【初冬(結実)】


滑らかな丘を越えたはるか遠くに僕は立っている

まるで灰色の空が思う存分泣いているように

来る日も来る日も雨が降り続いている

二人で一緒に嵐に立ち向かおう

そしてこの恋に堕ちてきてごらんよ

(松岡英明「A SWEET LITTLE BITTER LOVE」原曲英語詞)


 その朝は、電話のベルで目を覚ました。

 電話は、音声だけの回線のものを寝室の隣に一台置いてあるだけである。

 都市生活の終わりごろに罹ったひどい機械アレルギーの後遺症で、寝室には極力、電化製品は置かなくなった。

 ここへ越して来る時に、生活に最低限必要なもの以外は、家電を処分してきたので、建物に作りつけのもの以外の機械はあまりない。

“お前、よくそれで俺と生活できるなあ”

なんて、きりんは笑うけど。

 その電話は、先に起きていたきりんが取った。私は偏頭痛でなかなか床を離れられなかったのだ。

「うるさい!」

 程なく、きりんの怒鳴る声と、電話を切る音が聞こえた。仏頂面で寝室に入ってきた彼に、

「誰だったの?」

と聞くと、

「間違い電話」

吐き捨てるように言った。

「それにしたって“うるさい”は失礼よ」

 そう抗議すると、きりんの固い表情がパッと砕けた。

「ごめん」

 苦笑しながら、ベッドの上の私を抱き締め、耳元に唇を寄せた。

「下手に出れば、叱られないと思って…」

「事実、そうじゃん」

 クスクス笑うきりんの肩に顔を埋め、私はその“体温”に酔った。

 微熱のせいで、最近なかなか寝付けない私を、彼はいつもこうして寝かしつけてくれる。まるで赤ん坊のように、私はきりんに甘えきっていた。

 人形である彼との間に、今後決してセックスの介入は有り得ないだろう。それでも私は満足だった。子供を身ごもる幸せもいらない。きりんの存在自体が私の愛の形だ。


 いつの間にか、再び眠ってしまったようだ。目を開くと、午後の陽射しが寝室を満たしていた。

 きりんの姿が、部屋になかった。

「きりん」

 返事がない。

 急に心細くなって、起き上がってみた。まだ少し鈍い頭痛は有ったが、それ以上にこの予感めいた不安が怖い。

「きりん!」

 少し大きな声で読んでみる。返事が無い。建物の中にはいないらしい。

 涙がぼろぼろと溢れ出す。迷子のようにしゃくり上げてしまう。自分のことながら、本当に精神が退行し始めているな、と思った。きりんがいないというだけで、こんなにも不安になるなんて。

 寝室に戻り、クロゼットを開いた。白いブラウスに袖を通す。シルクのひんやりした肌触りが、微熱に火照る体に心地よい。スカートを履き、カーディガンをひっかけて庭に出た。

 きりんは、ペリエの元へ帰ってしまったのだろうか。思い返せば、さっきの電話の後のきりんの複雑な表情が気になる。まるで何かをごまかすように、急に優しくなった彼。

「きりん」

 熱で体がふらつく。野イバラで足がもつれる。ストッキングが破れて引っ掻き傷がつく。それでも走り出した。傷がきっかけになって、心の勢いを更に増した。

「きりんっ!」

 彼の名を呼びながら、森をさまよう。葉の落ちた裸木の梢がぐるぐる回り始める。

「おおっと」

 崩れる体を抱きとめる腕があった。きりんの腕ではない…体に、寒気が走る。きりんは、こんな振り回すように乱暴に私に触れない。

「悪かったな、あのマヌカノイドさんじゃなくてよ!」

 ごつごつした黒い手が口を塞ぐ。体が吊り上げられる。

「噛みつくなよ。どうせ逃げられないぜ」

 声に聞き覚えがあった。以前散歩中の私たちをからかっ少年の一人だ。あとの二人も姿を現し、私の足を押さえ込んだ。

「大声出しても、誰も来ないぜ。麒麟もな」

「あのオカマ人形が外出中だってことは、わかってるんだ」

 では、彼らが電話できりんをおびき出したのか。…だとしたら、彼は助けを求められる距離にはいない。

 木陰に乱暴に運び込まれる。

「本気でやるのかよ。こいつ、熱あるみたいだぜ」

「構うもんか。どうせ気が触れてるんだ。この女」

「こいつもあの人形と一緒に俺達を小馬鹿にしたんだぜ。思い知らせてやる」

 精一杯抵抗しながらも、絶望していた。もう逃げられない。恐怖で今にも気絶しそうな頭を必死で働かそうとして、不意にキールのことが頭を過ぎった。

 キールなら…彼の力なら私の声をキャッチしてくれるかも。

「生身の男ってものを教えてやるからさ、お嬢様」

 キール、きりんの中のキール! 助けて! この声をつかまえて。早く!

「暴れんじゃねえ! いい加減観念しろよ!」

 頬を殴られ、口の中に血の味が広がった。両腕が後ろに捩りあげられ、ハンカチを口に押し当てられた。

 微かに甘さを含んだ、きつい薬物の匂いでくらくらする。

 布が引き裂かれる音。

“…きりん…助けて。”

 心で叫んだ、それが最後の意識。


「マージイ…」

 きりんの声が聞こえる。目をそっと開いてみた。見慣れた天井の木目。白く黄色い暖かな照明。懐かしいと思ってしまった。いつも見ていた光なのに。

 …ああ、帰って来たんだ、私の部屋に。…でも、どこからここに帰ってきたのだろう。思い出せない。何故?

 きりんが、泣いている。

「あの場所から…俺が運んだんだ。…マージイ、ごめん。…俺、間に合わなくて」

 あの場所? 何が起こったのか、記憶が無い。思い出そうとしても、真っ白な霞に飲み込まれるように息苦しくなる。

「お前の悲鳴が聞こえて、慌てて帰ってきたら、寝てるはずのお前がいなくて、必死で探して、やっとあの場所でお前が倒れてるのを見つけた。…周りにはもう誰もいなくて。…マージイ、教えてくれ。お前をこんな目に合わせたのは誰なんだ!」

「あ…」

 鋭い痛みが走って顔を押さえた。口の端が切れている。体のあちこちが痛い。かなりの数の擦傷と、数か所の関節の痛み。起き上がろうとすると、ひどい頭痛で動けない。

 そして体の底の方に疼く鈍い痛み。

「骨はどこも折れてない。傷も全部消毒した。でも三日も眠り続けてたんだ。動かない方がいい」

 声が出ない。喉に想い空気の塊が詰まっている。何か言わなくては…それはわかっているのに。

「マージイ、何とか言ってくれよ!」

 …その瞬間、体の奥から、悲鳴が大量の涙とともに溢れ出た。獣の咆哮のような声。記憶だけを置き去りにして、わけのわからない恐怖が喉から絞り出されて来るように。

こんな力がどこに残っていたのだろう。きりんにしがみつき、激しく泣きじゃくる。 

 戸惑うきりんの唇に自分の唇を押し付けた。唇の傷口が開く。鉄と塩の味、ぬるりとした液体のぬくもりが混ざったせいで、きりんの人工の唇の感触に、今までで一番深く酔った。

 互いの唇を舐め合いながら、気の遠くなるような長い時間唇をかさねていた。頬が離れ、目を伏せたままできりん、自分の唇についた私の血を舐めた。その舌の動きを見て、心臓が騒ぎだす。

「きりん」

 声がかすれてしまうのは、体の痛みではなく、動悸の激しさのせい。喉がからからに渇いている。

 突然、きりんが目を開く。

 右手をそっと私の首筋にのばしてくる。指が私の肩からタオル地のガウンをするしと剥ぐ。唇を、首筋から鎖骨の辺りに滑らせている。

「もっと早く、こうしていれば良かったんだ」

 早口で独り言のように言い捨て、彼もシャツを脱いだ。滑らかに白い肌の色が、しなやかな若木のような腕が、視界に飛び込む。目が眩んで思わず顔を背けてしまう。

「眩しい?」

 勘違いをしたのか、そう囁いて彼は枕元のリモコンに手をのばし、照明を消した。

 まさか、きりんが私を抱こうとしている。

 私は訳がわからなくなって、呆然としたまま彼に身を任せていた。

 きりんは優しかった。

 何度も私の名前を呼び、その度に羽毛のようなキスをくれる。唇に、首筋に、肩に、胸に、腕に。私の体中の擦傷を、彼の舌先がたどっていく。壊れ物を扱うかのような愛撫であったが、それでも傷や関節の痛みに私は度々呻いてしまう。

 涙と、汗と、消毒薬と、血の匂いで、頭の中がぼうっとなる。やがて、麻薬めいた不思議な陶酔感が、大きな波のように押し寄せて、意識をぐしゃぐしゃに溶かしていく。乳房に顔を埋められ、肌を軽く吸う音を耳にして、思わず彼の首を強く引き寄せ、髪を両手で掻き回してしまう。

「マージイ」

「え…」

 熱っぽい声で耳元に囁かれ、私はほとんど溜息のような返事しかできなかった。

「…足…」

 ためらいがちに言われた瞬間、羞恥心で頬に火が走る。戸惑っている私の膝にきりんの手が触れる。その手に私はゆっくりと従った。

 これは、夢なんだろうか。それとも…キールの強い残留思念が起こしている奇跡なのだろうか。

 溶けそうに熱い体の中心に、硬いものが触れ、びくりとした。目の前の彼の顔を見上げる。優しく見下ろす視線で彼は応える。

「がまんして…俺、ここに…ちゃんと傍にいるから」

 不器用な、だけど限りなく優しい言葉。こくん、頷く私を頭から包むように抱きすくめ、きりんはゆっくり私の中に入ってくる。

 恐れていたほどの痛みは無い。擦れるような、じくじくとした痛み。

 体を満たしてゆく圧力が、記憶の彼方に封じられていた事実を呼び戻す。

 私はあの少年たちに、強姦されたのだ。薬物で麻痺状態にされ、いたぶられた記憶の断片が浮かんで消えてゆく。

「きりん」

「ん…?」

「…壊して、私を壊して」

 お願い、今すぐ私を殺して。

 私は本当に生きている価値なんてない人間だもの。…もう、どこにも、私の居場所はない。誰のこともちゃんと愛することができないし、誰からも愛される資格が無い。

 あなただけが私の生きる答えだった。今、あなたの腕の中で死んでしまえるなら、それ以上の幸せはないわ。

「何故、俺がお前を壊さなくちゃならないんだ?」

 真顔で私の目を覗き込む。闇の中、澄んだ鏡のように、瞳が月光を映して揺れて、とてもきれいだ。

「生きるんだよ、マージイ。ぎりぎりまで。俺が、ここで見ててやるから」

 揺さぶるように激しく、私を抱きすくめる。

 生きている。私たちは今確かに。この痛みも、陶酔も、情熱も、いのちそのもの。私たちは二人で一つの、愛という生き物。


 私を抱き締めて眠るきりんの腕は温かかった。私は、体中に残る、きりんの愛撫の名残りを意識でたどり、小さく息を吐いた。

 私を抱いたのは、機械か、それともキールの亡霊なのか。

 あの優しい動作のひとつひとつ。どうして彼を魂のない者と言えるだろう。

 どちらでも構わない。彼はきりんだ。私の恋しい人。

 窓の外が、奇妙なほどに静まり返っている。耳の中の空気が、シンと音をたてるほど。

 時計は午前十一時を示している。震動センサーに触れないように、きりんの重い腕をそっと外し、窓に近づいた。

 雪だわ。

 初雪。辺り一面を純白と灰と銀が包んで。そしてなおも降り落ちる綿雪。

 許されたのだ。“白”の世界を前にそう思った。

 私は生きることを、彼と愛し合うことを許されたのだと。この空のどこかで、私たちを見守る、何か大いなる存在に。…そして、その存在は、こんな小さな私にも、すべてを許せと語りかけているのだ。

「きりん、雪」

 眩しげに目をこする彼に、そう声をかけると、彼は飛び起きて、窓に駆け寄ってきた。子供のような歓声を上げて、慌ててセーターを被り、ジーンズを身に着け、子犬のように飛び出していく。

 両手で雪のひと粒ひと粒を受け止め大はしゃぎする。さんざん走り回った末、彼は庭の真ん中に立ち止まり、空を仰いだ。

 グレイの空に映える、真っ青の、女物のセーター。私にはどうしても派手で、袖を通せなかったものを、彼がクロゼットの奥から探し出して、すっかり自分の物にしている。きりんにとてもよく似合う。

 くっきりとした輪郭の、きれいな横顔。その長い睫毛に雪がひと粒止まる。

 黄金の髪が、淡い光を水から発色している。

 美しい風景だった。自然に頬を涙が伝うほど、神聖な時間。

「きりん」

 私はとても優しい気持ちで、愛しい彼の名を呼んだ。彼は振り向き、私に微笑みかけてくれる。

 窓越しに、そっと腕を伸ばして、私の体を抱き締める。…がっしりと。夕べの感覚の名残りがよみがえり、体中を満たしていく。

 心地良い束縛感に、私はいつまでも酔っていた。


廃物焼却機(ダストシュート)の傍に落ちていた、白いブラウスの切れ端。掌ほどの大きさの隅に、微かに血の色を残したそれを見つけたとき、それほどのショックは無かった。

むしろ。私が身に着けていた衣類を脱がせ、あの日を思い出させる物は、すべて捨て、傷を洗い、消毒し…そんな彼の姿を想像したら、いとおしく…悲しくなる。

私は、その小さな布切れを抱き締め、きりんに聞かれないよう、声を上げずにしばらく泣いた。

 

 雪が溶けたある日、きりんは外出の支度を始めた。

「どこへ行くの?」

「待ってろ」

 きりんは私の顔も見もせず言った。

「行かないで」

 お願い。どうしようもなく、不安なのよ。

「心配するなよ。研究所(ラボ)へ戻るんじゃないよ…ただ、どうしても許せないから」

 誰を?

「着いて行くからね」

 止めたって着いてく。そうしなければならない。

「勝手にしろ」

 まるで、初めて会ったときのように。いや、それ以上に冷酷な、きりんの声。


 彼らは、あの丘でバイクを触っていた。やはり三人。いつものメンバー。

 間違いない。きりんは復讐をするつもりなのだ。私の代わりに、あの不良少年たちに。

 それがわかっているのに近寄れない。彼の体に満ちている気迫が恐ろしくて。

「ああ、コテージのお嬢様。お人形さんとお散歩ですか?」

「この間はどうも」

 三人が、にやにや笑いながら近づいてくる。

 きりんが、キリキリと歯軋りを立てた。体が緊張で微かに縮んだように見えた。

「楽しかったねえ、お嬢様」

「まさか、バージンとはねえ」

「結局お人形は、お人形ってわけ。なーんにもしてくれなかったのねー」

 その瞬間、きりんの体が発光したように見えた。超新星(ノバ)のように。雲間から突然顔を出した太陽の光を、彼の金髪が反射したのだ。

 二メートルは跳躍しただろう。一番大柄な男につかみかかり、草の上に倒す。

“麒麟”だ。あの伝説の獣。白い炎に身を包み、真珠の牙を振りかざし、宇宙風に似た咆哮をあげる、天界の獣。

 細い体が驚くほどしなる。風のような音を立てながら、最初の一撃で運動神経を麻痺させる箇所を突いてしまう。

 あっという間に、自分の倍の体格の少年たちを倒してしまう。一番大柄な少年の襟首をつかみ、その体に殴打を加える。ぼきっ。大きな音が聞こえる。初めて聞く、本当にその通りの音。ぐるん、不自然な方向に少年の右腕がぶら下がる。親分肌の少年の腕を見て、他の少年たちの喉から声とはつかない…笛のような悲鳴が上がる。

「きりん…」

 骨折の音で夢から覚めたように、私の口から彼の名がこぼれ落ちた。…そうだ。彼を止めなくては。

「きりん…やめて! それ以上やったら、その子たち本当に死んでしまうわ!」

 慌てて飛び出して行き、彼の体を押さえようとしたが、彼はその細い体からは信じられない力で、私を振り切り、赤毛の少年のそばに膝をついた。

 きりんの目は既に狂気の色を帯びている。私の声さえ、もう聞こえないのだろうか?

 きりんの右手が赤毛の少年のTシャツの胸にめり込む。バキバキバキバキ…肋骨が続けて折れていく音が聞こえる。

「やめて!」

 そのとき。

 私の体の中で、大爆発が起きた。

「き…り…」

重力が狂う。視界がぐるりと回転する。

「マージイ?」

 霞んでいく視界。きりんが、振り向くのだけは、かろうじて見ることができた。

「き…りん…お願い。もういいの…もう、やめて」

 がくん。膝が折れ、体が崩れる。手が、足が、肩が痺れ出す。

 呼吸も脈拍も、リズムが滅茶苦茶になる。

 心臓が握り潰される。そう思った。

「マージイ! マージイ!」

きりんが、私の体を支えてくれている。愛しい彼の私を呼ぶ声が遠くなる。

それが、最初の大きな発作だった。


「何故止めた」

 頭の中にきりんの声が低く響く。

 明らかに、私は夢の中にいる。体中がじんじん熱い。喉が渇いて紙ヤスリのようになっている。指一本さえ動かせない。

「あのとき、お前が発作なんか起こさなかったら、確実に奴らを殺せたんだ」

 目の前にきりんの顔。横たわる私の傍らに膝をついて、私の顔を覗き込んでいる。声は静かだが、目の前のきりんの顔は怒りで真っ青だ。

「殺すつもりだったの? 本当に」

 尋ねる私の声が、恐怖で震える。そんな風に人の命を裁く権利は、私たちには無いはずでしょう?

「殺してしまうつもりだった。殺されて当然のことを、あいつらはマージイにしたんだ」

 きりんは、燃えるように激しい瞳で、きっぱりそう言った。…そう、彼にはこの世の法律は通用しない。

 いつの間に私たちは、社会からこんなにすっかり隔絶されていたのか。

 未来も過去も何もない、非生産的な毎日。この場所で、私たちは真空状態の落とし穴に落ち込むようにすとんと、二人きりで狂ってしまったのだ。砂糖菓子細工の王国の中できりんの存在そのものが法律になっていた。そう気づいた瞬間、私の心は突然恐ろしく冷静に戻った。今の状況がどんなに恐ろしい状況なのかが輪郭までくっきりと見えた。

 でも、もう遅い。

 だって、きりんの右手はもう伸びてきている。動けない私のみぞおちに、指がめり込む。ああ、あのときと同じ。

 きりんの意志を阻もうとすれば、きりんは私でさえも殺そうとするだろう。

 私の心臓を握り潰すのは、きりん、やはりあなたなんだね。


 ドアの向こうで、誰かが激しく言い争っている。その声で目を覚ました。

 片方は、きりん。もう一方は、聞き覚えのある女性の声。一瞬、ペリエが彼を連れにきたのかと思って、血が凍った。…でも、この声はペリエよりは低い、熱のある声だ。

 ドアがばたりと開いて、飛び込んでくる。彼女の名を、私はなかなか思い出せなかった。

「ライルさん…」

 彼女は私の顔を見て息を飲み床に膝をついた。

「可哀想に。ひどいことになって…こんな、顔まで傷だらけで。それに痩せてしまったんじゃないの?」

 ベッドに沈み込む私を見下ろし、泣きそうな顔をする彼女。

「食べないんだ。なにも食べてくれないんだ。栄養剤もなかなか受け付けないんだ」

「味覚のわからないロボットなんかの作るものが食べられるわけないでしょう?」

 そんなに彼を責めないで。宅送の材料で彼はきちんしたものを作ってくれてる。ただ私の体が“食べ物を”ではなく、“食べること”を受け付けないのよ。

 その人はおもむろに立ち上がり、ずかずかと部屋中を歩き出した。そして一通り見回すと、きりんの顔を見上げて鋭い声で言った。

「電話、どこ?」

「隣の部屋だけど」

 戸惑うきりんを突き飛ばすようにして、彼女は隣の部屋へ歩いて行く。

「どうするつもりだ?」

「ライルさんを連れて帰ります」

「待てよ、マージイの意志を無視するのか」

「彼女を守れなかったあなたに、そんなことを言う資格はないわ。これ以上こんなところに彼女を置いていけない」

 彼女の責めるような言葉に、きりんの眉がびくんとなる。

「やめてください」

 私はやっとのことで声を出した。彼女は私の方に振り返り、何とも言い難い悲しい表情をした。

「ライルさん、もういいでしょう? 夢の中に生きるのは止めて、目を覚まして。街に帰りましょう。私もレーンもいるわ。あなたに寂しい思いはさせない」

「どなたかは存じませんが、ご親切で言って下さってるのはわかっています。でもお願い、放っておいてください。私、幸せなんです。きりんと離れ離れになるくらいなら、今すぐ舌を噛みます」

 彼女の表情が凍り付く。

「ライルさん…?」

 心配そうに声をかけてくる彼女。

「私が、わからないの? 私…フィーナ・カルムです」

 フィーナって…、ええっと。

「前の職場の友達だったってお前から聞いたことが有ったから、アドレスノート見て連絡したんだ。俺だけじゃどうしていいかわからなくて」

 きりんの説明を聞いても、ピンと来ない。

「忘れてしまったんですか? 私のこと」

 その悲しい瞳を見て、やっとあの引越しの日の光景が、彼女の労りと共にゆっくり浮かび上がってきた。頭の中が、霞がかかったようにぼやけている。その熱い霞の向こうに確かに彼女の思い出がある。でもそこまでの距離はあまりに遠すぎる。

ごめんなさい。私を見て涙を流してくれているあなた。とても優しかった、あの日のひと。

 あなたを忘れてしまうなんて。


終わるんだな、と思った。ひとつの物語が。

私の心臓の鼓動が軋み始めたから。

きりんに初めて会ったときも、想いが伝えきれずに苦しかったときも、絶望していたところに突然訪ねてきてくれて、気が狂いそうにびっくりしたあの夜も…何度も何度も彼を見つめるその度に、心臓が止まってしまうんじゃないか、と本気で感じた。

でも、今度のだけは本物だ。確実に、私が終わる。

「そんなの、サギだよ」

 きりんが、可愛いことを言ってくれる。

「ただでさえ、人間たちは、俺を置いてきぼりにしていくのに。そんなに急いで逝くことないじゃんか。やっと一大決心して、お前に嘘つくのやめて、あの研究所から逃げてきたのに。俺、もう姉貴んとこへはもどれないんだぜ」

 ロボットであるきりんにとって、今までの完全に守られた安定した生活を捨てることなど大したことではない。むしろ、最愛の姉ではなく私との生活を選んだことの方が、よほど一大決心だったろう。

「きーりーんー」

 嬉しくて、きりんのカナリア色の髪を押さえてこねくり回してしまう。可愛い、可愛い、可愛い!

「お前、そーゆー理解不能な行動は止めてくれよっ」

「きりんの。髪、細くて柔らかくて触ってて気持ちいーのお♪」

「俺はお前のオモチャじゃないって」

 ニシャニシャ笑いながら抗議するきりん。滲んでいる涙を隠そうともせず。

 もう、ほんっとに可愛いったら。


 あなたを壊そう。

 ペリエの手…あの白い美しい指が届かない場所に、あなたを連れて行く。

 あなたが、私を守るためにあの不良たちを殺そうとしたように…私は、私たちのこの関係を守るために、今すぐあなたを殺す。

 放さない。絶対に。

 私と逝こう! きりん。

 誰にも、もう、私たちを分かつことが出来ないように。


凶器には調理用の棒状の電磁バーナーを選んだ。磁気で発熱させる原理だから、内蔵コンピュータへの影響を気にかけて、いつも、きりんは近寄らないようにしているらしい。最大出力にすれば、かなりの効き目があるだろう。

きりんが、私のベッドの隣にもぐりこんで、三十分、確実に休息モードに入ったのを確認してから、そっとベッド下に隠したバーナーを引っ張り出した。

バーナーを握り締める手が震え出す。

やあね。何を今更ためらうの? 私の手。

私も、きりんも、もうとっくに狂っているのだ。今更倫理に縛られてしまうなんて、おかし過ぎる。

…くくくっ。恐怖の震えが、笑いの為のそれに変わっていく。慌てて口を左手で押さえ、きりんの心臓の辺りを目指して、ゆっくり、先端を近づける。

穏やかな寝顔を見ていると、ますます口元が緩んでしまう。

私ったら何しているのかしらねえ…この状況で。だって、笑ってないとやってられないもの。愛しいあなたを、この手で壊すなんて。

ごめんね、きりん。すぐ、私も行くから。

…そのとき。胸の底から物凄い勢いでこみ上げてくるものがあった。

咳込む音に、きりんが目をかっと見開いた。

「お前、何やってるんだよ!」

 飛び起きて、私の両腕をぎゅっとつかむ。手が前にも後ろにも動かせない。

「…ごめんね。一緒に死にたいの、今」

 涙が溢れてくる。今のきりんならわかってくれるはずよ。

「お前、こんな、自分から壊れてどーすんだよっ!」

「何よう! どうせ死んじゃうんだもん。今、ここで終わらせてよ。きりんと一緒にいられるうちに、死にたいのよ」

「体じゃねえ! 心のことだ。狂うんじゃない、死ぬまで人間らしく生きろ。…俺、お前の手にかかって死ぬのだけは、いやだ」

「いいじゃない! あなたなんて機械なんだから、殺したって殺人じゃないもん」

「嘘だ! お前はそんなこと思ってない! 拒絶反応起こして吐いてる。それが何よりの証拠だ」

 その言葉に手の力が抜ける。

「まったく、今朝から様子が変だと思ったんだ。お前、俺がテレパスの亡霊、心に飼ってんの、忘れたのか?」

 きりんは私が堅く握ったままのバーナーのスイッチを切った。

「まったく、お前って言葉で言わないと、何もわからないんだからな。…まあ、落ち着いて聞け」

 そう言って、私の目を見ながら一言一言、言い聞かせるように区切って話し始めた。

「俺、人形だからね。壊されることなんてちっとも怖くない。感情も痛覚もあるけど、どうせ機械の上の反応に過ぎないし、さ」

 水差しから、冷たい水を汲んで、コップを手渡そうとしてくれる。だけど、私の堅く結んだ手から、バーナーが剥がせない。仕方なくコップを私の口に持ってきて、そっと水を注ぎこんでくれた。

「俺を壊すってことはさあ、他の奴らから見れば、遊び飽きたオモチャをスクラップにするようなことなんだろう。ペリエだって、彼女にとっての俺は、キールへの、ぶつける先のない想いを受け止める容れ物に過ぎない。いつか、俺がどうしても自分の思い通りにならないってわかったら、不良品として破壊するだろう。そのくらい、人形として生まれてきた以上、とっくにわかってる」

“おい、ちゃんと聞いてるか?” きりんは私の両頬を包んで言った。

「…でも、お前は違う。お前は俺を“きりん”というひとつの存在として愛してくれている。そんなお前が俺を破壊するのは“殺人”だ。俺、お前に、…お前の心に罪を犯させたくない」

 きりんの言葉が、途切れ始める。泣いている…イミテーションの涙で。

「なあ…お前、ちゃんと、人間の癖に。最期まで人間として…しっかり生きろよ、大馬鹿野郎」

「何よ…何よ…あなたにそんなこと言う権利があるの?」

 私を守るためにあの不良少年たちを殺そうとしたあなたの狂気…あなたに私の狂気を責める権利があるというのか。

「ずるい…するいよ、きりん。ちょっと人間じゃないからって、汚い部分を何もかもきりんひとりで引き受けてしまって」

「しょうがねえだろ人間じゃないんだから…どうせ罪も罰も無いんだから、俺に引き受けさせておけばいいんだよ」

「ずるい! そんなの」

「うるさい! あんたが納得できなくてもいい、黙って俺の言うことを聞いてろ!」

 眼と同じ大きさの塩水、目からダラダラ流して。ぶっ壊れそうな顔できりんが叫んでる。あーあ、ここまでひどい泣き顔できるように作られてないのね。限界ギリギリまで表情崩してるのね。

「水分足りなくなったらあ、どうしてくれるんだよ、ドアホ! そんじょそこらの水道水と食塩じゃ代用できないんだぞ」

 そんな情けない泣き顔しないでよ。この世で一番の美少年の癖に。

「ごめん」

 声が震えちゃったじゃない。

「ごめんね、きりん」

 ごと。電磁バーナーが膝のすぐ横に落ちる。重いんだぞ。痛いんだぞ。スイッチは切れたけど余熱で一瞬扱ったぞ。右足の脛、火傷したかも。

 両手で触れるきりんの両頬。温かくて今、“涙”でちょっと(…本当はすっごく)べとべとで。指でたどると、心地よい曲線の輪郭。

「ごめんなさい…ごめんね、きりん」

 ごめんなさい。愛しいあなた。

「愛してる」という言葉に私は取り憑かれてしまっていたんだね。

きりんは私の全身を包み込むように抱き締めてくれる。

「そばに、いてやるからな。マージイ。最期までそばにいてやる。お前の命が終わる、ギリギリまで」

「足りない。それだけじゃ」

「え?」

 戸惑い、目をまあるくさせるきりんに、私は無茶苦茶な我がままを言った。私ができる範囲で一番優しい笑顔で。

「忘れないで。ずっと私のこと考えて。あなたが永遠に生きるなら永遠に私を記憶に留めて。ずっとずっとずっと…」

 ずっと、ずうっと、ずううっとだよ、ねえ、ねえったら…涙混じりの声で何度も何度も繰り返す私。その言葉を、シャツを通して胸に擦り込むように強く抱き締めて、きりんは私の髪を激しく撫で回した。

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