3-5 片思い
シトリンレコードの外に出ると、辺りはもちろん真っ暗だった。部活も習いごともしていない景にとって、こんなにも遅い時間に外出しているなんて珍しいことだ。しかも制服姿で。外に出たことで、ようやく思い出したように腹の虫が鳴った。
(あぁ、お腹が空きましたねぇ)
なんて呑気なことを思っていると、目の前に驚きの光景が広がっていた。
「うえぇぇっ? ゆ、結野さんいきなりどうしたの……?」
いきなり、紗々里が恵麻に抱き着いたのだ。背が低い恵麻は、紗々里に埋もれるような形になっている。当然のように恵麻は戸惑っているが、紗々里はなかなか離してくれなかった。
「ごめん。……本当は、怖くて」
先程よりもか細い声が、紗々里の口から漏れる。
「何もかもが崩れ落ちたらどうしようって。怖かった……から」
紗々里の表情は、景からはよく見えない。でも、震える声は強くこちらに伝わってきた。もしかしたら、泣いているのだろうか? 芯が強い紗々里からは想像ができないが、今の紗々里は凄く弱々しく見える。
恵麻に心を許してくれている。その事実が、景にとっては嬉しく思った。
「うん、そうだね。私も怖かったし、私が力になれたかどうかは……微妙なところなんだけど。あはは……」
自虐するように苦笑しながらも、恵麻は紗々里から離れて頭を優しく撫でる。ようやく紗々里の表情を確認できたが、瞳がうっすらと赤くなっている。ような気がした。
「あなた達とは慣れ合わないって、あんなに頑なだったのに。はぁーあ、馬鹿みたい」
悔しそうに口を尖らせながら、紗々里はそっぽを向く。さっきからコロコロと表情を変える紗々里を見て、景は思わず微笑んでしまう。冷静だったり攻撃的だったりする姿しか見ていなかったから、新鮮でたまらない。
結野紗々里という人物は、アーティストとしてもそうだが、人柄ももっと色んな人に知ってもらいたい。なんて、景はひっそりと思っていた。
「でも、本当に。私は何もできなかったよ。……全部けーくんのおかげ、みたいな?」
すると、いきなり視線をこちらに向け、話を振られてしまう。このまま女同士の友情で自分は傍観者で良かった――と思っていたが、そうもいかないらしい。
紗々里は景を見て、深めのお辞儀をする。
「あたし一人だったら、本当にレコード会社を変えるとか無茶なことを言ってたと思うから。……二人のおかげです、ありがとう……」
ぼそりと、恥ずかしそうに呟く紗々里。
恵麻が嬉しさ満開にニヤニヤと笑うと、紗々里はわざとらしく咳払いをして誤魔化した。そして何故か、景に近付いてくる。
「まぁ、僕も何もしてないようなものですけどね。犬間さんのくれた情報のおかげです」
「……その人って、あなたの友達?」
「あ……はい、そうです。囚われのエリオットが好きで、結野さんのファンでもあるんですよ」
「そう。……そんなことより、さ」
特に興味のなさそうな声色だ。なんて、思っている場合じゃなかった。
近い。近すぎる。
――と、思う間もなかった。気が付けば紗々里が真横に立っていて、顔を近付かせるように背伸びをしてくる。
(ちょ、ちょっと待ってください、いったい何を……っ)
流石の景も、一瞬困惑してしまった。もしかして頬にキスをするつもりなんじゃ、と訳のわからない妄想が頭によぎる。でも仕方のない話なのだ。いくらなんでも接近しすぎだし、本当に唇が触れてしまいそうで、頭がくるぐる回る。
とにかく紗々里から離れなくては。
咄嗟に思って離れようとしたのだが、遅かったようだ。
「あなた達って……本当に付き合ってないの?」
耳元に響き渡る、紗々里の囁き声。
紗々里はすぐに景から距離を取り、まるで小悪魔のように小首を傾げながら微笑む。そんな紗々里の姿を見て、景は心の底から安堵していた。「何だただの耳打ちか」と、肩の力を抜く。
「はい、本当に付き合ってませんよ。まだ、僕の片思いですから」
恵麻に聞こえないように気を付けつつ、景は小声で紗々里に告げる。堂々と片思い発言をするというのも悲しい話で、景は思わず苦笑した。
「……へー、ふぅん。そっか、そうなんだ」
一方で紗々里は、徐々に楽し気な笑みを消していた。景の返答が想定外だったのか、視線がきょろきょろ動いていて落ち着きがない。
「あなたって……変わってるのね。いくらなんでも、正直者すぎるんだけど」
「すみません。でもこれが事実なので」
笑いながらへこへこ頭を下げると、紗々里はわざとらしく大きなため息を吐く。
景だって、まったく心がざわつかない訳じゃなかった。何故、改まって「付き合ってないの?」などと訊ねたのか。
もしかしたら、自分に気があるのでは……という考えが、一ミリもない訳ではない。でも、だからと言って自意識過剰に思いたくもないのだ。ただの勘違いだったら馬鹿みたいだし、だいたい自分には想い人がいる。まぁ、恵麻への気持ちについてはたった今自分の発言で気付いたようなものだが。それくらい、恋愛に関しては無頓着だったのだ。
「あ、あああ、あのぅ、二人とも……?」
すると、少し距離を取って眉根を寄せた恵麻が声をかけてくる。景と紗々里を交互に見ていて、戸惑っているのが丸わかりだ。自分でも紗々里との距離が近すぎることはわかっていたため、恵麻に向かって苦笑してみせる。
しかし、紗々里は逆に恵麻を煽るように、ニヤリと笑ってみせた。
「ああ、何でもないから。……あたしと仁藤さんの秘密」
「…………ほぁ」
紗々里が楽し気に、景を見つめてくる。恵麻は目の前の状況が上手く整理できないのか、不思議な声を漏らして口を開いている。
「確かに恵麻さんには言えませんけど、違うじゃないですか!」
「……私には、言えない……?」
誤解を解こうと口を開いても、恵麻の困惑を広まるばかりだった。「ああ違うんです恵麻さん!」と心の中で叫んでも、真実を述べる訳にもいかない。いったいどうしたら良いのかと、妙な緊張感が襲う。茶谷と話していた時とはまた違う緊張感だ。
「あなた達ってただの幼馴染なんでしょ? だったらあたし達の仲なんて気にしなくて良いと思うけど」
何が楽しいのか、紗々里は煽り続ける。お願いだからもうやめて欲しい。
「そっ、それは! ……そう、だけど」
納得されてしまった。何だか悲しい。
とか思っている場合ではない。自分のためにも、そろそろ止めなければ。
「恵麻さん、結野さん。今日はもう遅いです。そろそろ帰りましょう」
「そう、もう終わり? せっかく腹いせにあなた達をからかってたのに」
腹いせ、とはいったい何なのだろうか。
今日の茶谷に対するものなのか、それとも……。
「……何よその目は。リア充に怒りをぶつけて何が悪いって言うの」
「いやいや、ですから僕達はただの幼馴染だと何度言ったら……」
「だから幼馴染っていう設定自体がリア充だって言ってるでしょ。それにこのっ……この感じとか!」
景と恵麻を指差して、紗々里はふくれっ面になる。「この感じ」とはいったいどういう感じなのかはわからないが、何だかとても理不尽なことを言われている気がする。
しかし、
「あたしは少なくとも二十歳までは恋愛禁止って事務所から言われてるのよ。アイドル声優でもないのに、ホント意味わかんない……」
と、吐き捨てるように言われてしまい、何も言い返せなくなってしまった。恵麻もようやく戸惑いが消えたようで、そっと紗々里に近付く。
「そっか、色々大変なんだね」
紗々里の肩をポンポン叩きながら、恵麻は優しく微笑む。
露骨に顔を歪める紗々里の姿がそこにはあった。
「……さっきはからかって悪かったわよ。仁藤さんとは本当に何もないから。勝手にリア充していれば良いじゃない」
「結野さん……」
「憐れみの目で見るの、やめて欲しいんだけど」
先程までの生き生きっぷりはどこへやら。桔梗色の瞳は死んでいるように濁って見える。景も知らず知らずのうちに憐れみの視線を送っていたのだろう。死んだ瞳を向けながら、紗々里は小さなため息を吐く。
「……とにかく、もうお礼は言ったから良いでしょ。あたし、もう帰るから」
「待って、結野さん。……ありがとうね」
そそくさと帰ろうとする紗々里を、恵麻が呼び止める。
「何で? あたしがあなた達を頼っただけなのに」
訝しげな表情の紗々里に、恵麻は何でもないように言い放つ。
「結野さんと戦えるの嬉しいから。だから、ありがとう」
「何よそれ。……でも、さっきも言ったけど、最高の曲ができたから。勝つのは絶対にあたしだから。アニソン戦争に参加できるだけでも、感謝しなさいよね」
捨て台詞のような言葉を言い放ち、今度こそ紗々里は去っていく。
思わず、景は恵麻と顔を見合わせて笑ってしまった。紗々里が格好付けて立ち去ったから、というのももちろん理由の一つだろう。でも、それだけではないのだ。
一瞬だけ見せてくれた表情が、嬉しくてたまらなかったのだ。まるで恵麻の鏡のようだ、と言っても過言でもないくらいに。自信満々で楽しそうな笑みをしていた。
恵麻と紗々里がアニソン戦争で戦う。
当たり前のことなのに、じわじわと嬉しい気持ちが湧き上がってくる。
ただの傍観者の景がそう思うのだから、戦う本人達はいったいどんな気持ちなのだろう。「私達も帰ろっか」と、自然な微笑みを浮かべる恵麻を見て、景は心の底からアニソン戦争を楽しみに思うのであった。
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