断章:均衡と静穏
「ウェーブかけてみたい」「また何かに影響された?」
ある日の昼休み、優有と静音はいつものように机を向かい合わせ、昼食をとっている。なお、嶺は友人と学食へ行っている。ここ最近、昼休みに顔を合わせることが減ったように感じるが、何かあったのだろうか。
「実はね、この前たかぴー先生の奥さんに会って」
「え、マジで? どんな人どんな人?」
優有はポケットからスマホを取り出すと、カメラロールから写真を選択し、画面へ表示させる。先日、スタジオライブの際、カウンターのお兄さんにイベントポスターの前で撮ってもらったツーショットだ。二人でメロイックサインをしている。
「えーなんか意外ー! ゆーちゃんと同じくらいの背? というかなにこのポーズ」
静音はころころと笑いながら感想を述べていく。
「彩芽さんっていうんだけど、めっちゃかっこよくて優しくて、憧れるなーって」
「へぇそうなんだぁ会ってみたーい。あ、でも、ゆーちゃんにこのウェーブ似合うかな?」
「そうなの……?」
「彩芽さんはなんかアーティストっぽくてかっこいいじゃん。ゆーちゃんはどっちかというとほわほわしてるから、黒髪のままだとどうかな」
「なんと」
「ねー見て見てーこれたかぴー先生の奥さんだってー」
そう言うと静音は手に持ったスマホを周囲のクラスメイトに見せていく。
「えー見たーい!」「なんかかっこいい」「優有ちゃん迫力負けしてる」
「ちょっとちょっとわたしのスマホだからこれ」
静音からスマホを取り返すと、画面を消しポケットにしまい、みんなで笑い合う。
「ほらほら、ラムネあげるよ」「でた駄菓子屋優有ちゃん」
周りに個別梱包のラムネを渡していく。冬以来、配りやすいお菓子を常備するようになった。こういう時、雰囲気を和らげるのに使えるが、お陰様で四次元ポケットや駄菓子屋さんなどと呼ばれることもある。悪い気はしない。
その日の午後イチの授業中だった。急に教室前方のドアが開くと、知らない女性教員が飛び込んできた。現在授業中の担当教員に耳打ちすると、クラス全体に聞こえるように言った。
「菅原静音さんはいますか?」
静音の名が呼ばれる。
「ハイ。私です」静音は手を挙げ返事をする。
先ほどの教員が静音に駆け寄ると、同じように耳打ちをした。
「お父さんが!?」
途端に静音の顔が青ざめる。教員が静音の肩を抱き何かを告げると、静音は頷きながらカバンに荷物をまとめ始めた。
「菅原さんは諸事情で早退されます。授業中、失礼しました」
「しずちゃん……」
女性教員に付き添われながら、足早に教室を後にする静音を目で追う。
あの優しそうなお父さんに何かあったんだろう。胸がざわざわした。
『お父さんが交通事故で病院に搬送されました』
静音は走る。途中同じように小学校を早退した美沙希と合流し、タクシーで搬送先の病院へ向かった。
料金を支払うのももどかしい。泣きそうになりながらもそれを済ませると、美沙希の手を引いて受付まで走った。一分一秒が永遠にも感じる。
どうして、お父さん。お願い神様、私たちからお父さんまで奪わないで。どうしたらいいの。
美沙希とつないだ手は冷たい。美沙希も今にも溢れ出しそうな涙を必死に堪えている。
「あのっ、私!」
受付にたどり着き、要件を告げようとした時だった。
「おお静音、美沙希、こっちだ」
額に包帯を巻いただけの、実にケロッとした父がいた。
「えっ、お父さん……? 怪我は?」
思わず駆け寄り、ちゃんとそれぞれの部品が体についていることを触って確認する。
「どうした静音、くすぐったいからやめてくれ」はにかみながら姉妹の頭を撫でる。
「おとうさん大丈夫なの? 生きてる?」
涙腺がついに決壊した美沙希が安堵の表情で抱きつく。
「生きてるぞー。ぴんぴんしてる。大丈夫大丈夫」
どうやら、スマホによるよそ見運転に突っ込まれたらしい。社用車を運転していた父は、信号の無い横断歩道の前で念のため減速した。その横断歩道は以前から事故が多く、特に横断者が見えなくとも注意するよう周知されている。それが災いし、後続の軽乗用車が減速に気づかず追突してきたのだ。不幸中の幸いか、父の営業車は完全に停車していなかったこと、後部が長いステーションワゴンタイプの車だったこと、空荷だったこともあり、額をハンドルにぶつけた際の切り傷だけの軽傷で済んだのだった。搬送後の手当や検査の結果も、奇跡的に異常は見られないとのことだ。むちうちなどの症状が今後出る場合があるので、その際は改めて治療を行うことになった。
放課後、嶺に話しかける。
「ねえ、嶺。お見舞い行った方がいいよね」
「お、おう。いつもお世話になってるしな」
授業を終えた優有達は、静音からの連絡で、交通事故により父が搬送されたこと、命に別状はないことを知らされている。
「ここって、駅前の大きな病院だよね」
「ああ、学校の前からバスで行けるな。俺、井上先生に事情話してくるわ。昇降口で待ってて」
「うん。わかった」
嶺は顧問の井上先生に事情を話すべく、先に教室を出た。
どうするどうするどうする? あれから、なるべく二人になるのを避けてきた。定期的にやっている勉強会も、必ず静音や俊琉が参加できる日だけにしている。優有への意識を自覚した以上、どうしても今までのようには振る舞えなかった。
それなのに、この状況。二人きりでバスを待っている。喉が乾いた。
自分より随分と背の低い優有を見やると、心配そうにバッグの肩紐を弄んでいる。柔らかそうな白い指が悩ましい。視線に気がついたのか、顔を上げ目があう。切れ長な目に不安が揺れている。意外とまつ毛が長い。
「あれから返事ないけど、静音のお父さん大丈夫かな」
「あ、あぁ。そうだな……」
いつもより一層ぶっきらぼうな返事しかできない自分を殴りたいが、そうもいかない。病院方面へ向かうバスが到着し、二人で乗り込む。
「お、ちょうど空いてる。窓側座っていい? 酔いやすいんだ」静音達と話す時より若干砕けた態度で話しかけてくる。これは事情を知る同性の俺にだけ見せるすがただ。胸がチクリとする。
「ん」
返事すらうまくできないとは……。
二人並んでシートに座ると、バスが発車した。病院までは片道10分ほどだが、この状態の10分はどれくらい長く感じるだろうか。
優有はカバンを膝に乗せ、酔わないよう車窓から遠くを眺めている。緊張しているのだろうか、淡い色のリップを塗ったくちびるを噛んでいる。白い歯が少し見える。
——女の子の匂いがする。
俺は目を閉じてひたすらにトラックを全力疾走するイメージを思い浮かべた。
無限にも感じる10分が過ぎ、バスは病院の前へ滑り込む。アナウンスに従い、完全に停車すると席を立ち降車した。バス停から病院の入り口までは若干の距離がある。二人並んで歩いて行くと、入り口脇のベンチに座る静音達を見つけた。
三人並んでアイスを食べている。静音の父は額に包帯を巻いているだけの軽傷に見受けられた。
「あっ、あの、静音のお父さん、大丈夫ですか?」「おじさん、大丈夫だったっすか」それぞれ声をかける。
「嶺くんに優有ちゃん、ありがとう。ご覧の通りかすり傷だよ。どこも異常なし」
おじさんを挟んで座る静音と美沙希はうまそうにアイスを食べている。本当に大事なくてよかった。
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