ロング・ロスト・フレンド 4

 どうしようもなく、頭がぐちゃぐちゃだった。

 なんとか、なんとかこころを殺して振る舞っていた。


 二日間空けていた自分の部屋に入ると、壁にかけたお気に入りのTシャツがわたしを出迎える。読みかけだったり、まだ読んでいない本が重なった勉強机。先生から無期限で借りているクリーム色のベース。高校二年生の女の子にしては、あまりにも男性的な部屋だ。夏の締め切った空間の匂いがした。


 わたしは荷物の詰まったバッグを、辛うじて丁寧に置くと、そのままベッドにうつ伏せで崩れ落ちる。四肢に力が入らない。カーテンすら開けず、薄暗く蒸し暑い夏の昼下がり、いまのわたしにはお誂え向きだ。

 いけない、メイクが枕に付く。

 いや、いいか、ぜんぶ面倒だ。

 安っぽい虚無感に安心する。


 だってそうだろ、優有。おまえは、今でも中途半端なやつだ。周囲が優しい人ばかりだから、それに甘えて、まるで自分が人並みになれたなんて勘違いしている。一番大事なことを先延ばしにして、ぬるま湯に浸かりきってる。


 みんなが受け入れてくれるなんて、思い上がりも甚だしい。全部自分に返ってきた。自分が、どちらでもないなんて曖昧な態度をしていたから、嶺があんなことになったんだ。あいつの前でだけ、昔に戻ったように振る舞って、なんて残酷なことをしてきたんだろう。そのくせわたしはメイクをしたり、静音達とじゃれあったり、たまのおしゃれをしたり。


 嶺はぶっきらぼうでも、根はやさしいから、きっと辛かったと思う。昨日だって、ずっとわたしのことを強いなんて言っていた。

 そんなことないよ、わたしはみんなのおかげで倒れてないだけ。自分から、立てるスペースを削り取っていることを、見ないふりしてたんだ。


 自己嫌悪で、押しつぶされそう。息がしづらい。いつのまにか、涙が溢れていた。鼻水だってひどい。これが枕を濡らすってことか、なんてどこか冷静に思ってしまう。嫌だ、自分が何者なのかわからなくなる。おれ? わたし? 今いる部屋は誰のもの? あのシャツは? 擦り切れるほど読んだ十五少年漂流記は? 俺はこのまま消えていっちゃうの?


 消えてしまいたいよね。楽になりたいよね。


 ぐるぐるまわる思考のなか、右手で左腕を掴む。薄く盛り上がった傷跡が、感触だけでかたちをつたえる。

 どうしたって、俺はあの薄暗い部屋に囚われている。深海魚のように、蹲って、自分の毒で自分が死ぬのを待っている。


 思考の果てに吐き気がした。なんとか姿勢を変え、仰向けになる。幾分か息がしやすい。全身に脂汗をかき、顔はもうぐしゃぐしゃで、髪もボサボサになっている。あとで、ちゃんとブラシかけなきゃ……。あと、洗濯もしなきゃ——。



 目を開けると、そこは懐かしい部屋だった。カーテンがふわりと風に揺れ、昔遊んだ山の稜線が見える。

 ああ、実家の部屋だ。ベッドに横たわると、山の一部がよく見えるのを思い出した。


 気付けば、あまり着ることのなかった、ブカブカの母校の学ランを着た男の子がベッドの上に腰掛けている。耳にかかるくらいの黒髪で、まだ声変わりの気配のない細い首。これから伸びるはずだった身長に合わせて選んだ制服は、袖が拳2個分ほど余っていた。少し切れ長の目は眠たく、同じ年頃の少年にしては思慮深そう、または引っ込み思案そうな顔立ちをしている。


 まだ、『俺』だったころのわたしだ。

 そう気がつくと、『俺』はベッドに横たわるわたしを見る。


「よっ、俺。今はわたしか。なんだか久しぶりだな」


 わたしも何か言わなきゃと思ったが、口が金魚のようにぱくぱくするだけで、声が出ない。


「随分とぼろぼろになったよな。傷ついただけ俺も痛かったよ。まあ、今思えばアイツらは友達でもなんでもなかったわけだ。女の子になんてことすんだよ、な。おかげさまで人前で迂闊に着替えもできない」


 目の前の『俺』はそういうと、学ランの前を開け、シャツをめくり上げる。中学の時、いじめで受けた根性焼きの傷跡が、わたしと同じ場所にあった。左腕には自分でつけた切り傷の跡。


「それに、用務員のおじさんには頭があがらないね。もしもあのままだったら、絶対高校なんて進学しなかったっしょ」

 当時はまだ女性的に成熟していないわたしの体が面白くなかったのか、不良崩れのグループからいじめられていた。そのグループに引き込んだのは同じ部活の同級生だった。

 彼らのたまり場である、学校の普段使われない物置がいじめの舞台だった。あるとき、たまたま備品の確認に来た用務員のおじさんに見つかり助けられたわたしは、それ以来、学校に戻ることはなかった。


「嶺はそんなやつじゃないって、わかってるだろ? 嶺はかっこいいよな。無愛想だけど、それもまた男らしくて、男が憧れる男って感じ。頭もいいしスポーツもできる、なんかこのままの俺でも友達になってくれそうじゃん。部活帰りのコンビニとかでさ、買い食いとかして、くっだらない下ネタで笑いあったりしてみたかった」


 やめて、それ以上言わないで。


「でもさ、もしも俺が『俺』のままだったら、出会うはずがないんだよ。こうならなかったら、わざわざこんなところ来なかったよな。こんな音楽も聞かなかっただろうし。そしたら、たかぴー先生がイキったマーチに突っ込む事もない。喋るのが久しぶりすぎて、素っ頓狂な声を出す事もない」


「静音だって、美沙希だって、俊琉も、彩芽さんも、みんな知らない、どこかで生きてるだけの人だった」


「今は違うだろ。みんな、『わたし』に関わって生きてくれている。もう切り離せない。どこかの誰かじゃなくて、みんな名前がある」


「一人じゃ立てなくっても、恥ずかしくないよ」


「俺はおまえだ。消えやしない。一緒にいる」


「嶺も、きっとわかってる。あいつ頭いいからさ。俺なんかよりよっぽど」


「それじゃ、また」



 西日が差し込み、オレンジに染まった部屋で飛び起きた。泣き続けていたのか、目元がぼんやりと熱く、鼻水が止まらない。急いで手頃なティッシュを数枚取り出し、顔を拭った。

 ぼんやりと、今さっき見た夢のことを考えていると、体が失った水分を求め出した。いまこんな顔で家族に会ったら、絶対に心配される。しょうがない、バッグに飲みかけのお茶が入っている。多分まだ飲めるはずだ。たまらず一気に飲んでしまう。


 ぬっるい。


 でも、なんだかスッキリした。きっと、自分でももうわかってたんだ。全部自分で抱え込んで、意固地になって、無理する必要なんてない。周りの人の優しさに甘えるのって、何も悪いことじゃないよ。

 優しくされたら、その分誰かに分けてあげたい、初めてそんなことを思った。多分、みんなそうして暮らしている。もちろん優しい人ばかりじゃない。痛みも悲しみもたくさんある。それでも、みんな関係の輪に繋がっている。

 わたしだって、そんな輪の中にいてもいいんだ。


 わたしが、もしも『俺』のままでも、そんな人ができたんだろうな。


 切っても切り離せない、おれと一続きのわたしが、これからどうなるのかはまだわからない。

 ただ、「おれ」も「わたし」も自分を形作っている。すっかり女性らしくなったからだも、顔つきも、全部自分なんだ。


「嶺、ありがとう。うれしい。もっと、一緒にいたい」

 自分の膝を抱え込み、つぶやいてみる。

 こころがぞわぞわした。自分のしらない感情が湧き上がる。たぶん、悪い意味じゃない。まるで、住み慣れた家に、まだ知らない、素敵な部屋を見つけたような気分。

 本当に、嶺のことを好きになれるかはわからない。でも、その想いに応えてみたいと思った。


 このあと、枕カバーを化粧品と涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしたことを祖母に怒られながら洗濯した。

 ごめんね、嶺。返事はもうちょっと待ってほしい。すぐ、こたえるから。

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