3-2 大切な人のために

 結論から言うと、平常心なんて保てる訳がなかった。

 鶴海に「奢りますから」と言われて連れてこられたのは、鶴海行きつけの抹茶専門店。おすすめだという抹茶のロールケーキを食べながら、鶴海は事情を話してくれた。


 景と宇多と会う少し前のこと。紗々里の所属するレコード会社「シトリンレコード」の音楽プロデューサー、茶谷ちゃたに久司ひさしが出版社を訪ねてきたという。鶴海に話があるというので応接室に招くと、思わず聞き返したくなるような言葉を放たれた。


「結野紗々里を勝たせてやって欲しい」、と。


 頭を下げて、言われたのだという。


「な……にかの、冗談、ですよね?」


 当然のように信じられなくて、景は聞き返してしまう。

 返ってきたのは、鶴海の苦い笑み。いや、愛想笑いすらできていなかったかも知れない。それくらい、苦しさが前面に出ていた。


「もちろん、私は断りました。無理ですし、私だけの意見で曲が決まる訳ではないので、と……」

「……その、プロデューサーの方は、なんて?」


 嫌な予感がした。もしかしたら、アニソン戦争自体が中止になってしまうかも知れない。勝手な想像が膨らみ、景の頭には恵麻の顔が浮かんだ。もし、恵麻が不戦勝ということになったら、恵麻は喜ぶだろうか。

 そんなの、考えるまでもなかった。


「あ、あの……。大丈夫、です。その……賄賂、とかは渡されていないので。何度も頭を下げられましたが、最後は諦めて帰っていかれました」

「そう、ですか」


 安心、して良いのだろうか。抹茶の風味が口いっぱいに広がって美味しい――はずのロールケーキが、なかなかのどを通らない。

 きっとこれはそのプロデューサーに対する怒りなのだろうと、景は静かに思った。「絶対にこの作品の曲を歌いたい」と言い放つ紗々里の顔が、頭をよぎる。本人の意志に反する行動を、プロデューサーがしている。その事実に、頭が痛くなった。


「結野さんは知っているんですか?」

「本人は知らないと、茶谷さんが……」

「つまりあれか。結野さんは勝たせたいけど、大ごとにはしたくないから賄賂はしないし本人にも伝えないってことか。ひでぇ奴だな」


 鶴海を前に緊張していたはずの宇多も、ぼそりと不満を漏らす。眉間にしわが寄っていて、プロデューサー――茶谷に対する怒りが見え隠れしていた。


「私はこのように……気の弱い性格なので、押せば頷くと思われたのかも知れません。でも、私はちゃんと平等に判断します」


 平等に判断します、という部分だけ、鶴海は力強く言ってくれた。景は一瞬安心するが、鶴海の表情はすぐにしぼんでしまう。


「心配なのは、結野さんです。結野さんは……真摯な言葉を私にぶつけてくれました。なのに……茶谷さんの行動は、あまりにも」


 今まで、鶴海はずっと困惑しているようにおどおどしていた。しかし、目を伏せた鶴海は小さくため息を吐いた。茶谷に対し、呆れを感じているように見える。


「本当ですよね。って、俺は仁藤から話を聞いただけですけど。アーティストの気持ちを裏切るプロデューサーなんて最低じゃないですか」

「あ……! わかっていただけますか?」

「もちろんです! っていうか、茶谷Pって結構有名ですけど、そんな奴だったのかって感じです」


 怒りを露わにする宇多を見て、鶴海は一安心したように頬を緩めた。きっと、さっきまで一人で悩んでいたから、自分と同じ感情を見せてくれているのが嬉しいのだろう。一方で景は静かに怒ってしまっていて、何だか申し訳ない気がしてしまう。


「あの、左山先生」

「は、はい」

「結野さんの連絡先は知っていますか? まだ本人に伝えては……ないですよね?」


 景の問いかけに、鶴海は静かに頷く。


「連絡先は知っています。……本人に伝えるべきなのかを、悩んでいまして」

「やっぱり、悩むところはそこですよね」


 頭を掻く仕草をしながら、「んー」と悩む景。

 紗々里が事実を知ったら、当然怒りを露わにするだろう。もしかしたら、アニソン戦争を辞退したり、レコード会社を離れたり――という思考になってしまうことも十分にありえる話だ。


「茶谷Pがこれ以上動くか動かないかが問題だな」

「ですよね。プロデューサーを説得したいなら、結野さんに伝えるしかない気がします」


 伝えない方が、紗々里にとっては気持ち良く本番に臨めるだろう。真摯に戦おうとしているのに、こんな事実はあまりにも可哀相だ。

 でも。だけど。


「このまま放っておくのは、もやもやするんですよね」


 紗々里からしたら、こんな気持ちは大きなお世話かも知れない。幼馴染の恵麻が苦しむことになるならともかく、景と紗々里は無関係だ。本来なら、首を突っ込む必要なんてないのだろう。

 でもこれは、紗々里だけの問題ではないのだ。

 アニソン戦争の、そして「囚われのエリオット」のために、動かなければいけない。


「左山先生。結野さんに伝えましょう。残酷な事実ですが、伝えなければ先に進めないと思うんです」

「……ありがとうございます」


 まっすぐ鶴海を見つめて告げると、何故か鶴海はお礼の言葉を呟いた。透き通った白い頬がうっすらと朱色に染まっていて、どこか照れているように見える。


「私も、心のどこかでは伝えた方が良いと思っていたはずなんです。……一回りも年の離れた男の子に助けられるなんて、恥ずかしいですね」

「い、いや! そんなことないですよ!」


 苦笑する鶴海に、宇多が全力で否定する。景は隣で笑いながら、内心「一回りって……二十五歳くらいってことですかぁ!」と衝撃を受けていた。確かに大人っぽい雰囲気は感じていたが、二十歳前後かと思っていたのだ。


「では、かけますね」


 携帯電話を手に取り、鶴海はじっと画面と向き合う。景も宇多も真剣な面持ちで鶴海の様子を窺ったが、やがて二人して顔を見合わせることになった。

 携帯電話と見つめ合ったまま、鶴海がまったく動かないのだ。


「……左山先生。通話ボタンを押したら僕に貸してくれませんか? 一応結野さんとは顔見知りですので、僕から話しますよ」

「……すみません。事実を伝えなければと思ったら緊張してしまいまして……」

「あはは。僕も同じ気持ちですが、頑張りますね」


 きっと、「頼りたい」より「頼られたい」と思わせてしまうこの感じが、鶴海を若く感じさせる理由なのかも知れない。なんて、恥ずかしさで縮こまる鶴海を見て景はひっそりと思うのであった。



 鶴海から携帯電話を受け取ると、紗々里はすぐに電話に出てくれた。


『左山先生、どうされました?』


 落ち着いた紗々里の声。

 鶴海から電話がかかってきても何も思わないということは、やはりまだ知らないのだろう。鼓動が早まるのを感じながら、景はゆっくりと口を開いた。


「すみません。左山先生ではなく、加島恵麻さんの幼馴染の仁藤景なのですが」

『……何で?』


 もっともな疑問をぶつけられ、景は言葉を詰まらせる。さてどこから説明したものかと、景は思考を巡らせた。


『左山先生もそこにいるってこと? ……状況的に、ただごとじゃないような気がするんだけど。あたしの気のせい?』


 どうやら、紗々里は察しの良いタイプのようだ。景が頷くと、「わかった。ちゃんと覚悟するから、言ってみて」と、今はまだ冷静な言葉を返してくれる。伝える側の景にとっては、だいぶ助かる対応だった。


「実は、先程左山先生とばったり会いまして。助けを求められたんです。そちらの茶谷プロデューサーが出版社を訪れて、結野さんを勝たせて欲しいと頭を下げたそうで……」


 紗々里からの返事は、すぐには返ってこなかった。ちょっとした息遣いすら聞こえてこない。呼吸を忘れる程に、絶句しているのだろうか。


『あたしは……もっとこう、アニソン戦争が中止になったとか、アニメ化自体がなかったことになったとか、そんな重大なことが起こったのかと思ってた』


 しかし、紗々里は予想外の反応を見せた。意外とショックを受けていないのだろうか。でも、紗々里は茶谷と真逆の行動を取っている。衝撃を受けない訳が――


『自分の想像とまったく違ってて、ビックリした。茶谷さんは、そんな人じゃないと思ってたから。……ほんっとうに、許せない』


 なかった。そうだ、ショックに決まっているのだ。「許せない」という紗々里の言葉が、怒りに震えているように聞こえる。


『つまり、色んな人に迷惑かけてるって訳……か。左山先生にも、あなたにも……加島さんにも。ごめん……いや、ここで言っても仕方ないんだけど』

「結野さん、落ち着いてください。大丈夫です、あなたが悪くないことはわかっていますから」

『……仁藤さん、だっけ。伝えてくれてありがとう。ここから先はあたし達の問題だから。ちょっと、行ってくる』


 行ってくる、とは。つまり、茶谷本人に抗議しに行くということだろうか。いや、どう考えてもそうだろう。茶谷に言いたいことなんて、山程あるはずだ。


「ちょっと待ってください! 僕も協力します!」


 反射的に、景は叫んでいた。これ以上首を突っ込む理由はなんだろう。本人の言う通り、ここからは紗々里と茶谷の問題だ。首を突っ込む理由なんて、ないはずだ。宇多も鶴海も、驚いたように目を見開いている。


『何言ってるの、これ以上迷惑はかけられない。だいたい、あなたは関係ないでしょ』

「いえ、あります」

『何で!』


 荒げた紗々里の声が耳に響く。きっと、怒っているのだろう。

 だからこそ、はっきりと、しっかりと。景は告げた。


「大切な人の、大事な戦いのためですので。僕も、頑張りたいんです」


 馬鹿なことを言っているだろうか。でも、これが自然と口から零れ落ちた、景の本音だった。もう、食い下がる気にはなれない。


『何それ、馬鹿じゃないの』


 冷たい声に、困惑の色が混ざる。強がっているようにも聞こえた。


「すみません、馬鹿なもので。あ、でも成績は結構良いんですよ」

『そんなこと聞いてないんだけど。……もう、仕方ないな』


 半ば諦めたように、ため息交じりに紗々里は呟く。


『あたしは今からシトリンレコードの本社に行く。茶谷さん、今本社にいるみたいだから。来たいなら来ても構わない』

「何故、茶谷プロデューサーが本社にいると?」

『話があるってメールしたからに決まってるでしょ。それじゃ、もう出るから』


 紗々里としては、一刻も早く抗議をしに行きたいのだろう。もう良いでしょ、と言わんばかりにプツリと電話を切られてしまった。

 景は切れた携帯電話の画面を見つめたまま、考え込む。実際問題、自分に協力できることはなんなのか。ただの一般人がついていても、できることなんてないんじゃないかと思う。

 でも、紗々里は「来ても構わない」と言ってくれた。

 だから、景は行くのだ。


「左山先生、犬間さん。ちょっと行ってきますね」


 鶴海に携帯電話を返しながら、景は何ごとでもないように告げる。鶴海も宇多も、当然のように茫然としていた。


「いやいやいや、行くってどこへっ?」

「シトリンレコードの本社です。そこに茶谷プロデューサーがいるらしいので、結野さんは話をしに行くと」

「いや、うん。なんとなくそれはわかってたんだが……マジで仁藤もついて行くのか?」


 宇多の笑顔が引きつっている。宇多にも呆れられてしまっただろうか。でも今は宇多や鶴海にだらだらと説明している暇はない。

 景はハンドバッグを手に取り、立ち上がった。


「あ、あの……私もついて行った方、が……」


 思い切り動揺を露わにしながら、鶴海は震えた声を出す。鶴海としても、あまり茶谷とは会いたくないだろう。相談してくれただけでも、鶴海は十分頑張ったと思った。なんて、年下のくせに格好付けたことを考える。


「ええと、あまり無理をなさらない方が……。すみません、偉そうに」

「……あぁ。情けないですね、本当に。……こちらこそ、すみません。本当は、その……怖くて。私じゃ力になれそうにないんです」


 必死に絞り出したような声だった。言葉通りに、自分のことを情けないと思っているのかも知れない。でも、こんな事態になるなんて誰も想像していなかった。鶴海が取り乱すのは仕方のない話だし、何より原作者が背負う問題ではない。

 まぁ、無関係の景が首を突っ込む問題でもないのだが。


「大丈夫ですよ。茶谷プロデューサーとの話が終わったら、結野さんから左山先生に連絡するように伝えておきますね」

「……お願いします」


 鶴海は立ち上がり、深々とお辞儀をする。何だか申し訳なくて、つられて景も頭を下げた。一方で宇多は、険しい表情をしている。


「勝手な行動をして、怒っていますか?」


 思わず、景は訊ねてしまう。宇多の表情は変わらなかった。


「いや。お前の行動力は相変わらずすげーなって思っただけだよ。俺には真似できねぇ。そんな性格ならなんで……」


 何かを言いかけて、宇多は苦笑する。


「って、そんなだらだら話してる場合じゃないよな。ほら、行ってこいよ」

「……あっ、はい! 行ってきます!」


 宇多が何を言おうとしたのか。少しだけ気がかりに思いつつも、景はようやく席を離れ、店の外に出る。

 向かう先はもちろん、シトリンレコード。

 アニソン戦争を、ちゃんとアニソン戦争にするために。景は駆け出すのだった。

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