【秋(追慕)】
「絶望するようにあなたを愛してる
今よりいいことはないはずと 思いながら」
(鈴木祥子「水の冠」)
「頭痛、呼吸の乱れ、消化不良、生理不順…悪状況のオンパレードですね」
サイリは、カルテを見て顔をしかめている。
「本当に自覚無かったのですか? 医者に平気なふりをしてみせても無駄ですよ」
出来ることなら隠したかったのだが、彼にだけは隠しようがない。
「大袈裟なんだから」
「きみが意地っ張り過ぎるんです」
太い注射器を用意している、サイリの眉間に皺が寄っている。穏やかな彼の、こんな表情を見るのは初めてだ。
「あまり長引くようなら、入院してもらいますからね」
そう言って、注射針を私の腕に射した。
「精神的なものよ。心配ないわ」
針を抜く瞬間の痛みに顔をしかめながらも、私はやせ我慢を言った。
「自立神経失調なら余計に問題です。生物は薬や治療に助けを借りなくても本来自力で病を治せるものです。その力が壊れては、この先、治る病気も治せなくなります」
医者のこういうセリフには逆らえない。言葉に詰まる私の目を、サイリが覗きこんだ。
「何ごとか、あったのですか?」
「……」
何も、言えなかった。
何もないわけではない。決して。でもすべて自分の責任で起きたことだったのだから。
「どうして何も言ってくれないのですか? マージイ。悩んでることがあるなら、自分だけで抱え込んでしまわずに、いいかげん、僕に話してみてください。こんなに体を壊すまで苦しんでいるのに」
サイリの声はあくまで穏やかである。でも、その言葉の語尾に、いつもよりせつないような響きがある。
「…何もないわ。大丈夫。本当にただの過労なの。安静にするから取り敢えず元気になれるように助けて、ね。サイリ」
私の言葉に、彼は悲しそうに笑った。
「もっと、頼っていいんですよ。マージイ」
…でも、兄さん。どんなに優秀なカウンセラーでも、私の心から彼を追い出せはしないのよ。
タクシーでマンションの前に乗りつけると、門前に大きな白い車が停められていた。
中から背の高い人影が降りて、こちらの車のいる方に歩いてくる。タクシーの後方、私のいる席のガラスをノックする。黒い革のコートを着た、手入れの行き届いた白い顎髭の、品の良さそうな長身の老人である。
私は、運転手にウインドウを開けるように頼んだ。
「マージョリー・ライル様ですか?」
「はい」
声に聞き覚えがある。…そうだ。きりんに初めて会った時、電話に出た人だ。
「お待ちしておりました。お話があります。“麒麟”のことで」
きりん?
「私と来ていただけませんか?。」
「きりんに会えるの?」
尋ねる自分の声が、小さな子供のように弾んで聞こえた。今の私は、きりんに会えると言われれば、どんなに怪しげな人物にも着いていくだろう。
「私は麒麟の家族のような者です。彼を守る者として、あなたにも知っていただきたいことがあるのです」
彼の、この知性的で温もりを感じさせる物言いを、私は何となく気にいった。
ペリエ・クゥオンの機械工学研究所は、閑静なベッドタウンの外れ、丘陵地帯の森林の中にひっそりと立っていた。外見は二階建ての小さな建物であるが、ロビーに入ると清潔で案外広いように見える。
木製の手擦りの付いた半螺旋の階段で二階に上がり、一番奥の部屋の前で老人は立ち止まる。
「博士。ライル様をお連れしました」
老人の肩越しに所長室の中を覗く。眩しいほど日光が溢れる、広い部屋の奥、車椅子に細身の女性が座っていた。
「通しなさい」
振り向いた彼女の顔を見て、はっとした。きりんに似ている。…だが、人形であるきりんより無機質な白い顔。
まるで、砂糖菓子のようだ。
ピンク系のメイクを施した顔は、確かに大人なのだが、口元や目元に満ちている隙の無さは、何かに怯える少女のイメージがあった。
銀青色に煌めく、長く波打つ髪。華奢な骨格。
私は自分の赤茶けた色の短く堅い髪と、骨格のしっかりした体格が、急に恥ずかしくなった。
「はじめまして。私、ペリエ・クゥオン。…K001、“麒麟”の製作者です」
金属製の楽器のような美しく響く声。
「これ、お返しします。ごめんなさい。すっかり忘れていて」
私は慌ててポケットからプラスチックのカードを出した。きりんに初めて会った日、預かったカードである。
「他人にはまったく見せていません」
きりんは随分簡単に私のこのカードを渡していたから、そう問題のある連絡先ではないだろう。しかし、こういった研究機関にはいろいろと厄介な秘密があるだろう。私自身が、その手の機関出身なので、こういうことには敏感になってしまう。
「ご配慮ありがとうございます。それと、麒麟を保護してくださって本当にありがとうございました。麒麟は私の研究所(ラボ)の貴重な実験体である上に、重要機密そのものでもありますから。あなたのご協力がなければどうなっていたか」
その割にはずいぶん野放しなんじゃないかしら。
「ライルさん…いいえ、マージイって呼んでもいいのかしら?」
「かまいません、どうぞ」
取り敢えず、彼女に同意した。声音の冷たさとミスマッチの、彼女のわざとらしい馴れ馴れしさが、とても嫌だったけど。
「あなたも、クゥオン博士なんて堅苦しい呼び方は止めてくださいね。私、同年代の方とお話しできる機会はめったにないから、とても嬉しいんですの」
「お言葉に甘えさせていただきます。ペリエさん」
早く、帰りたい。この場所には、強い違和感を感じてしまう。そう、ここはあの病院に似ているのだ。私の故郷の。
使いの老人が部屋を離れた後、小一時間程私達はとんちんかんな会話を交わした。研究三昧で外界の流行を知らないと言うペリエの質問に、流行音痴の私の生返事、という噛み合わせの悪さ。
一体何が目的で、彼女は私を呼び出したのだろう? 純粋に礼が言いたくて…同年代の友人が欲しくて…それにしては何かが妙だ。
そう。“同年代”という言葉。
麒麟が製作されたのは五十年以上も昔ではなかったか?
では、麒麟の製作者を名乗るこの女性は何者なのだ?
「マージイ? お顔が真っ青よ。どうなさったの?」
気がつくと、首の辺りが冷汗でぐっしょりと濡れている。
「すみません。私、少し具合が悪くて。失礼します」
薄気味が悪くて、私は慌てて席を立った。
「まあ、それなら少し休んでいかれた方が」
「いえ、結構です。失礼します」
帰る方法がわからないので、ロビーの受付の女性に、先ほどの使いの老人を呼び出してもらった。これ以上建物の中にいるのは耐えられなかったので、外に出て待つことにした。
陽射しが眩しい。爽やかな涼風に襟元の汗がみるみる乾いてゆく。
「何だったんだろう? いったい」
溜息混じりに独り言を漏らしてしまう。得体の知れない、ひっそりとした恐怖が肩に残っている。
彼女は、私を何らかの理由で騙すために、麒麟の製作者ペリエの名を語り芝居をしていたのだろうか? ではそれは何故なのだろう。そして彼女は一体何者なのか?
いい。もういい。考えるのはやめよう。忘れてしまおう。関わるべきではなかったのだ、やはり。そうすれば、あの得体のしれない恐怖に触れずにすむ。このラボのことも、彼女のことも、…きりんのことも、忘れてしまおう。
そのとき。
「マージイ」
脅すように低い声。ぞっとしつつ振り向く。
「ペリエさん…」
日の光に透けるような、ペリエの冷ややかな笑顔。でも車椅子で物音ひとつ立てずに…。
「どうなさったの? 私、何か忘れ物でも…?」
彼女はにこりと微笑んで首を横に振った。風にそよぎ、頬にかかる髪が冷たく淡い銀色の影を顔に揺らす。
「あなたに、忠告しておくのを忘れないように…と思って。…その、親友として言うべきか言わないべきか、ほんとはずっとためらっていたんだけど」
そう言いながらまだ迷いを残すように俯く横顔の…水晶のような瞳を見ながら、私はきりんのガラス製の瞳を想った。
「ねえ、マージイ。麒麟は人形なのよ。足の先から紙の一本一本まで精巧な機械と人造の繊維を繋ぎ合わせて作った、自動人形(オートマータ)」
「それが、どうかしたのですか?」
彼女の言葉を途切れさせるように、低い声で言い放つ。と、彼女の硬い表情がはらりと崩れた。
「ごめんなさい。私…あなたが、その…あの人形に…例えば恋心のような想いを抱いているんじゃないかって心配になったの」
マーガレットの白い花のように微笑みながら頷く。
「人の噂では、あなたが麒麟に接する態度が…まるで人間の…男を見る目だなんて馬鹿馬鹿しい冗談を言う人もいるようだし」
そこで、少し目を伏せて顔を赤らめる。いやに芝居がかっている、ふっとそう感じた。
「だって、あの人形は造りがああだから…正直に言うとね、製作者の私でさえ、ふと何も手つかずで何分も見惚れてしまうことがあるもの」
ああ、これが本音。多分。
「でも、まさかね。あなたほど教養の高いしっかりされている方が、そんな幼稚な…」
「冗談なんかじゃありません」
出来るだけ堂々とした声で、彼女の言葉を遮った。彼女の水晶の瞳が、丸く凍りつく。
「今、何て言ったの? マージイ。良く聞こえなかったわ」
信じられない…と言うより聞きたくなかったって感じね。クゥオン博士。
「私は、きりんを愛しています。片想いだけど、愛しています。想うことは私の勝手ですから、あなたにご迷惑はおかけしません。ラボに不利益になるような行動に出るようなことも、絶対に有り得ませんから」
一瞬にして、彼女の目が青い炎になった。
突然、両腕を伸ばし私にとびかかってくる。
「あなた、狂っているわ。狂っているのよ、マージイ」
激しく燃えるペリエの瞳。
私が狂っているならば、彼女の狂気は私より遥かに上だ。細い華奢な腕のどこにこんな力があるのだろう。
…そう。やはり、彼女も麒麟の美しさに狂わされた者。
負けてはいけない。この人の気迫に押されてはならない。
私は毅然とした態度で振る舞う努力をした。
「もう、とっくに自覚しています。でも、私は狂っている自分を否定してはいない」
怖くない。もう怖くない。
「麒麟は美しいと思います。余りの美しさに見る者の美的感覚を狂わせ…それどころか、五感まで破壊してしまうほどに。彼は、この世で最高の美の姿なのです。私は、その毒気にあてられ、狂ってしまった自分をいとおしくさえ感じます」
「諦めなさい。まだ間に合うわ。あなたがここで言ったこと、誰にも言わないであげる。冗談で片付けてあげる」
「できないんです。諦められないんです。死んでしまう以外の方法では」
なら、死んでしまいなさい。彼女の目が氷のナイフのように光った。シャツの襟元がキリキリと音を立てる。
「姉貴!」
きりんの声だ。
振り返る。
銀色の髪、褐色の肌。きりんの形を持つ、きりんと異なった色彩の少年が玄関に立っている。
「キール」
炎鬼のように燃え盛る彼女の表情が、一瞬にして、紫苑の花のように、はかなげな笑顔に変わる。
キール?
「マージイは関係ない。手を離せよ、姉貴」
私の名を知っている。ではあなたはやっぱりきりんなの?
「キール、キール、…そう…何でもないのよ。マージイさんが早く帰ってしまわれるから寂しくてお引き留めしてるところなの」
銀髪のきりんに、すがるように抱きつくペリエ。私は目を背けた。
「ジン」
きりんがきつい声で呼ぶと、玄関の自動ドアの向こうから先ほどの老人が、白衣を纏い、メタルフレームの眼鏡をかけて現れた。
「何故、マージイを呼んだ?」
「ぺリエ様のご命令ですから」
フフン。鼻で笑った後、きりんは氷の瞳でジンを激しく睨みつけた。
「お前は姉貴の言うことならなんでも聞くんだな。殺人の片棒を担がされても」
「申し訳ありません。キール様」
沈痛な面持ちで、ジンが俯く。
「もういい。姉貴の面倒は俺が見る。マージイを頼む」
「お姉様とお呼びなさい、キール様」
「うるさい!」
乱暴に言い放ち、きりんはペリエを抱きよせ、自動ドアの奥に消えた。
きりんを見るペリエの目は、女の目だった。漠然とそう思った。
彼をキールと呼んだ。愛し気に甘いハイトーンで。
ほかの人を前にして話すときの、あの事務的な金属的な話し方ではなく。
玄関のガラス扉をじっと見ていると、
「あれは、麒麟です」
ジンが静かに言った。
「マヌカノイドの自慢の機能の一つです。自らの意志で、髪や肌、瞳の色素をカメレオンのように自在に変えられるのです」
「では、あの髪と肌の色は?」
「キール様のものです。あのご姉弟は混血ですから」
キール?
「こちらでお話ししましょう」
再び建物の中に入ろうとするジンに、私は慌てて尋ねた。
「帰るんじゃないの?」
「いえ、本当の用事はこれからです」
「まだ、ペリエは私に言い足りないことがあるの?」
うんざりして言うと、
「あなたをお呼び立てしたのは、本当は私がお話があったからなんです。クゥオン博士にあのようなことをなさるとは、予想ができませんでした」
彼は、本当に済まなそうに言った。
「あなた、何者なの?」
「ご挨拶が遅れました。ジン・サーハスと申します。麒麟プロジェクトの正式な責任者です」
地下深く降りて行く、エレベーターの中。ジンは私の首を見下ろして、また済まなそうな表情をした。
「首に指の跡がついています」
「殺されるかと思いました」
冗談にもなってないわと、自分でもおかしく思う。
「勇気の有るかたですね、本当に。あなたのようなかたは初めてです」
「そう? 本当にきりんに恋愛感情を持って乗り込んできた人はいないの?」
「まあ、言葉に出してくるかたや、名乗り出るかたはいませんでしたね」
その時、エレベーターが止まった。最下階らしい。
「こちらです。お入り下さい」
ドアが開くと、中は薄闇である。ドーム型らしい部屋の壁にランプや計器類がチカチカと点滅している。
闇の真ん中に、青い光を放つガラスケースがある。その中。
巨大なカリフラワーが水槽に浮いている。
始めはそう思った。灰白色のぶよぶよとしたそれは大笑いだが本当にそう見えた。
「こちらがペリエ・クゥオン博士です」
液体の中に、それがゆらり、揺れる。ごぼごぼ。小さな泡が二、三、立ちのぼる。
「これ、脳?」
「そうです」
静かに頷くジン。
「人間の?」
再びジンが頷く。
こみあげてくる吐き気を私はかろうじて押さえた。じゃあ、あれは? 私の首を絞めた、あの指は?
「麒麟が作られたのは五十年前。あの人形を維持するためにクゥオン博士は、自らの脳以外をすべて機械化し半永久化したのです。あのペリエ様の姿の人形もこの建物全体も、彼女の今の体であり、この脳が建物の中枢なのです」
麒麟は十六歳で死んだペリエの最愛の弟キールの、思考パターン・行動パターンをコピーして作り出された機械人形だ。
キールは自殺したのだという。
地下鉄(メトロ)に飛び込むなどという凄まじい手段をとったのは、姉の精神を狂わせてしまった自分の体を否定する、…“自虐”そのものの気持ちからだろう。
体の他の部分の損傷はかなりひどいものだったが、奇跡的に頭部は傷一つ無かった。
彼女は弟の亡骸を前に、涙ひと粒さえ見せなかった。ただ、いとおし気に冷たい死に顔を両手で撫でていたという。キールのデスマスクを掌で象るように。
「あの子は完全な機械ではありません。キール様の生まれ変わりなのです」
静かに語るジンの顔を、計器類の青い光が照らす。
「彼は、キール様の記憶と共に魂までも引き継いでしまったのです。ペリエ様の想いの深さが引き起こした奇跡です。…まあ老人の戯言とお笑いになってもかまいませんが」
笑えなかった。
マッド・サイエンティスト。そんな言葉が浮かぶ。哀れだと思った。恐怖すら感じてしまうほどに。哀れだ。きりんも、キールも、ペリエも。
「麒麟を生み出したのは、そういった彼女の極めて個人的な屈折した愛情だったのです。そんなことのために科学が利用されることを貴女は理解してくださらないかもしれない、それでも我々には彼女の科学者としての脳が必要なんです」
この穏やかな老人は、かつてこの脳の持ち主の少女を愛していたのだろう。水槽の中に揺れる脳を見守る彼の横顔を見ながら、漠然とそう思った。
「…私は研究三昧で、ほとんどこの建物からでたことはありませんが、時に外界の方々と、接すると、何だか疲れてしまいます。皆さん、理性的になった分、楽に生きているのでしょうが、何だか表情が少なくて人形相手に話をしているように思うことがあります。…麒麟や、ペリエ様のように激しい感情をむき出しにして生きている方が私には余程、人間的だと思えます。麒麟は…あの子は人形ではありません。人間の子供なのです。人間社会のしがらみに囚われない、ただ最愛の姉であるペリエ様への姉弟愛だけに拠って必死に生きているピュアな子供なのです」
…人形のような人間。私はまさにそうだ。人工的に作られた社会の部品としての生命。
「あなたもピュアなかたですね。久しぶりに人間らしい人間に会った気がしました」
「私が?」
意外な言葉だ。私は驚いてジンの目を見た。
「なのにあなたは、必死でピュアではない自分を演じようとしている。しかしそれがあなたにとっては本当の幸せかもしれません。ペリエ博士の、本当のお姿をあなたにお見せしたのは、他の誰でもない、あなたの為です。あなたは美しいかたです。身も心も若く、堂々としていて、社会的地位もしっかりしている。だからこそ、どうか麒麟のことはお忘れになって下さい。ご自分の幸せを生きて下さい」
眼鏡の奥の灰色の瞳が揺れている。
「ねえ、維持するためではなく、ただずっときりんと一緒にいたかったんだわ、彼女」
ぽつりと言うとジンは皮肉そうに笑った。
「あなたは既に彼らの運命に巻き込まれていらっしゃるようだ。しかし今ならまだ間に合います」
そう言ってジンは天井を仰いだ。闇に点滅するランプの光が星のようだ。この部屋はペリエの脳を中心に回る小宇宙なのだ。
「ここはあの姉弟の夢が生き残って、支配している世界です。彼らの夢に囚われて生きるのは、我々、彼らを昔から知っている老人だけで充分です」
負けた、と思った。
麒麟は、生まれた時から、いや、生まれる前のキールとしての魂からペリエの愛に囚われている。
あの女の近親愛がキール少年を追い詰め、自害させ、予定していた…というより、当たり前のように、待ち兼ねていたかのように再生した。“科学者の実験用試作品”という名目の、自分だけの愛玩具として。
私は兄弟愛などという感情はどうも理解不可能だ。それどころか家族なんてものもない。失ったのではなく、生まれた時から既に一人きりだった。サイリのように肉親の真似ごとをする気にもなれない。
だけど、ペリエのキールへの愛情の在り方が、とても私のそれに似ていて、しかも私より深く激しく、透明だということはわかる。
ジンに伴われて玄関ホールに出ると、銀の髪のきりんが、柱にもたれて待っていた。
「見たろ?」
咎めるような目。なぜ、“あれ”を見たのだと。
ジンが見せたのよ。見たくて見たわけじゃないわ。
「わかったろう? 俺は姉貴の奴隷なんだ。逃げられないんだよ。彼女からは」
銀色の髪、褐色の肌。キールの色を着た、きりん。
「その髪の色、その肌の色で、あなたは永遠にこの中で暮らすのね」
「俺には、ペリエの為だけの、キール・クゥオンの身代わりとしての存在意義しかない。お前にとっては俺はただの人形に過ぎない。お前に俺は何もしてやれない。自分から承知の上で自分を惨めにすることは無いだろう」
「余計なお世話だわ」
今更何言ってるのよ。そんなこと今までどれほど悩み抜いたと思っているのよ。
「これで、最後だ。もう外へは出ない。二度とあんたに会わない。諦めろ」
さっきから偏頭痛でこめかみの辺りがガンガン鳴っている。私は右手で頭を押さえながら言った。
「何よ、キールなんてただの臆病者じゃないの。お姉さんの想いにちゃんと向き合いもしないで、自分がどうしたいのかも考えもせずに死に逃げるなんて卑怯なだけよ」
「お前にキールの辛さはわからない」
「あなたはきりんよ。キールではないのよ」
涙が溢れ出す。止まらない。
何かが間違っている。私には介入出来ないことかもしれない。でも。いいの? 今のままで、本当に。きりん。
「生きる理由なんて、ひとから与えられるものじゃないわ。何故あなたが、キールの運命を背負うの? いつまで? 永遠に? …永遠にあのひとと暮らすの? 閉ざされたラボの中で。それがあなたの望みなの? ペリエのプログラム(命令)ではなく、あなたの望みって何?」
「望み? …ロボットに無理言うなよ」
「逃げたいんでしょう? 自由が欲しいのでしょう? 息が詰まりそうなくらい、辛いんでしょう? どこに逃げても無駄だってことを自分に思い知らせたくて。…だから、初めて会ったあのときみたいに、家出ごっこしてみたりするんでしょう?」
「家出ごっこ」
この表現にカチンときたらしい。きりんの美しい眉間に鋭く皺が寄った。
「逃げようと思ったことすらないよ。俺は姉貴に守られて生きるのが宿命なんだ。この平穏を壊そうとするあんたの存在の方が、邪魔なんだ」
「大嘘つき!」
私は思わず叫んでしまう。
「お前なんか大嫌いだ。二度と顔見たくない」
彼の声が、氷のかけらのように耳に突き刺さる。
「お前を見てると、イライラする」
私の体のどこかで、ピシリと音がしたのを、確かに聞いた。
三日泣き暮らした後、私は本社に直行し退職願を出した。
「すべてに、疲れ果てたんです」
その後、開発室に行って、自分のデスクを片付け、置きっぱなしの私物をボストンバッグにポンポン放り込んだ。
噂はここまで届いているらしい。予想通り引き留める者はだれもいなかった。皮肉な笑顔と同情の目。
女のくせに、可愛げもなくいばりくさっていたのが、機械人形への片恋に狂い、会社を追われて行く。ざまあみろって感じかな。
大荷物を担いでうんうん言いながビルを出ようとすると、
「ライルさん!」
元気な女性の声。フィーナだった。紺色のシンプルなセーターにジーンズといういでたちでニコニコ笑っている。
「私服…どうしたの?仕事じゃないの?」
「サボって来ちゃった」
舌を出して見せる。何やっても可愛いのね、この子は。
「あきれちゃうわね。責任感とか無いの?」
噴き出しそうになりながら、一応叱ってみた。
「今日だけは、先輩を見送るほうが大事だと思ったんです」
あまりに悪びれてなくて、もう何も言えない。
「どうなさるんですか? これから」
「引っ越すの。住まいももうさがしてある」
郊外に格安で借りられるコテージを見つけ、昨日のうちに電話を入れておいたのだ。不動産用のカタログ回戦でビデオを見て、サンルームがやたらでかいことと、深い森の奥にあることが気に入った。
少し安すぎるところを見ると、相当ボロなんだろうが、かまわない。
そういう辺鄙な場所で、何もせずに一人でしばらく暮らしたかった。ここ暫くの間、私の心を怒涛のように掻き乱し続けたすべてから離れてみたい。
働かなくても十年は何とか生きられるくらいの貯金もあった。
「手伝う」
フィーナは、私の手からボストンバッグをふんだくって、ひょいひょい歩き出した。
どう表現していいかわからないけどフィーナの目は真っすぐだった。職場を後にする最後に見たときの目とも違う。真っすぐな温かい瞳。うれしくて頬が熱くなる。
「ありがとう」
それだけ言葉にするのが精一杯だった。
マンションの部屋の前にはもう一人の無断欠勤者が待っていて、照れ笑いを浮かべながら片手をあげてみせた。
レーン。
「ごめんなさい。彼がライルさん何で辞めるんだって、あんまり心配してるから、引越しのこと言ったら、男手要るだろうって。どうしてもって来ちゃったの」
「やだ、引越し業者にも予約したのよ」
困ってしまったけど、何だかおかしくて笑いが止まらなくなってしまった。
「いいじゃん。人手は多いほうが」
「仕事棒に振るわよー。将来有望なのに」
「キツイなあ」
「聞いたわよ、ライルさんをかけの対象にするなんてひどいわ。そんなことされたらあたしだって怒っちゃうよ」
二人がぽんぽん言い合っている姿が、涙で滲んでしまう。
私にも味方はいたのだ、あんなに冷ややかな場所にも、こんなにも暖かく見守ってくれていた瞳があったのだ。ただ、私が心の目を堅く閉ざしていただけで。
愚かだった。
でも、もう時間は取り戻せない。
私の心の目は、きりんという強烈な光で焼け爛れてしまって、もう何も正しく見ることはできない。
やがて引越し業者も来て、私達は大騒ぎをしながら荷造りをした。
「家具、少ないんですね」
部屋を一通り見回して、フィーナは言う。
「家電はね、必要最低限のもの以外処分しちゃったの、もう」
「どうして?」
「吐き気がするの。機械アレルギー。高熱とか発疹も出たこともある。精密であるほど、触れないの」
きりんの存在を知って以来の症状。笑うしかないことだが、フィーナはハッとして俯いた。
「…“彼”には知らせたの?」
食器を箱にしまいながらフィーナがぽそりと言った。“彼”という言い方が気にいって、私は素直に首を横に振った。もうこの子には“強い女”の鎧を着て見せるのは不可能だ。
「きりんには、もう会わない」
「じゃ、一人ぼっちで行くの?」
「あの子には振られちゃったの。もうそれこそコテンパンに」
ケラケラ笑って言う私に、フィーナは悲しそうな笑顔で応えた。
「遊びに行っていいですか?」
「ありがとう、でもこちらから連絡するまでは遠慮してほしい」
「そう…」
彼女の笑顔が曇るのを見るのが辛い。
「でも、あなたの優しさは本当に嬉しかったの。ありがとう、フィーナ」
慰めようと思って出た言葉がかえって彼女を泣かせてしまう。御かげで台所の荷造りに一番時間がかかってしまった。
「連絡、待ってます」
フィーナが泣き笑いで言った。
そして、今、私はここにいる。
ここに来て一週間が過ぎた。
古びた木造の一軒家にゆっくりと、秋の夜が深まってゆく。
サンルームの大きな窓越しに、決して多くはないが鋭い光を放つ星が見える。
記憶喪失になりたい。自分の名前、過去、出来れば姿も。何もかもすべてを帳消しにしたい。今までの自分のすべてを。
きりんに関する記憶を消すにはもう、自分が自分で無くなる以外にないのだと、思う。
せめてすべてを洗い流してゼロの精神状態から人生をやり直そうとここに来たのに。
そのための環境としては、ここは絶好の場所だった。
静かな家で、私はただ毎日をだらだらと生きていた。そうしているうちに、少しずつ、今まで自分が着こんでいた厚い鎧が自然に脱げていく感じがあった。
そして。それでも最後に残るのが、きりんだった。
きりんへの想いは、時を追うごとにますます純化されていく。
私は魂から、きりんへの恋に蝕まれているのだ。彼は既に私の心臓そのもの。ああいっそ消えてしまうべきなのだ。人形相手の恋に私の想いが結実する望みはカケラもない。ましてペリエの支配下にある愛を前に、もう彼を目にすることさえ二度と叶わないだろう。
だのに、諦めることもできない。きりんなしの人生は考えられない。
この往生際の悪さ。…自己嫌悪。いっそ存在から跡形もなく消えてしまいたい。でも自殺する気力も無かった。
せめて、彼をただ思いながらひとりで暮らしてゆこう。ゆっくりと崩壊していく自分を見つめながら、誰も巻き込むことなく、たったひとりで。この場所で静かに狂ってゆくのだ。
私の心を焼き尽くしたあの子の面影に酔い潰れながら。
きりん。
あなたの面影は遠く離れてもくっきりと目に浮かぶ。
その輪郭が鮮明であるほど、あいたさは激しく募る
あいたい。捨てなくてはならない、叶わない願い。だけど、あいたい。
もうひとめだけでいい。ひとめでいいからあなたの姿を見たい。
ぼろぼろになるまで罵倒されたっていいよ、きりん。
…あなたにあいたい。もう一度会えるなら本当に何もかも失ってもいい。
窓越しの夜空。糸杉の林のそばに、銀青色の、宝石のような鋭い光の星がひとつ。
ここから真っすぐあの位置目指して昇って行ったさきに、確かにあの星は存在しているのだろうか。決して届かない、手にすることの出来ない夢のような。
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