【初秋(告白)】
「それは恐ろしい物語よ
キスを待ち続け眠るなんて
ああ 私もワナにはまりそう」
(高岡早紀「眠れぬ森の美女」)
例えば。
見たこともないほど美しい花が、目の前に有ったとする。
どうしても家に持ち帰りたい。見たい時に見られるよう、いつもそばに置いておけたら。
朝露に濡れ、その紅が一層深みを増している。手折ろうとして茎についた鋭いトゲに指を傷つけられる。
その瞬間から、その花を美しいと言えなくなるのだろうか。人を傷つける悪い花だと、二度と見向きもしなくなるだろうか。
きりんへの恋は、そういうことなのだ。
これを一目惚れと言ってよいのか。
彼と出会って、あの奇妙な会話を交わし、そのペースに巻き込まれた十分弱の時間。私は深い恋の罠に堕ちていた。その後で、彼が“人形”なのだと知らされたって、もう遅い。
「マージイ!」
残業を終えてタイムレコーダーを押し、廊下に出ると、大声で呼び止められた。振り向いて私は大きく溜息をついた。
「出張?」
「違う、マージイを待ってたんだよ」
人懐こい笑顔。彼の自慢のチャームポイントのこの笑顔が私は気に入らない。
リンド・ヴァイン。通称レーン。私を賭けの対象にした張本人。
今年の春の入社以来やたらと声をかけてくると思ったら、先日とうとうデートの誘いを仕掛けてきた。
「私は構わないけど、一応忠告しておくわ。部下が上司に同等に接するのって、周りはあまりいい目はしないわよ」
頭一つ分背が高い彼の顔を睨みつけて言い放ってやった。私がスキップで大学を出ている為、年上の後輩は結構いる。彼は二歳上の二十七歳。
「今は、勤務時間外じゃん」
事もなげにさらりと言う。目上の女性も扱い慣れてるのね。
「せっかくのアフターファイブじゃん。どこか連れてってあげる。どこ行こうか?」
うんざりだ。用事のあるふりをして逃げようと時計を見た。
PM6:00。ふと、階下の公園にいるはずの、あのロボットのことを考えた。
「麒麟を見に行きたいわ」
重い吐息と一緒にこぼれ落ちるように本音が出てしまう。
「動物園に興味があるの? 夜間営業は今日は無いはずだぜ」
レーンは、少し呆れるように笑った。
「その“キリン”じゃないわ」
割と予想通りのリアクションに私もつい笑ってしまった。首が長くていつも遥か遠い空を見ている、あの感じはちょっと似ていないこともないけれど。
“麒麟”っていうのはね。伝説の獣よ。神の使いなの。
聖なる王が現れるという予言を伝えるために、風を渡って地上に駆け下りてくるのよ。
金茶の、光の束のようなたて髪。真珠の鱗が輝く、力強くしなやかな体。鞭のような尾。
図鑑で見た、大昔のおとぎ話の獣は、燃える青い瞳をこちらへ向け、今にも絵を抜け出してきそうな迫力に満ちていた。
そう。私が恋したのは聖王ではなく、その御使い。彼を見ていられるなら、明日この世が終わると言われても、救世主なんていらない。
「賭けのネタにされるくらいなら、キリンの目に話し掛けて、時間を潰すほうがマシだわ」
切札の言葉。いいかげん、これで私を見捨ててくれるだろう。
「私を陥とすのに、幾ら賭けてるの?」
「聞いてたの?」
ホラ、顔色が変わったわ。
しかし、次の瞬間、彼は噴き出した。
「やだなあ、冗談に決まってるでしょう?」
「冗談にしたってたちが悪すぎるわ!」
つい大声を出してしまう。すると突然、彼は私の眉間を指差した。
「やっぱり堅過ぎるんだよ、マージイは。良くない。少しは男と付き合って、男の冗談もわからなきゃ生きていけないよ、“せんぱい”!」
人を馬鹿にするのもいいかげんにしてちょうだい。どうせカイス病棟育ちの情緒欠陥人間だって心の中で笑ってるくせに。
「半端にしか付き合うつもりが無いなら、これ以上私の心に入って来ないで!」
もう誰も私の心に触らないで。
たぶんレーンが見抜いている通り、私はバージンである。
見映えの良い男を見分ける審美眼も、本心から優しい男を見出す価値観も、ある程度は養ってきたつもりだった。ただ、仕事の方が面白くて男と付き合う暇がないのだ。そう思ってきた。
カイス出身の私にも、民間人との結婚は奨励されている。カイス同士の人工授精に、失敗作の卵子は使われないが、人間として子孫を残す幸せは与えられているのだ。
二十五歳ともなれば、配偶者を探すにも早すぎる年齢ではない。
しかし、今まで私に声を掛けてきた男性はいなかった。初めて構ってきたレーンでさえこんなギクシャクしてしまう。自信や価値観が滅茶苦茶になる。
怖いのかもしれない。
子供を産み、育てていく…ということに自信を持てない。親に育てられた経験のない私に、親として子を育てるなんてできるはずないではないか。だから、セックスにも潜在的に恐怖を感じているのだろう。
何故か、今、無性に、きりんに会いたい。あの輝くように孤独な姿を目にしたくて、夕闇の中を目の前の公園へと歩き出した。
「顔色、悪いですよ」
インテリアアドバイザーの一人、フィーナ・カルムが仕事中の私の顔を覗き込んだ。丸顔と小柄な体に、アドバイザーの制服であるレモンイエローのミニのワンピースがよく似合う、可愛らしい女性である。
今朝の開店直前のチェックでLSSの映像に故障を発見した。キッチンの水回りの部分が作動しなくなってしまったのだ。
メンテナンス用のディスプレイにプログラムを表示して、バグを探しているといつも、不思議なことに頭の一部が真空になる。奇妙な癖である。目と手だけは正確に作業を行うのだが、それ以外の所は、集中するほど、その空白は深く鮮明になっていくのである。
空白の部分で、私はまた無意識のうちにあの人形のことを考えていた。
きりん。あの子のプログラムにもこんなバグがあれば作動停止してしまうのだろうか。…そう思うと、目頭が熱くなって、頭を押さえてしまう。
「休んだほうがいいですよ。もう二時間も画面に向かいっぱなしで」
二時間? この程度の故障ならいつも十五分で治せるのに。
「でも、直してしまわなきゃ、今日は予約が入っているんでしょ?」
「予約は五時ですから誰か応援頼みましょう」
「そうはいかないのよ。他のひとじゃわからないから」
「いざとなれば、キャンセルすればいいんです。ビジネスより、あなたの体の方が大事でしょ?」
フィーナは私を無理にでもディスプレイから遠ざけようとする。
「甘いわよ。仕事ってのはそんなもんじゃないの」
無理して笑顔を浮かべながらも、涙が止まらなくなる。冷汗がダラダラと流れ、意識も薄れてきた。
そのまま気を失い、私は医務室に担ぎ込まれた。しばらく休んだ後、支店長に早退届をかかされ、病院へと向かった。
「…不整脈が出ているようですね」
サイリが首を傾げてカルテを見ている。
「不規則な生活をしていたりしませんか? きちんと睡眠をとってますか?」
「…はあ」
自信を持って頷けない。床に就くのは早いが、眠れない日が続くのだ。
「まったく。だから、あまり責任のある仕事に就くのは賛成しかねるんです」
一週間の自宅療養を言い渡され、サイリが呼んでくれたタクシーに無理やり乗せられた。
何かがへんだ。自分でもよくわからないが、体のあちこちのリズムが狂い、不協和音を奏でている。
宵闇に、幻想のような電飾が揺らめく街。タクシーの窓越しに彼を見掛けた。
きりんだ。
噴水のへりに腰掛け、星の無い夜空を見上げる横顔の、シャープな顎のカーブ。
私は思わずぐっと胸を押さえた。
…きりん。放浪癖のある奇妙なロボット。
わざと人目に着く場所を選んで、しかも毎日同じコースを歩いている。“散歩”ではなく、捕まるために、さまよう。
ここ半月ほど、通勤の往復に必ず彼を見掛けた。
彼の奇怪な行動や、容姿に興味を持った…というよりも。気に懸かるのだ、何となく。
朝は、モノレールの駅前広場の時計塔前。
夕暮れ時は、セントラルパークの大楠の幹にもたれて。
…彼は迎えを(追っ手を)待っている。
その姿を、通勤途中のモノレールの強化nガラス越しに確かめる、私。
線になって流れていく景色の中で、彼のいる場所だけがはっきりと見える。
目の中で、残像になって、数秒残る。
そして、その残像が消える頃に、私はホッと溜息をつく。
この感情を何と呼べばいいのか、私はその時まだわからずにいた。少なくとも“好奇心”と呼べるほど、積極的な感情でないのは確かだったけれど。
だって、あれはロボットなのだ。好奇心以外に、この割り切り難い動悸を説明する言葉を、私は何に求めればいいのだろうか。
「お客さん、大丈夫ですか?」
声をかけられて我に帰ると、涙が溢れていた。人の良さそうなその運転手は、私が病院帰りの客ということで、気をつかってくれているらしい。
「具合、悪いんじゃないですか? 引き返しますか?」
「ごめんなさい。停めてください」
「え?」
「降ろしてください、早く」
運転手は慌てて車を停め、振り向いた。
「困りますよ。さっきの先生から、きちんと自宅まで送るように言われてるんですから」
「いいのよ。買い物の用があるの」
私は、自宅までの料金の倍の金額を運転手に渡した。運転手は渋々ドアを開けた。
「気をつけて帰ってくださいよ」
「ありがとう」
運転手のさりげない気遣いに、自然に笑みが浮かぶ。
ここから噴水までは、約五百メートルくらいだろうか。
私はゆっくりと、道を引き返し始めた。
一週間の療養後、私は本社へ呼び出された。
小さな密室になっている応接室に通されて、五分程待ったところで人事課長が現れた。
何だか外来の客みたいだわ。正社員なのに。私は妙な居心地の悪さを感じた。
「たいした用件ではないんだがね、君の健康状態について二、三質問したいんだ」
「はあ」
向かい側の席に座った人事課長は、私に目を合わさず話す。
「そうすると、心臓病というのは、持病なのかい?」
「いえ、持病というほどのことではないんです。体の他のところから見れば比較的弱いだけで」
「でも、今回は相当悪かったのだろう?」
「それは、ただの過労なんです。一週間も休養なんて本当は大袈裟なのに、カイスから無理にこちらに申請があったそうで、本当に申し訳なくて」
「こちらとしては、そう大変な仕事をお願いしているつもりはないんだがね。カイス出身の優秀な君なら、簡単なものだろうと思うのだが」
課長は苦い顔で溜息をつく。
「申し訳ありません」
言いながら、身が縮まるような思いがした。冷房が効いているのに、冷たい汗が首を伝う。
「ところで、…失礼だが、君は結婚の予定はないのかい?」
「いいえ。相手もいませんし、そのつもりもありません」
「では、ここでやがては責任職に就いていこうというつもりなのかい?」
「できれば」
フン、と鼻を鳴らして課長は笑った。
「君、女性があまり肩意地張って生きるのはやはり良くないよ。優秀な社員にこんなことを言うのも私としても辛いのだが、きみも女性としての幸せというものを考えた方が…」
「体は、必ず治します。私は、今の仕事を天職だと思っています」
自分で言いながら、その言葉に自信を持てない自分に気づいていた。“天職”という言葉に、祈りのようなものを感じながら。
「とにかく、中央区支店での仕事は、間もなく交替してもらうよ」
そのひとことで、私は重要な一つのピークが終わったのだと感じた。
応接室を出ると、ドアの傍にレーンが立っていた。どん底の気分の時に一番見たくない顔。私は彼を無視して、速足で立ち去ろうとした。
「待って下さい、ライルさん」
いつになく真剣な彼の声。がっしりと手首をつかまれ、立ち止まる。
「何?」
平静を装うつもりが、声が震えてしまう。
「俺、見ました。あなたは、あの人形と会う為に欠勤していたんでしょう?」
結果的にその通りなんだけどね。言葉にすると凄く陳腐ね、私の行動って。この一週間、日の出ているほとんどの時間を私はあの公園で過ごした。きりんの姿を見ていたくて。
「あれは、人間じゃないんですよ!」
「あなたには関係ないわ!」
つい大声を出してしまう。彼の表情が曇る。
いけない。彼は心配してくれているんだ。
彼は苦手なタイプで、話しかけられるとついイライラしてしまうけれど、これでは八つ当たりだ。
「ただ、興味があるだけよ」
ごめんなさい。小さく言って、私は何とか笑顔で取り繕ってみた。
「私、最近疲れていて。病院からもね、運動とリラクゼーションのために、散歩を薦められているの。あの子を見つけたのはその散歩の途中だったのよ。ホラ、目の保養って言うじゃない。あの子見てると落ち着くの」
彼を安心させるために、半分くらい嘘を言った。もう半分は私自身に言い聞かせる嘘だ。
「もう遅いよ。俺より先に、あなたとあの人形が一緒にいるのを見てる人はたくさんいる。中央区支店の何人かは、面白半分に妙な噂を立てている」
「ただ見てるだけだわ」
きれいな花や絵が有れば立ち止まり、見惚れないではいられない。所有したいと思う。それとどこが違うって言うの? なぜ私がきりんを見ていてはいけないの?
「だからこそ、余計に怖いんだよ。あなたがあまり辛そうな目で、あの人形を見ているから。どうしても手に入らないものに恋い焦がれて苦しむ目だから」
“恋”?
レーンの言葉に私は息を飲んだ。
夕方から降り出した土砂降りをBGMに、深夜まで私は自室で荒れまくっていた。
疲れていた。無意識のうちに必要以上に神経を使っていたようだ。…その癖、いやらしく頭が冴えている。
せっかくの眠れない夜なのだから、マガジンラックに溜まっている雑誌とか、仕事に使う。資料のプリントアウトに目を通すとかの使い方をしたい。しかし、体と大脳の三分の二以上が、アルコールを体に流し込むことしか思いつかず、それしか求めない。
とにかく、起き上がることさえ嫌だった。
だから、ベッドから勢いをつけて転がり落ちてみた。床は、質の良い板張りだから、適当に一瞬痛かった。
私は体半分に薄手の毛布を巻き付けたまま、…まるで超古代の詩人か、人生を諦めきった乞食のような姿で、家じゅうを這い回った。
冷蔵庫の前に辿りつくと、ありとあらゆる種類のアルコールの瓶を並べ、リキュールをカクテルにしたり、ストレートのままでなどして飲んだ。
滅茶苦茶だ。自分の独り言が酒臭くて、ふふんと笑った。本当だ。何がどう滅茶苦茶なのかわからない位滅茶苦茶だ。
私は、あの人形を…きりんを愛しているのだ。この想いが恋という感情だったとは。
きりんが、愛しい。みんなきりんのせいだ。許せない。憎い。彼が私を滅茶苦茶にした。仕事も体も感情も未来も愛も夢も!
この部屋の散らかりようも、外の方向が滅茶苦茶な大雨も、突然しゅん、と音を立てて切れてしまったベッドサイドライトの電球も。みんなきりんのせい。
…そういえば体調のチェックを忘れていた。部屋の灯りを点け、コンピュータの前に立ち、スイッチに手を伸ばして。
手が震え出す。あと3センチでスイッチに手が届くのに、どうしても手が動かない。
そして。突然の寒気と吐き気。慌てて洗面室に駆け込み、吐く。しかし、昨日から殆ど胃に何も入れていないので、胃液しか出てこない。胃が裏返ってしまうんじゃないかとさえ思った。
…機械だから? そう。この強烈な生理的嫌悪感の原因は、相手が機械だから。きりん…あの子と同じ、機械だから。
寝室まで這って戻り、床に座り込んだ。真っ黒なディスプレイのガラス面に、私のむくんだ顔が映っている。おそるおそる掌をそっとガラスにくっつけてみた。冷たく、ツルリとした感触。
マージイ、よく考えて。きりんはこれと同じようなものなのよ。
私は、いったいあの人形に何を望んでいるのだろう。
言葉でうまく説明がつかない想い。目を閉じ、心の底を探ってみる。
あの子に何を望むの? そばにいて欲しいの? 恋人のように、夫婦のように…二人で生活したいの? それとも彼の体に触れたいの? あの肩に、頬に、二の腕に?
…馬鹿馬鹿しい! 人形相手に思うことではない。
ディスプレイのガラスに唇を近づける。唇の形に白く残る曇りを見て、どうしようもなく自分が情けなくなった。
初めてきりんに会ったあの瞬間から、私の思考はぐちゃぐちゃだ。何が何だかわからない。きりんに向かう想いはベクトルを定められない。
もう、限界だ。
次に目を覚ますと、夕方だった。私としたことが、無断欠勤をしてしまった。二日酔いで疼く頭痛があるが、心は妙に澄んでいた。
今、どうしても彼の声が聞きたい。あの楽器のように美しい声で私に語りかけて欲しい。私は、ふらふらした足取りで、モノレールの駅へと急いだ。
夕焼けに染まるセントラルパーク。きりんは大楠にもたれ、空を見ていた。
ああ、やはり凄い引力だ。彼の美しさは、本当にこの世に存在するすべての光を反射して、後光のごとくオーラを発しているかのように見える。彼の存在自身が強力な磁場だ。
私は、まだふらふらしながら、彼の傍へ近づいていった。いつもは遠巻きに見ていることしかできなかったのに。
その状態あまりに情けなかったらしい。
「また、来たのか。ここんとこ毎日だな」
彼は、あの日以来初めて私に声をかけてくれた。
「気づいてくれてたの?」
「あんた社会人だろ? 仕事はどうした?」
「あなたに説教されたくはないわ」
人形のあなたなんかに言われる筋合いはない。
「お願いがあるの」
「何だよ」
「私の名前、ちゃんと呼んで。マージイっていうの」
あなたの声で私の名を呼ぶの聞きたいわ。
「何で俺が、あんたの名前を呼ばなきゃならないんだ?」
「いいから、呼んで」
ククッ。冷たい笑みを浮かべ、彼はこちらへ近づいてきた。私を見下ろせるくらい近くに立つと、意地悪そうに言った。
「マージイさん、さっさと帰れよ。いい大人がこんなところで人形ごっこなんてまずいんじゃないの?」
「キスして」
彼の目が大きく見開かれた。聞くはずのない言葉を聞いた、という表情。
彼を動揺させた。それだけで奇妙な勝利感があった。精巧に出来ているとはいえ、性格的には愛想悪く作られているきりんを、動揺させられるのは私だけ。
「バカじゃないのか、あんた」
噴き出して高笑いする。笑うとカナリアみたいに高く声が響く。
「私も、そう思う」
本気かよ…きりんは独り言のように呟いた。
「諦めるんだな。エネルギーの無駄遣いだ」
それが出来るならとっくに諦めてるわ。こんな未来も夢もない恋。
「物凄いつまんねえ冗談のつもりだと思ったら、本気だなんて。そりゃ、あんた、ただの道化だよ。あんた、冷蔵庫や洗濯機にキスできるのか?」
…うちの冷蔵庫や洗濯機のほうが余程愛想がいいと思う。
だけど、私が恋したのは“きりん”だ。機械ならなんでもいいというわけじゃない。逆に、それが“きりん”であるならば例え獣や虫や木や花であっても、私はキスを贈っていただろう。まして人間であったなら…!
「あなた、ロボットでしょう? ロボットなら人間の命令は何でも聞くのでしょう? ねえ、私にキスしなさい」
「俺は誰の言うことも聞かない。たった一人の言うことしか。その為に作られたんだ」
冷たく言い放つ。その冷酷な瞳さえ私を酔わせる。
「あなたが、好き」
「勝手に想うなよ。俺が頼んだわけじゃないだろう?」
ねえ、もっと意地悪を言ってよ。私を打ちのめしてよ。あなたを憎ませて。二度と顔を見たくなくなるくらい。私一人では、どうしても諦めることができなかったの。これが、最後の手段なの。
「あなたが、好きです」
だから、諦めさせて。どうにもならないことなんだって思い知らせて。助けて。お願い。
…不意に背中に手を回された。乱暴に、というより機械的に抱き寄せられた。
たった一秒の、短いキス。
冷たい唇。まるで氷。
本当に、ただ重ねただけの。愛情とか思いやりとかのカケラもない、無機質なキス。
「俺は、嫌いだよ、あんたなんか」
放り投げるように私の体を手放すときりんは皮肉な笑顔でそう言った。彼の嘲りを込めた笑みは、私にはこれ以上ないほどの拷問だ。
もう、耐えられない。耐えられるはずがない悔しさと恥ずかしさ。さあ、これでいい加減諦められる。
なのに。
…だめだ。どうしよう。ますます乾きがひどくなってしまっているのに気づく。
何故よ? 何故なのよ?
自分でも自分に説明がつかない。
ここまで嫌われているのよ。これ以上関わっても傷つくのは私の方。
「何だよ、さっさと帰れよ。うじうじ泣いてんじゃねーよ。鬱陶しい」
こんなに邪険にされているのに。構われている。それだけで無関心よりは嬉しい。そう気づいてしまった。
惨めだ。どうしようもなく。
でも、それが本当の私の想いの姿。
おもむろに、私から唇をきりんの唇に強引に押し当てた。
きりんの手が私の肩を押し戻そうとする。だめよ、絶対に離さない。ぎゅっと抱きしめるわ。
堅く閉じた瞼の裏に、一瞬コンピュータのディスプレイのガラス面にくちづける自分の姿が浮かんだ。
顔を離したとき、両目から泉のように涙が溢れてしまった。その涙に一瞬戸惑うきりん。
「私は、あなたが好き」
きりんは凍るような一瞥を残し、大股で歩き去った。
涙が、止まらない。いつまでもいつまでも。
夕暮れ時の公園。かなりの人がすべてを見ていた。恥ずかしい。でもこの涙は止められない。立ち去る気力も、もう無い。
シナリオはぶち壊しになった。
彼は人形で…あんなすっかり人間そのもののふりを完璧にやってはいるけれど、所詮は心を持たない精密機械の集合体なのだ…そう思い知らされたかった。あんなものに夢中になって馬鹿みたい、と笑って終わりにしたかった。
なのに、終われない。彼は完璧に人間的過ぎる。あれじゃまるでただすごく意地悪な人間の男の子だ。
どうかしている、私は。
楠の大樹にもたれ、大声で泣きじゃくる。片恋はちっとも純粋でも綺麗なものでもない。とても勝手な押しつけがましい感情だ。
きりん…ごめんね。
諦めさせてほしいなんて、嘘よ。自分についた嘘。
本当は、甘えたいのだ。私は何も間違っていない、と保証してほしかったのだ。
人間として不自然で、カイスとしても不完全で、おまけに二十五にして初めての恋までこんな有様で。
だけど、世界中が私を狂っている、と言っても、彼一人に認めてもらえれば、少しは楽になれるかもしれない。
そんな勝手な願いを、彼は期待通り冷酷に拒んでくれた。そうされることで、自分の愚かさと甘えを自分に思い知らせたかった。なのに、その冷酷さは私を予想も出来なかった方向に押し流した。
…ねえ、きりん。
あなたが私に関わるまいとするほど、私はあなたを憎むわ。憎みたくて憎むのではないの。憎まずにはいられないの。
誰かを憎んでいやな女になっていく、こういう自分が嫌い。私をいやな女に変えていく、あなたが許せない。
この加速していく悪循環を断ち切るには、私の中から、きりんの記憶を消す以外に方法はない。
でも。彼を知る前の平穏な日々には、もう戻れない。
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