

 握手を求めて、彼が右手を差し出す。

「あたしこそ、嬉しかった。あたしに連絡くれたこと」

 大きな彼の掌。何故だか、涙が滲んでくる。この人形にあたしは友情を感じ始めていた。

「会えて、良かった。麒麟」

「俺も。さようなら」

 もう一度、両手で強く握ったあと、彼はあたしに背を向けた。陽だまりの中に微笑みが、残像としてしばらく残っていた。

 彼とはそれきり会っていない。

 あの美しい人形は、自分を愛してくれた幾つもの命を思い出として体の中に蓄積させ、歪んだ時流の中を漂うように、ゆるりゆるりと生きてゆくのだろう。この世界のどこかで、今この時も、これからも。


 正直なところ、ノートを読み終えた時、あたしはとても辛かった。腹立たしいとさえ感じた。

こんな寂しい生き方があるだろうか。

何故、彼女はわざわざ自分を、こんな深い孤独へ追い込んでいったのだろう。あたしや、レーンが彼女に少なからず感じていた行為に気づいていてくれた、というのに。

それで幸せだったと言い切るマージイが悲しくて恨めしかった。 

あるいは。彼女と麒麟は、あたし達には手の届かない世界に生きていたのかもしれない。

あたしは孤独ではないし、彼女ほど激しく誰かを愛せない。でも、レーンといれば幸せだし、一緒に年をとっていきたいと思う。

あたしが見る限り、マージイは不幸だ。しかも自分で自分を不幸に追い込んでいくなんて、あたしには理解できない。

でも。幸せの度合いなどというものは、比較できないものかもしれない。どんな生き方でもあんなにも満たされた笑顔で人生を締めくくれる。それは最高の幸せなのかもしれない。

マージイのノートの一番最後のページには、正確な活字のような文字でこう書かれていた。


“約束。

 お前の生きていた、すべてを記憶する。俺が、お前の生きていた証拠。お前が俺の生きる理由。

 永遠よりも永く、お前を愛しているよ…マージイ”

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きりん 琥珀 燦(こはく あき) @kohaku3753

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