【冬(永遠)】
ねぇ どうして手を離すの
いつまでもここにいるって言ってたのに
ねぇ 誰か教えてよ
大事なものは 何故いつもなくなるの
(鈴木祥子「Happiness」)
冬が深まるほどに、私の体は急速に弱っていった。
床に入ったままの毎日が続く。ほとんどのエネルギーを、きりんを壊そうとした、あのとき使い果たしてしまったのかもしれない。
発作の感覚は少しずつ短くなる。フィーナが入手してきてくれたという鎮静剤で一時的には治まるが、根本的な治療にはならないようだ。
本当は、もっと早く症状が出て当然だったのだろう。今まで薬で押さえていた病気の進行が押さえ切れなくなっただけのこと。
やはり、終わりは近い。逃げられない。これは確信。
フィーナはあれ以来、週に二度は訪ねてきて、きりんに私の世話の仕方を教えてくれている。
彼女に言わせれば、ロボットとの生活など、生理的に耐えがたい物だそうだが、二人の喧嘩腰の家事の様子は見ていて退屈しない。結構名コンビなのではないか、と思うくらいである。
吹雪の日曜日の朝。玄関に隣接したサンルームの籐椅子で、眠っていた私は、ノックの音で目を覚ました。
「フィーナの奴、こんな天気の中、わざわざ説教しに来ることねーのにさ」
ぶつぶつ言いながら、迎えに出たきりんの背中が、震えるのが見えた。
「ジン…」
「お迎えに参りました」
「もう我が儘は許しませんよ、麒麟」
ジンが押す車椅子の上、真っ赤なコートを着たペリエ。
「どうしてここが…」
「若い男性の声で、あなたが近所の住人に重傷を負わせた匿名の通報が有りました」
「あいつら…」
きりんの“頭脳”には、私を襲った少年たちの姿が浮かんでいるのだろう。
「きりん…!」
椅子にもたれ、やっと立ち上がった私を数人の武装した男が押さえ込む。
「久しぶりね、マージイ。災難でしたね。本当に、かわいそうに。でもお陰で私たちは麒麟を発見することができたわ」
「マージイに触るな!」
「動かないで! 動いたらこの女の命は無いわよ。…もっとも、もうひとひねりで死んでくれそうな様子ね」
そして、ペリエは私をゆっくりと見やる。
「ねえマージイ、いいことを教えてあげる」
白い悪魔の様にペリエは笑った。
「私ね、麒麟と寝たのよ。何度も何度も…私はキールと寝るために、麒麟を作ったの。麒麟は本来そういうロボットなのよ」
きりんは“そういう”ロボット。その言葉は私の思考を一瞬凍らせた。では。あの時のことは奇跡でも何でもないの?
かたかた、車椅子を自分で動かしながらペリエが私の方へ近づいてくる。
「ねえ、麒麟。彼女を抱いたのは同情? それとも相応の金額の交渉があったのかしら。…仕方ないわよね。あなたは本来誰とでもそういうことができるロボットとして作られたんだもの。…でも、私は本当は他の女にはあなたを触れさせるつもりはなかったけどね」
膝まづく私を見下ろし、細く美しい指先が私の顎をそっと持ち上げる。
「麒麟は、上手だったでしょう? すべて私のプログラムなのよ。最初の製作段階でのプログラミングだけじゃないわ。何度かの実践で、私の好みを学習させて…」
「止めろ!」
きりんが、叫ぶ。…いや叫ぶというほど大きな声ではなく、震えるような小さな、けれどもこの場所の空気を断ち切るような声。
「止めてくれ。これ以上俺たちの関係を言葉で汚さないでくれ。…同情なんかじゃないんだ。俺、愛してる、マージイを」
苦しそうにきりんが呟く。
「俺、マージイの想いを受け止めてやる資格なんてない…そう思ってた。お前の想いは本当に純粋で、綺麗で。でも俺は…ただの“男娼ロボット(セクサロイド)”で」
ああ、だから、なの? “あの”時まで、あなたが私を抱かなかった理由は。そして、あれ以来二度と私を抱かない理由は。
「だけど…できることなら、お前の最初の男になりたかった。俺、本当に、苦しいくらいそう思ってた。俺の欲望として」
苦しそうに目を伏せ、唇をきりきりと噛むきりん。
ペリエは勝ち誇るように艶然と笑った。
「私は、構わなかったのよ。愛する相手が弟であっても。でも、キールにはそれが耐えられなかったの。弟だったから彼は死んだの。だから、私は、弟ではないキールを作ったの。彼は私を愛し、私に愛されている以上、生きる意味があるの」
「でも、俺は今、自分の意志でここに来てここで生きている。マージイの傍で」
はっきりと言い放つきりんの声。俯き、床を睨みつけ、両手のこぶしを震わせながら。
「…俺は、マージイを愛しています」
「やめて! キールと同じその顔で、私以外の女を愛しているなんて、言葉にするなど…恐ろしいこと。許さない。許しません!」
ペリエは車椅子に座ったままで、長い髪を振り乱して叫んだ。両手で自分の腕を強くだきながら、ヒステリックに喚き散らす。髪についていた雪が飛び散り、目の前の私の頬にもかかった。冷たい雫が針のように痛い。雪の妖精の女王のようだ。私はぼんやりとそう思った。…お願い。私の大切な彼(カイ)を連れて行かないで下さい。
「この女を、愛している? その女に何を吹き込まれたか知らないけど、いったいロボットのあなたが言う愛って何なの?」
ペリエの嘲笑をきりんは真っすぐな目でまるごと受け止める。
「うまく、言えないけど」
しばらく、目を伏せて黙り込んだ後。彼は言葉をぽつぽつと繋ぎ始めた。
「俺たちは互いの悲しみを分け合って生きていける。俺もマージイも、自分以外の誰にもわからない、どうしようもない孤独の理由を抱えている。でも…俺はマージイの孤独をこの手で包みたいと思ったときから、孤独ではなくなった。マージイも俺の不安を知って、俺の存在を一生懸命支えてくれる。俺にとって今、愛と言えるのはこういうことです」
そうね、そうよ、きりん。あなたの孤独を知った時から、私もカイスとしてのコンプレックスとも、死の恐怖ともきちんと向き合えるようになった。
「キールもあなたを愛していた。だけど愛の形が、性質がまったく違っていた。あいつは、あなたを姉として心から愛していたよ。でも、あなたが望む形の恋をあなたに与えることは不可能だった。タブーがどうこう、ということじゃない。それができるなら、あいつはあなたの想いを受け入れていただろう。自分が生き続ける限り、あなたを苦しませるだけだから、彼は逃げたんだ」
それなのに、キールは逃げきれなかった。死んだ後も、その霊はペリエの愛に絡めとられ逃げられなかった。
きりんはそんなキールの辛さを丸ごと抱えて生まれ、今もキールの孤独を引きずって生きている。
「あなたは、キールの本当の悲しみを、理解していなかった。あなたは、あいつに多くの愛を注いでいたつもりだったろうけど、それは彼の、そしてあなたの孤独を深めるだけだった。俺もそうだった。あなたに愛されているのがわかっているのに、俺は寂しかった。虚しかった」
ペリエは表情一つ変えずにきりんの目を見つめている。
「あなたに感謝しています。だけど、今は見逃してください。クゥオン博士」
「そんな呼び方はやめて、キール」
「俺は、キールじゃない。だけどキールの悲しみはよくわかる。キールと一つの魂を共有した友として、俺はあなたに言うよ…ペリエ・クゥオン博士。俺キールの魂を継いでるから、あなたに対する気持ちは姉貴への愛情だと思ってた。けど、違う。始め思ってた隷属ってヤツでもない。…これは多分同情だ。自分を生み出してくれたことに、敬意さえ感じている、あなたへの。女性として持って行き場の無い悲恋に苦しむあなたへの同情だ」
いたわりと、慈しみに満ちた、澄んだ彼の瞳。でもそれは、間違いなく、恋人へのまなざしではない。
「キールの魂を解放してくれ。もう、キールを無理やり自分の悲しみに縛り付けるのは止めるんだ。でないと、あなたまで不幸なままだから」
きりんは膝を床に着いた。
「あなたが戻らないなら、今ここでマージイを殺します。…そう言ったら?」
ペリエの問いに、きりんは一瞬目を見開き、その後本当に微かに溜息をついた。そして顔をゆっくりと上げ、
「その前に俺があなたを殺します」
きっぱりとそう言った。
私はこの時のきりんの顔を、とても美しかったと記憶している。こんなにも恐ろしいことを言っているのに、彼のペリエを見つめる瞳に憎悪はない。荘厳で絶対的な光を持つ、まるで神のように、激しくしかし静かな瞳でそこに彼はいた。
私を取り囲んでいた男たちは、きりんのそういう姿に圧倒されたのか、呆然と立ち尽くしていたが数秒後、一人が解き放たれたようにきりんの方に走り出した。
そのとき、沈黙を切り裂くようにペリエの笑い声が響く。
「やめておきなさい。お前などに麒麟を取り押さえるなど到底不可能です。そんなことより大事な人質が逃げないように押さえておきなさい」
キイキイと軋むような声でペリエは笑う。でも、何故か彼女の笑い声には狂気よりも崩壊の匂いがする。
「ねえ、麒麟。何故その女にそこまでこだわるの? そんな女、放っておいても三日も持たずに死んでしまうのに」
「あなたにマージイの人生をそんな形で踏みにじる権利はない」
真顔のきりんの言葉を、
「どうしようもない欠陥品ね。製造者を他の女のために殺そうなんて」
ペリエは鼻で笑い飛ばした。
「博士、破壊しますか?」
助手の一人が銃を取ろうとするのをジンが制する。
「殺すなら殺してくれ。だけど、せめてもう少しだけ…」
俯き、膝をついたまま、きりんが懇願する。
「もう少しだけ待って、彼女を静かに見送らせてください。この腕の中からマージイを旅立たせてやりたい。その後なら俺、壊されてもいい」
「きりん…」
見ていられない。プライドの高いきりんが、一番頭を下げたくない相手を前に、私の為に頭を下げている。
そして。それ以上にペリエの悲しみが痛かった。愛しい人にカケラも愛されていないことを思い知らされた、彼女の心の痛みがわかるから。
ペリエは目を閉じて、静かにゆっくりとこう言った。
「もう一度、命令します、麒麟。戻っていらっしゃい。そしてキールとして私と永遠に暮らすのです。あなたはその為に生まれたのだから」
きりんは目を伏せ、ゆっくり首を横に振る。
静まり返った空間にペリエの溜息。
「帰りましょう、ジン」
「よろしいのですか?」
「今は何を言っても無駄なようです」
ジンに車椅子の方向転換をさせながら、彼女は振り向いて言った。
「戻ってくるのですよ、キール。私の所へ」
笑顔だった。初めて見る、彼女の優しい笑顔。限りなく優しい、はかない笑顔。
膝の力が抜けて、座り込んでしまった私を、きりんは抱きあげて寝室へ運んでくれた。
「ねえ、ペリエ可哀想だった。あんなに冷たくしないであげて」
あの人の心の傷を想うと、私の心臓まで痛むの。
「お前が口挟むことじゃねえよ。黙ってろ」
いつもの調子の乱暴な言葉。でも、優しいあったかあい声。私の体をそっとベッドに降ろし、頬を撫でてくれる。高熱で火照る頬に冷たい指が心地いい。
「指が…冷たいとね、その人の心は…あったかいんだよ、きりん」
「なーに言ってんだよ、人形相手に。ばーか」
きりん、優しく見下ろして笑う。私の鼻先をちょっとつまんでみせる。
…ああ、きりんが今ここにいてくれる。それで私は充分です。
私は幸せです。世界中の孤独な人々に申し訳ないと思うほどに。
翌日、ジンが再び訪ねて来た。
「マージイ様」
熱っぽい眠りの中に柔らかく入り込んで来るジンの声。目を開くと、穏やかな笑顔が私を見下ろしている。
「お前に、用があるってさ」
きりんは腕組みをしてドアにもたれている。
「大丈夫だよ。ジンは女に甘い臆病じいさんだから、お前に下手な手出しはできないさ」
「相変わらずですね、彼は」
苦笑いするジン。
「…ホントウ。素直に“信頼できる人だ”って言えばいいのに」
私は枕に埋もれたまま、頬だけでどうにか微笑んだ。床を離れるどころか、寝返りを打つのもやっと、というほど体に力が入らない。
「キール様が麒麟のように何でも口に出せる性格でいらっしゃれば、あんなことにはならなかったでしょうに」
ジンは、眩しそうにきりんを見ている。
「きりんを取り戻しにいらっしゃったのですね」
「違います。今日は、マージイ様にお伝えしておきたいことがあって参りました」
ジンは静かに言った。
「あなたと麒麟は、いろいろなことがわかり合い過ぎて、肝心なことを伝えあっていないところがある。麒麟が伝え足りない部分を今のうちにあなたにお話しせずにはいられなかったのです」
彼の言葉には、まるで友人同士で話をするような響きがある。私は信頼を込めて、彼の目を見つめ返した。
「余計なこと言うなよ、ジン」
きりんが脅すように釘をさすが、
「余計なことを言いそうになったら止めて下さって結構です」
ジンはひるみもせずにこにこして答え、私を見下ろした。
「麒麟は、はじめからあなたの出生のこともすべて知っています」
「え…?」
「あなたを最初にラボにお呼びする前に、あなたのご素性についてはある程度調査させていただきました」
…では。きりんは、私が心に抱えている大きな欠落も、それを隠し通そうとしていることも、ずっと知っていたのだ。
「あなた方の出会いは運命だったのだと思います。人工の生命という意味で、あなたと麒麟は似過ぎている。深く惹かれあえば、離れられなくなるのは目に見えていた。…だからこそあなたを彼から遠ざけようとしたのです。ペリエ様の悲しむ姿を見るのが辛かったのは勿論ですが、それ以上にあなたの貴重な日々を無駄に生きて欲しくはなかった」
「あなたは、私がそう長くないことをその時もう知っていたの?」
「…カイスはもともと短命なのです。平均寿命は三十年。四十歳まで生きた者はいません」
知らなかった。そんなこと、私は聞かされていなかった。
サイリは…知っていたのだろうか。自分の寿命があと十年あればいいところ、だなんて。
…知らないはずがない。彼はカイス計画に直接関わっている医学博士なのだから。
「知能の高過ぎる人間は、一種の奇形なのです。頭を使い過ぎる分の代償は、体のどこかに欠陥として現れる。それがあまり極端な場合、プロジェクトから外されて、その死までの生活を国が全面的に補助する。…あなたがプロジェクトの対象外とされた理由は、心臓の致命的な欠陥だった。知能は他のカイスよりも格段高いのに、心臓だけが弱っていく病気を生まれつき抱えていた。あなたは、その残された僅かな時間を人間として幸福な生活を味わうために、民間に出されたのです」
では…私は、なんと無駄に時間を使っていたのだろう。失敗作であることにこだわっていじけて、死ぬときまでただぶらぶらと生きていこうとしていた。そんな生活に光を投げかけてくれたきりんの苦悩を、考えもせずに自分勝手に恨んだりして。
「私は、すべてを麒麟に伝えました。あなたの余生は、平穏の幸福で満たされるべきであって、我々の世界に関わらせてはあなたのためにならないと。だから、一度は彼もあなたを自分がら遠ざけようと、ああたに辛く当たってみせたのです」
そう、あの冷たさは愛だったのだ。私の平穏のために、彼は私の憎悪を敢えて受けようとしていたのだ。
「しかし、彼は、あなたの孤独を受け止めてやれるのは自分以外にない、と気づいてしまった。ペリエ様への気遣いとの板挟みで、彼は悩みに悩んだ。そして自分が貴女を愛していると確信したとき、ペリエ様を振り切ってあなたの命をまるごと受け止める覚悟でここへ来たのです」
いつからか、きりんが嗚咽を噛み殺している音に気づいた。彼は、ドアのところでしゃがみこんで顔を背けている。
「麒麟は、あなたに心から甘えてほしがっていた。なのに、あなたが秘密を持っていることで互いの間に築いている壁が見えてしまう。自分はそんなに、現実のパートナーとして頼りないのか、そう彼は悔しがっていました。…あなたは彼に何の気兼ねもすることなく、心を預けていいのです」
「あなた、きりんとずっと連絡をとっていたの? 彼がここに来てからも」
「“あの日”、電話で麒麟を呼び出したのは私なんです」
あの、間違い電話が?
「麒麟は、検診にも行かなくなってしまったあなたを気遣って、自分から私に相談を持ち掛けてきました。それは、彼にしてみれば余程の勇気が必要だったのでしょう。私は、その信頼に応えるべきだと思いました。だから、麒麟探しに躍起になっているペリエ様に隠れて、麒麟を励ましつづけました。…本当にあんなにも取り乱す麒麟を私は初めて見ました。あの激しさはキール様には無かった、麒麟だけのものでした。…私はカイス病棟のサイリ医師に連絡を取りました。そして、麒麟に発作の鎮静剤を与えるために、あの日電話をしたのです」
鎮静剤? そうだ。カイス向けの心臓発作の鎮静剤を普通のお嬢さんのフィーナに入手できるはずがない。…でもそれはジンだって同じだ。
「どうして、ジンにそんなことができるの? カイスプランは国家のトップシークレットでしょう?」
「カイス博士は私の叔父です」
ジンは目を伏せて言った。
「五十年前、医学生だった私は、カイスプランには反対の立場を取っていました。人類発展の名目のもとに、道具のように生命を作り出すことを、どうしても納得することができなかった。そして、叔父の権力の大きかった大学を飛び出した。今思えば、幼少のころから慕い尊敬し続けてきた叔父へのコンプレックスもあったのでしょう。そしてペリエ様の研究に参加しました。弟を失った悲しみを狂気めいたエネルギーに換え、彼そっくりのロボットを作ろうとしている。その執念の方が、私にはカイスプランの趣旨より余程理解しやすかった」
「カイスは、神の祝福を受けていない生命なのね。だから短命なのね。あなたも、そう思うのでしょう?」
ジンは首を横に振った。
「この世に生きる資格のない生命など有り得ません。ペリエ様から私はそう学びました」
「ペリエから?」
「ペリエ様は恐ろしい方です。あなたもそう思うでしょう?」
ジンは私の目を真っすぐ見て尋ねた。私は、言葉が浮かばなくて視線を逸らしてすなった。
「だけど私は彼女を愛しています。情熱のために時間さえ止めてしまうほどに激しいあの人を。どう見ても狂気でしかない生き方をしている彼女を愛した時から、私は、私の心の声にだけ正直に生きようと決めたのです。…だから、あなたにも生きる資格はあると思います。人を愛する資格も。麒麟だってそうです。ひとつの命なのですから」
「ジン…」
「それに、短命であることが、必ずしも不幸であるとは言えないでしょう。現に、あなたに先立たれる麒麟はどうなのです? それに半永久的に孤独の中で生き続けるペリエ様と、麒麟との愛に埋もれて死んでいくあなたと、どちらが幸せなのでしょうか?」
ジンの灰色の目から涙がこぼれ落ちた。ああ、この人も、私と同じ苦しみを抱えている。
「ペリエ様は何故あなたなのだとおっしゃいました。何故あなたでなければ彼を幸福にできないのかと…私の方が、余程麒麟を愛しているのにと、泣いていらっしゃいました」
ペリエは、あの雪の日以来、きりんを作ったときのことばかり、繰り返し言っては泣き暮らしているという。
『あの人はずるい。私がどれほど長い間、麒麟を待っていたか。あの女にわかるはずがない…。キールを想い続けて苦しくて、その想いがキールを殺してしまった…。キールがいなければ私、生きる意味なんてないのに。
だから、どうしてもキールの生まれ変わりをこの手で作りたかった。完璧なキールのコピーである人間型ロボットを。でもそれを作る資金は、私が一生かけても作り出せる金額じゃなかった。
そこに、ラグジュアリィ社がマヌカノイドの計画を持ち込んできたのよね…。企業の金儲けの為に私の頭脳を売ることに、ためらってなんていられなかった。完成品の五十年拘束を交換条件に、やっとのことで資金を得て…ねえジン、あなたは知ってるわよね。私があの時、弟への愛をラグジュアリィに売ったんだわ。
それから麒麟を完成させるのに、五年もかかったわ。そして契約が切れるまで、五十年待ち続けて、やっと、やっと私は麒麟を抱き締めることができた。…なのに何故、突然現れた女が麒麟を奪い去ってしまうの? あの女の為にあの子は私を殺そうとまで言ったのよ。ねえジン、こんなひどいことってあるのかしら?』
「それでも、ペリエ様はわかっているのです。麒麟があなたを選んでしまった以上、自分には麒麟を幸せにできないのだと。だから、待つのだと言っては、最後に笑顔を作って見せるのです。彼が戻ってきたとき、マージイよりも深い愛情で彼を包んで、マージイのことなんて忘れさせてやるのだと。少女の姿で作り笑顔を見せるあの人の小さな肩を、機械とわかっていながら、私は抱き締めてなだめてやらずにいられなくなるのです」
「ジン…」
私は、ゆっくりと手を伸ばし、彼の頬の涙に触れた。
「私が死んだら、きりんは必ずお返しします。約束します」
「ご厚意、感謝します」
ジンは涙を拭きながら微笑んでみせる。
「しかし、すべては麒麟の意志ですから」
「俺は、帰らないからな。絶対に帰らないからな!」
ドアの傍、こちらに背を向けてしゃがんだままきりんが叫ぶ。その肩がひどく震えているのがわかって、私はとても切なかった。
昔むかし。
ある街に、美しい人形に恋をした、ひとりぼっちの娘がいました。
叶わぬ恋に狂い、人々に恐れられ、身も心もボロボロになった娘は、それでも、最期にその人形の両腕に抱かれ、「私は幸せでした」と言い残して、静かに息を引き取りました。
愛に殉じるなんてたいそうな決意が有ったわけではない。結果的にこうなっただけのこと。
たぶん、私の一生は、他人が聞いたら、一笑に伏されてしまう程度のささやかな喜劇の物語。
でも、きりんはそんな私の最期を、宝石のように輝く言葉で飾ってくれた。
それだけは、書き残しておかなくては。そう思ってこのノートを開いた。
字に力が入らない。私の生命力もあと半月も持てばいいところだろう。
ペンを持つのもきっと、これが最後。
今朝、かなり大きな発作があった。
寒い朝だった。きりんが丸三日も寝ずに看病してくれたが、ここ最近ずっと続いている微熱が、体力を急速に奪っていき、五感は滅茶苦茶になっていた。
冷たい汗。冷たい空気。
喉がカラカラに渇いている。席が一度出ると止まらなくなる。
苦しい。
発作を治めるための薬も、なかなか効き目が現れない。私は枕元のきりんに何度も水をねだった。水差しはすぐ空になってしまう。
「汲んでくる」
立ち上がるきりんの腕を慌ててつかむ。
「なに?」
優しく尋ねてくれる。
独りに、されるのが怖いの。一秒一秒がとても貴重だから。
“はやく、もどってね”
声が出ない。きりんは私の口の動きを読んで砕けそうに微笑み、頭を撫でてくれた。
「大丈夫。一緒だよ。いつもいつも」
私は、そっと彼の腕を放し、笑顔を作ってみた。それだけの元気を彼の言葉が取り戻してくれた。
キッチンに消えて行く、彼の細い背中を見送って目を閉じた。
私はもう長くない。
死ぬのは怖くない。嫌だとどんなに叫んでも、もう逃げられないのはわかっている。
ただ、きりんと離れることだけが、辛い。
もう間もなく二人は、離れ離れになる。その定められた未来を想像するだけでぞっとする。
きりんのいない場所になんて生まれ変わりたくないし、天国にも行きたくはない。彼から遠く離れた場所で生きたくはない。できることなら幽霊になっても、永遠の時間を彷徨い続ける彼に寄り添っていたい。
そのまま、眠ってしまったらしい。
とても美しい夢を見た。
…深く青い空間に私は横たわっていた。
遠くに光が見える。
光の中に小さな可愛らしい木の扉が浮かび上がっている。あの扉の向こう…あの光に満ちた場所、あれはきっと、きりん、あなたの心の世界なんだね。
扉の前に、人影が見える。…逆光でよくわからないけど、…ああ、あの子は!
きりん、あなたによく似た銀青色の髪の男の子。あれがキールなのね。あなたの大切な親友。
ねえ、きりん…あの場所にはペリエもいるわ。陽だまりみたいな優しい笑顔で…キールと並んで私に手を振ってる。私たち、あの場所でなら、うまくやっていけるかも。…そう、家族(family)のように、ね。きっと。
私は、あの場所であの子たちと思い出を語り合いながら、永遠にあなたを見守っていきましょう。
目が覚めると、きりんが、汗で額にはりついた前髪を指で払ってくれていた。
「まだ、苦しい?」
首を微かに横に振った。力が入らないし、体は熱っぽいけど。呼吸はとても楽だった。幸せな気持ちだった。
「夢、見てたの」
「いい夢だろ?」
「わかる?」
「わかるよ。笑ってたもの」
そう言って微笑むきりん。この笑顔は今、私だけのもの。
「…あのね、キールに逢えたの。とっても嬉しかった。私、ずっと彼に逢いたかったのかもしれない」
「あいつ、マージイに惚れてるからな」
きりん、顔をしかめて見せる。私は、びっくりしてちょっと言葉が出なくなった。
「え? 何? 今何て?」
「お前、何照れてるんだよ」
少しからかうように笑って…その後とても遠くを見るような目になった。
「初恋…だったんだ、キールの最初は同情だったけど。お前キールと似てたから。意固地で不器用で被害妄想癖で…命取りなくらい馬鹿正直で、どうしようもなく寂しがりで…だからいつのまにか、いとおしくてたまらなくなった」
真面目に聞きたいんだけど、何だか困ってしまう。これは告白なのかなあ、キールの。それとも伝言と取っていいの?
私の心の中の困惑に、きりんがすかさず答えをくれる。
「俺、キールの代わりにあんたに惚れたんじゃない。キールも俺もあんたが好きなんだ。素直になれなかった俺を見てキールが俺の背中を押したんだ」
私は目を閉じてキールのことを考えてみた。誰かに恋することを知らずに死んでしまった少年のことを。
キールはずっときりんの傍で私を見ていたのだろうか。とてもキールに触れたくなった。手探りでそっと目の前のロボットの頬に触れた。
「キール、ありがとう。私もキールのことが好き。キールがいたからこそ私きりんに恋をしたんだと思う」
「嫉くぞ、こいつめ」
きりんが私の頬をつねる。私は目を開いて笑いながら言った。
「ごめんね。お別れ、近いみたい」
心がキールのいる場所に近づいているから。
「そうみたいだね。…ごめん。気休め言えないんだ。俺自殺経験者だからかな」
そっけなく言う。いいよ、正直で。
「ねえ、あなたは一人で大丈夫?」
「…ん…たぶん、滅茶苦茶になると思うよ。しばらくは。あんたが心に棲んでしまったから。でも後追いたくても死ねないから…まあ、心配すんな」
励ましになってないってば。相変わらず言葉には不器用ね。
「きりん…約束して欲しい」
「何?」
私の顔を覗き込む。
「ペリエの所に帰るって約束して、お願いよ」
ごめんなさい、ペリエ。あなたの大切なキールの生まれ変わりを私が奪ってしまった。もうすぐ返してあげるからね、必ず。
「いいかげんにしろ!」
きりん、真顔で怒ってる。
「いいか、俺がペリエのところに帰りたくないのはな、俺が意地悪だからじゃないぞ。お前だけの為でもない。何よりペリエの為なんだ。俺はペリエが望む通りの愛情をペリエに与えることは絶対にできない。俺がキールの顔を持っている以上、ペリエはずっと苦しみ続けるんだ」
自分に聞かせるみたいにそう言って、ふと表情を緩めた。
「だから俺、帰らないからな。いくらお前の頼みでも、これだけは聞けない」
「でも、あなたは独りぼっちになるわ」
「いいよ、独りで生きていくから」
寂しい笑顔でそう言う。
「姉貴の傍で、お前の記憶を消されて不自由なく生きるより、お前のいない寂しさで窒息しそうになっても独りでいる方が、いい。…マージイ、お前が折れに関わってくれたから、俺の心は完全な機械にならずにすむ。記憶ではなく、思い出として、心に輝くお前を抱いて、俺は“麒麟”として生きていける」
「私は、あなたの魂になるために生きてきたのね。そう思っていいね?」
答えの代わりに彼が、大きな手で両頬を包んでくれた。
「ありがとう、マージイ。愛しているよ」
熱い頬に、ひんやりとした彼の唇が押し付けられる。冷たいけれど、彼のいたわりがいっぱい詰まっているキス。
生まれてきて良かった。私を生み出してくれたものすべてに、今本当に感謝している。
私の人生を、麒麟に出会う一瞬に結び付けてくれた、すべての人々に。…彼に出会うまでに起こった、幾つかの辛い出来事にも幾らかの喜びにも、心から感謝する。
そして。
最期の最期に、言葉を残したいのはやっぱり、きりん…あなた。
この世に誰一人として生きることを許されない命などいない。そう教えてくれた、あなた。そばにいてくれて、ほんとうに、ありがとう。私、とても幸せよ。
私の光。私の宝石。私の胸の中の一番熱い炎。
愛しています…きりん。
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